第28話 坂本龍馬の死

第九章・崩壊 2<坂本龍馬の死>


 龍馬が下関から土佐へ行き、そのあと上方かみがたへ向かった頃、俊輔は再び長崎に来ていた。


 長崎での俊輔の身分はあいかわらず薩摩藩士と詐称さしょうし、活動の拠点も薩摩藩邸に置いていた。

 このとき俊輔が長州藩から命じられた任務は、イギリスとの連絡係としてイギリス領事館やイギリスの軍艦と連絡を取り合うことだった。ただし俊輔の親友であるサトウはすでに江戸へ帰って行ったので長崎領事のフラワーズや軍艦の士官たちと接触するようにした。


 俊輔が長崎に到着する少し前に、フランスからモンブラン一行が到着していた。

 前回、サトウが薩摩藩の家老新納にいろに対して

「薩摩藩はイギリスからフランスへ乗り換えたのか?」

 と詰問きつもんしていた時に名前が出ていた、軍事教官や技師などのモンブラン一行である。


 新納はサトウに対して「彼らが日本に到着したらすぐに帰国させる」と答えていたが、結局薩摩藩はモンブランたちを帰国させなかった。

 

 モンブランはまったく不思議な存在と言わざるを得ない。

 一応「伯爵」ということもあり、この長崎においては一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくが注目のまととなっていた。


 モンブランはフランス人ではあるが、幕府寄りの人間ではない。

 それはパリ万博で薩摩の味方をして、反幕府的な宣伝工作をおこなっていたことからも明らかであろう。それゆえフランス公使のロッシュも、モンブランの来日をいまいましく思っていた。ただしモンブラン本人は「フランス政府の了承を得て来日したのだ」と自称しているのである。


 ちなみにパリ万博の場面で少しだけ解説したように、フランスの本国政府は必ずしもロッシュの「親幕政策」を支持している訳ではなかった。

 フランスもイギリスを見習って中立的なスタンスに変わりつつあったのである。

 そういった目線でみれば、事実は不明だが、モンブランはフランス政府が日本へ送り込んだ「保険」、すなわち薩長側が勝った時のために用意した人物であった可能性もある。


 その意味では、ロッシュとモンブランの関係は、パークスとサトウの関係に似ている、と言えないこともない。

 要するにモンブランとサトウは薩長側が勝った時のための「保険」ということである。

 実際に英仏の外務省がどのような戦略を立てていたのか?その真実は定かではないが、客観的に見れば、そういう風にも見える。


 モンブラン一行が上海までやって来た時、五代才助さいすけともあつ)が上海までむかえに行った。

 薩摩藩がモンブランと関係を持つようになったのは、そもそも五代がヨーロッパへ行った時に様々な物産に関する契約をモンブランと結んだことによって始まったのである。

 そういった取引上の関係から、五代としてもモンブランをフランスへ送り返すことなど出来るはずもなかった。

 というよりも五代はむしろ、もっと積極的にモンブランを活用しようと頭を切り替えたのである。



 ある日、俊輔は五代と一緒に丸山の遊郭で飲んでいた。

 この物語では本当に女好きな奴らばかり登場しているが、五代もご多分たぶんれず女好きで有名な男である。

「五代さん、京では幕府が大政を奉還したという話ですが、これで戦争はなくなったということでしょうか?」

「伊藤くん、俺は商売のことは分かるが、戦争のことは分からんよ。戦争は戦争好きな奴らに任せておけばいいさ」

 この時すでに京都では大政奉還がなされていた。詳しいことは後で述べる。


 俊輔は話を続けた。

「イギリス領事フラワーズの話では、薩摩があの高速船キャンスー号を入手できたのはモンブランの協力が大きく、しかもほとんどモンブラン専用の船になると聞きました。一体あのモンブランという男は何者ですか?」

「いやなに、ただの金持ちのフランス人だよ。日本の大名のようなものだと思えばいい。彼が日本に来たのは『この国に平和をもたらすためだ』と彼は言ってるがね」

「ワシもイギリスへ行ったことがありますが、イギリスにもそんな変人はいませんでしたよ。一体何をたくらんでいるのやら。平和をもたらすどころか、思いっきり我が国をかき回してますよ、あの男は。とにかく、あのキャンスー号は幕府との戦争に使うんじゃないんですか?」

「さっきも言ったが、俺に戦争のことを聞いても無駄だよ。本当に何も知らんのだから。俺は産業を育てることにしか興味がない。よく富国ふこく強兵きょうへいと言うが、富国がなければ強兵はない。まずは産業を育てなければならん。我々は船を買っても、自分で修理することもできない。だから俺は今、グラバーと共同で小菅こすげにスリップ・ドックを作っているのだ」

「グラバーさんは今そのためにイギリスへ帰ってるんですよね。いつ日本へ戻ってくるんですか?」

「今年の暮れには帰ってくるだろう。しかしモンブランではないが、実際早く平和になってもらいたいものだな、伊藤くん。京の政局によっては戦争になるかも知れないし、ともすると、また幕府を苦しめるためと称して外国人を斬ろうとする奴が現れるかもしれん。そうなるとまたパークスが怒りだして今度こそイギリスにも見放されるだろう。もうそろそろ攘夷騒ぎは勘弁かんべんしてもらいたいものだ」

 五代は俊輔に対して「知らぬ存ぜぬ」を通しているが、五代は知っていながら黙っているのである。


 言うまでもなく、薩摩藩はキャンスー号を倒幕戦争で使うために買ったのである。

 船名は春日かすがまると名付け、以後、倒幕戦争における薩摩藩の主力艦となる。


 薩摩藩の秘密主義、というか情報管理体制は徹底しており、俊輔のような友藩の人間にも本当のことは明かさない。

 薩摩藩はモンブランと共謀きょうぼうして

「モンブランが個人的に使うために買ったものだ」

 という情報を意図的に流したのである。モンブランを前面に立てた一種の攪乱かくらん工作と言っていい。

 モンブランが派手に振る舞っている陰で、薩摩がこっそりと武力発動の準備をする、という作戦である。


 また、モンブランが上記のような慈善じぜん家のわけもなく、モンブランは薩摩藩に多額の融資ゆうしをおこなっており、もし薩摩藩の返済がとどこおった場合は

「横浜にいるフランスの軍艦を鹿児島へ差し向けてでも取り立てる」

 と、当時ヨーロッパに帰っていたグラバーが、出発前のモンブランから話を聞かされていた。ただし、以前紹介したようにグラバーはモンブランを酷く嫌っていたので(薩摩を最大の顧客としていたグラバーからすると商売がたきと思ったのだろう)多少話をっている可能性もあるだろうが。

 十一月八日、モンブランが乗った春日丸は長崎から鹿児島へと向かった。



 一方サトウは長崎から江戸に戻っていた。

 六月下旬に江戸を出発して以来、箱館(函館)、北陸、関西、四国、長崎と飛び回り、実に三ヶ月ぶりの江戸帰還だった。


 江戸に帰ってからのサトウは、仕事の面でも日本人との交流の面でも充実した日々を送っていた。

 高輪の公使館(接遇所せつぐうじょ)ではパークスの通訳や公文書の翻訳といった仕事をこなし、その合間を見て多くの日本人と交流を重ねた。柴山や南部といった薩摩藩士たちとの交流はもちろんのこと、幕臣との交流も欠かさないようにしていた。


 しかし彼らと話をしていると、どうも京都の様子がきな臭くなっているらしい。

 十月中旬を過ぎた辺りから特にそういった兆候ちょうこうが目立ってきた。もちろん、これは京都での大政奉還の動きを反映したものだった。


 パークスやサトウがこういった噂の真相について幕閣に問い合わせると、幕閣からは

「京都では朝廷の承認を前提として、幕府が有力大名の意見も参考にする合議制ごうぎせいを導入する方向で話が進んでいる」

 と回答があった。

 そういった話であれば、これまでイギリス(特にパークス)が幕府に勧めてきた案に近い話であり、パークスやサトウも好感を持ってその話を受けとめた。


 ところが、その数日後の十月二十一日、幕府の外国奉行がイギリス公使館にやって来て次のように説明した。

上様うえさま(将軍)は大政たいせい(統治の大権)を朝廷に奉還した。今後、幕府は朝廷の命令に従うことになった」


 これは、パークスは無論のこと、情報収集の仕事をしているサトウにとっても寝耳に水の話だった。

 何より数日前に幕閣から聞かされた話と比べても、幕府の立場が大きく後退しているではないか、とサトウは驚いた。


(私には幕府にも反幕府勢力にも大勢の友人がおり、日本の政治状況については誰よりも詳しく知っている)

 サトウにはこういった自負があった。

 特にここ一、二年は日本各地を回って様々な日本人と意見を交換してきた。ついこの前も西国を回ってきたばかりである。

 けれども、彼らから聞かされた話では、こんな事が起こるとは予想もできなかった。


 それはそうだろう。

 聞多も、木戸も、新納も、それに親友の俊輔も、誰もサトウにこんな話をしていなかったのだから。

 さればこそ、サトウはこの突然の知らせに衝撃を受けた。


 このことを受けてパークスは、サトウとミットフォードに大坂へ行って大政奉還の詳しい情報を収集するよう命じた。

 また、兵庫開港まであと一ヶ月少々と迫っていたので、その手続きを幕府と打ち合わせることも命じた。



 サトウが大坂へ行く準備をしていると、軍艦奉行の勝海舟がサトウの高屋敷たかやしきを訪ねてきた。


 サトウは勝のことを以前からよく知っていた。といっても、連絡を取り合うようになったのはここ半年ぐらいのことだが。

 幕府は陸軍の教練はフランスに、海軍の教練はイギリスに委任していた。その関係から海軍教官をイギリスから呼び寄せる打ち合わせなどで、サトウはこれまで勝と何度か会っていたのだった。


 勝はサトウに幕府の内情を語った。

「せっかく上様が平和的に事を収めようと大政を奉還されたというのに、江戸城ではそんな上様の真意を誰も理解しちゃいねえんだ。皆、もはや京都へ大軍を送って反対派を一掃いっそうせよ、といきり立ってるよ」

「勝さんは今度の大政奉還に賛成なんですか?」

「まだ詳しい事情がよく分からねえから何とも言えねえが、今の幕府には、幕府だけで国の舵取りができるほどの力はないよ。だったら一度大政を奉還して、有力大名と話し合って政治を決めようってのは悪くない話さ。確かパークスさんも同じ考えだったはずだが?」

「ええ、そうです。これまで通り幕府が中心となって政権を担当し、それを有力大名が補佐する形であれば問題はないでしょう。しかし、今度の大政奉還では今後、誰が中心になるのかよく分かりません」

「自然な流れでいけば、おそらくこれまで通り幕府、すなわち上様が盟主めいしゅになるだろうが、そこはオイラにもまだよく分からねえ。……実は、この大政奉還にはオイラの弟子だった坂本龍馬という男が一枚かんでるんだが、あいつは誰を盟主に据えようとしてるのかねえ?オイラに手紙でも書いて教えてくれりゃ良いのによ」

「坂本龍馬?誰ですか?」

「あれ?知らなかったかい?土佐の坂本龍馬を。この前、土佐や長崎に行ったって言うから知ってるかと思ったよ。今度サトウさんが大坂へ行ったら後藤象二郎にも会うんだろ?だったらその時に会えるかも知れねえな。ああそうだ。あいつに会ったら伝えてやってくれ。幕臣の中にはお前を憎んでる奴が大勢いるから身辺には気をつけろ、と勝が言ってたってな」


 サトウは龍馬の変名である「さいだに梅太郎」は知っていたが「坂本龍馬」は知らなかった。

 それで勝から坂本龍馬の名前を聞かされても分からなかったのである。



 さて、「大政奉還」について、である。

 この時、歴史の選択肢は三つあった。


 一、幕府がそのまま政権を握り続ける(幕府が薩長に対して戦争をしかける)

 二、薩長が武力によって幕府を倒す(薩長が幕府に対して戦争をしかける)

 三、両者の交渉によって幕府が政権の全て、または一部を手放す


 そして結局、この十月中旬の段階では「三」(大政奉還)に落ち着いた、という訳である。

 ただし、その中身を詳細に見てみると、真っ当な「交渉」が進められた訳でもなく、幕府が政権を手放すというのもあいまいな形のものであり、ただ単に「戦争を避けるために、問題を先送りしただけ」という結果に終わったとも言えよう。


 大政奉還を建白したのは土佐藩である。

 それに関与した有力者の名前を挙げれば山内容堂、後藤象二郎、そして坂本龍馬ということになろう。

 「徳川恩顧おんこの外様大名」という微妙な立ち位置にある土佐藩は、幕府と薩長のあいだを周旋する、という役目を買って出た訳である。

 その動きの背後で、すでに薩長が武力倒幕に動き出していたのはこれまで見てきた通りである。


 ところがちょうどこの頃、薩摩藩では出兵反対論が強くなっていた。

 薩摩藩内は武力倒幕で一枚岩になっていた訳ではない。

 西郷や大久保が強力に武力倒幕を推し進めてはいるものの、それに反対する保守的な意見も多いのである。

 実際このあとの歴史を見ても、西郷や大久保が維新革命を推し進めたことによって「武士」階級は姿を消すことになり、ひいてはそれが、後の西南戦争にもつながることになる。

 保守派が西郷や大久保に懐疑的であったのも、まさかそこまで先読みが出来ていた訳でもないだろうが、一概に頑迷がんめいと言い切ることはできないであろう。


 とにかくこのような藩内事情があったので薩摩は長州と約束していた出兵計画を延期せざるを得なくなった。

 これをうけて、長州でも挙兵を見送る意見が強くなったのである。これはちょうど、大政奉還運動が進められている頃のことだった。

 要するに薩長の武力倒幕派は挙兵計画を一時的に延期せざるを得ない状況にあり、ある意味この大政奉還運動を「時間稼ぎ」として利用した訳である。


 そして十月十四日、小松帯刀や後藤象二郎の周旋が実を結び、将軍慶喜は朝廷に「大政奉還」を上奏、翌十五日に朝廷から勅許された。


 この「大政奉還」の陰で、いわゆる「討幕の密勅」が岩倉具視たちによって作成されていた、というのは有名な話であろう。

 しかし結局、討幕の密勅は大政奉還によって無効となった。ただし、この密勅は別のかたちで効力を発揮することになった。


 薩長の武力倒幕派が自藩の保守派を説得するための道具として、この密勅を利用したのである。

 この密勅は正規の形で作成されたものではない。偽勅ぎちょくと言って差し支えない代物である。

 しかしながら、これは古今東西どこでも変わらない話というべきだろうが、極端に言ってしまえば「戦争するための理由」など、嘘だろうと何だろうと構わない。まさに「勝てば官軍」なのである。理屈などは勝った後に考えれば良い。


「こういった密勅を作ることができる有力な協力者(岩倉具視など)が朝廷内にいる」

 ということが重要なのである。


 自藩の保守派を説得するためには、それだけで十分だった。

 討幕の密勅が下り、さらに大政奉還が決定したあと、薩摩の小松、西郷、大久保は挙兵計画を進めるために三人とも鹿児島へ帰ることになった。この三人が同時に京都を留守にするというのは、これまでなかったことである。これを見ても、この三人がどれほどこの挙兵計画に勝負を賭けていたか、よく分かる。

 三人は途中、長州に立ち寄って藩主父子(毛利敬親たかちかおよび広封ひろあつ)と面会し、さらに木戸などと出兵計画の協議をして十月二十六日、鹿児島に到着した。


 三人の見込み通り、討幕の密勅が効力を発揮し、薩摩藩は、藩主・茂久もちひさ忠義ただよし)が兵を率いて出兵することを決定した。

 そしてこの出兵計画にモンブランが長崎から乗ってきた春日丸が使われるのである(他にも数隻の蒸気船が使用された)。

 ただしモンブランは、自身は出兵について行くつもりだったようだが、しばらく薩摩に残ることになった。彼が五代と一緒に上方かみがたにのぼるのは、鳥羽伏見の戦いがはじまる直前のことである。

 また、小松帯刀は足痛の病気が原因で出兵には参加せず、鹿児島に残ることになった。

 以後、薩摩藩は西郷と大久保が中心となって武力倒幕計画を進めていくことになるのである。



 サトウとミットフォードは十一月五日に横浜を出発して、大坂へ向かった。

 この大坂行きにはサトウの従者の野口富蔵および遠藤謹助、さらにサトウ専属の六人の別手組も同行した。

(京都や大阪では一体何が起きているのか?そしてこれから何が起こるのか?)

 サトウには想像もつかなかったが「おそらく戦争になるのではないか?」という漠然とした予感を抱いていた。サトウはこの頃、自身の日記に

「“終わりの始まり”が開始されようとしている」

 と書いている。


 三日後、サトウたちは大坂に着くと、サトウもよく知っている幕府役人の柴田剛中たけなか(元外国奉行。この頃は大坂町奉行兼兵庫奉行)に会い、大坂での公使館事務所、外国人居留地、また兵庫(というか厳密には神戸村)における領事館の開設などについて話し合った。さらにその後、現地へ検分にも出かけた。


 また諸藩との接触では、薩摩藩の吉井幸輔、また土佐藩の後藤象二郎に手紙を送って接触をはかった。

 もちろん女好きのサトウとミットフォードは夜になるとサトウ専属の別手組の隊士たちも引き連れ、大坂の町へ出かけて芸者たちと遊びまわっていた。

 後年、サトウは手記で次のように語っている。

「我々が江戸で、時々敵意をふくんだ冷淡な対応をされていたのに比べると、大坂の女たちは全然こわがりも嫌がりもしないので、ちょっと不思議な感じがした。明らかに彼女たちは、何よりも好奇心をおさえきれなかったのだ」


 またこの頃、よく知られているように関西の町中では「ええじゃないか」で大騒ぎとなっていた。

「燃えるような真っ赤な着物で、踊りながら『イイジャナイカ』をくり返し叫んでいる人波をかきわけて行くのはなかなか大変だった。彼らは頭の上に赤い提灯をかざしながら踊り狂い、ほとんど我々の通行に気づかなかったのだが、私の別手組が乱暴に彼らを押し分けて道をあけさせるので、ケンカになりはせぬかとハラハラした」



 そして十一月十九日になった。

 この日、サトウのところに薩摩の吉井幸輔がやって来た。

 サトウは以前何度か吉井と会ったことがある。

「吉井は小柄で快活だが、薩摩弁丸出しでしゃべる男である」

 とサトウは評している。


 吉井はサトウやミットフォードに対して上方の政治状況を説明した。

「現在、薩摩、長州、芸州、土佐が協力して新しか政府をば作るためにきばっておりもす。幕府は都に約一万の軍勢を擁し、我らはその半分の軍勢でごわす。じゃっどん、おいたちはとことん幕府を追いつめて、目的を貫徹するつもりごわす」


 このあと吉井はサトウに「才谷梅太郎(坂本龍馬)の死」について語った。


 この日のサトウの日記(『遠い崖』6巻(萩原延壽、朝日新聞社))からそのまま引用する。

「わたしが長崎で知った土佐の男、才谷梅太郎(坂本龍馬)が、数日前、京都の下宿先で、まったく姓名不詳の三名の男に殺害された」


 龍馬と中岡が近江屋で襲撃されたのはこの四日前、すなわち十一月十五日のことである。

 サトウの日記で「龍馬の死」について書かれているのは、これだけである。



 この翌日、サトウとミットフォードは西長堀にしながほりの土佐藩邸(蔵屋敷、現在の土佐稲荷神社の辺りにあった)を訪れて後藤象二郎と中井弘蔵こうぞう(後の弘、桜洲おうしゅう)に面会した。


 大政奉還を成功させ、新しい政府のかたちを模索していた後藤は、サトウたちにイギリスの政治体制について色々と質問した。

 実はこの三週間前に後藤は、中井を江戸のサトウのもとへ派遣していた。

 その時中井はサトウに大政奉還の内容を伝え、さらにイギリスの政治体制について質問したのだが、サトウは自国の政治体制について詳しく説明できなかった。それで後日ミットフォードと大坂へ行った時に説明する、と答えていたのだった。


 ちなみにこの中井弘蔵は、後藤の縁者ではあるが土佐人ではない。元々は薩摩人である。薩摩藩を脱藩して、その後、土佐の後藤象二郎に拾われるかたちで土佐藩に身を置くようになった。

 中井は龍馬の友人でもあったのだが、その龍馬は土佐藩を脱藩したあと一時薩摩に身を置いていたので龍馬と(逆バージョンだが)境遇が似ている。

 中井は後藤の援助で前年の秋にイギリスへ短期留学しており、この年の四月に帰ってきた。そして六月には龍馬と一緒に薩土盟約の締結にも協力していた、という人物である。

 余談ながら、後の井上かおる(聞多)の「鹿鳴館外交」で知られる“鹿鳴館”は中井が命名した。そしてその井上馨が中井の妻である武子たけこに手を出して嫁にした、というのも以前紹介した通り、有名な話である。


 ミットフォードはイギリスの議会制度を詳しく後藤に説明した。

 しかし後藤にとっては初めて聞く話ばかりだったのでなかなか理解できなかった。そこで後藤はサトウに相談した。

「いっそのこと、日本のことに詳しく、日本語もできるあなたが新しい日本政府の政治顧問になってくれれば一番話が早いかも知れませんな。どうです?そういった話に興味はありませんか?サトウさん」


 サトウは唐突な申し出を受けてさすがに驚いた。

「……私はイギリス政府の官吏かんりとして働くことに満足しているので日本政府に仕える訳にはいきません。ただし、あなた方が外国人を政府に雇い入れようとするのなら、その国の公使に申し込んでください」

 こう言ってサトウは申し出を断った。


 おそらくサトウが日本政府に雇われれば相当の地位と年収が得られたであろうことは容易に想像できる。

 それゆえサトウも、この提案に少しは魅力を感じたであろうが、断った。


 なぜならサトウの夢は「イギリスのジェントルマン(貴族)になること」だったからである。


 このあと話はイカルス号事件のことに移った。サトウは後藤に対して意見を述べた。

「長崎での裁判で一応土佐藩の嫌疑は晴れましたが、二人のイギリス人が日本人に殺された事実は消えていません。我々はこれからも責任を追及し続けます。日本に新政権が誕生すれば、その政府に責任を取らせるつもりです」

「あなたの気持ちはよく分かる。私も先日、坂本と中岡という二人の部下を暗殺されたばかりだ。特に坂本にはイカルス号の事件で大変苦労をかけた。いずれの暗殺事件も、犯人は必ず見つけ出すつもりである」


「ちょっと待ってください……。先日殺された土佐人で、イカルス号の裁判に出ていた男は才谷梅太郎という男ではなかったですか?」

「そうです。その男の本名は坂本龍馬というのです」


 これでサトウは「ああっ!」と思った。

(そうか!勝が言っていた『幕臣に命を狙われている土佐人の坂本龍馬』とは、才谷梅太郎のことだったのか!結局、勝の伝言は間に合わなかった訳だな……。確かに長崎で見たあいつは不敵な面構つらがまえで、敵がたくさんいそうな奴だったが、そうか、あいつが坂本龍馬だったのか。後藤と一緒に大政奉還に関与したということは、存外大物だったのかもな……。まてよ?なんだか以前どこかで『あいつは、実は大物なんだ』という話を聞いたような……。うーん、思い出せない。やはり気のせいか……)



 さらに翌日、サトウは西郷吉之助と面会するために薩摩藩邸へ行った。

 西郷が藩主・茂久とともに春日丸に乗って大坂へやって来たのはこの前日のことだった。率いてきた薩摩兵は約三千人である。


 サトウは西郷に会っていろんなことを質問してみたが、西郷の反応は鈍かった。

 もともと薩摩隼人は無口なのだが、そのうえ時期が時期だけに、西郷の口はことのほか堅かった。

 サトウは、イカルス号事件については新政府が責任を取らねばならない、という話や、モンブランとフランス人士官たちの動静について西郷に質問するなどした。

 けれども西郷はそれらの問いかけを軽く受け流した。


 無理もあるまい。もはや西郷の頭の中は幕府追討のことで一杯なのだ。

 イギリスとフランスの二国が内乱に介入してくる可能性は、現時点ではかなり低くなっていた。

 あとは「いかにして幕府から政権を奪い取るか?」西郷は今、そのことしか考えていなかった。


 この西郷との面会で、サトウは新しい情報を何も得られなかった。

 だが、それゆえに、西郷がただならぬ決意をしているということを直感的に感じ取った。

 「やはり西郷は戦争をする気か」と。

 以後、鳥羽伏見の戦いが終わるまで、サトウが西郷に会うことはなかった。



 その数日後の夜のこと。

 サトウとミットフォードは「ええじゃないか」で騒がしい大坂の町へ出かけ、例によって芸者の店で遊んでいた。

 サトウが酒を飲んでいると、従者の遠藤がやって来て手紙を渡した。

「なじみの女から手紙が来た。ちょっと席を外すからゆっくりと飲んでてくれ、ミットフォード」

「わかった。代わりに私は、ここにいる芸者を独り占めするとしよう」


 サトウが別室へ行くと、そこにはなじみの女ではなくて、俊輔が座っていた。

「やあ。この店にいると遠藤から聞いたのでね。ワシも女たちと一緒に酒を飲みたいところだが、今夜はあなたとサシで飲みたい。ちょっと付き合ってくれないか?」

「伊藤さん。よくも私をだましてくれましたね。私もあなたに一言、文句を言ってやろうと思ってたんですよ。どうやらあなた方は戦争すると決めたようですね」

 とサトウは微笑みながら言い、席に座った。


「このような秘密のくわだてを外国人に話せる訳がないでしょう?我々日本人も“老婆ろうばの理屈”で終わらせる気はありません。やる時はやりますよ」

「もう、戦争を避ける道はないんですか?」

「ありません。私は今日、ロドニー号で兵庫に着いて、坂本龍馬が死んだことを初めて知った。もう幕府とのあいだを周旋する人間は誰もいなくなった」

「……思い出しました。長崎であなたと酒を飲んでいた時のことを。あの才谷こと坂本龍馬は、実は様々な関係を周旋してきた大物だったんですよね?」

「その通り。ワシはあの男の周旋能力にはまったく感服していた。生きていたら将来、大政治家になったろうに。ワシはいつか、あの男を超える政治家になってみせる」

「しかしあなた方は幕府に勝てますか?伊藤さんも大坂湾にいる開陽丸を見たでしょう?あなた方がキャンスー号(春日丸)を手に入れたと言っても、開陽丸には勝てないでしょう」

「まったくだ。あれが一番厄介やっかいなのだ。こちらにロドニー号でもあれば勝てるんだが……。おっと、いかん、いかん。また木戸さんに怒られてしまう。他国をアテにしてはならん、とな」

「幕府との戦争は大戦争になるでしょう。大勢の人間が死にますよ。この大坂も焼けてしまうかも知れない。本当にそれで良いんですか?」

「ワシも戦争で人が死ぬのは嫌だ。だが、幕府は倒さなければいかん。これは坂本龍馬の悲願でもある。武士の世を終わらせて、能力のある者が力を発揮できるような世にせねばならん。そして天皇みかどを中心とした国を作り、いつかは藩も無くさなければならんのだ」

「そんなのは夢物語です」

「ああ、まさしく夢のような話だ。しかし何年かかっても、日本はこれをやらねばならん」

「我々外国人は日本の内戦がどのような結果になろうと、それを見届けるだけです。我がイギリスは、フランスと違って、元々日本の内政には不干渉の方針でした。けれど、薩長の軍隊が外国人に対して発砲してきた場合は、薩長は幕府軍だけじゃなくて我々外国の軍隊とも戦うことになりますよ。これだけは事前に忠告しておきます。私は大好きな日本と戦争したくはありませんから」

「しかと心得た。ワシも大好きなイギリスと戦争したくはないからな」

 話が終わると俊輔は帰っていった。

 二人は、ひょっとするともう二度と会えないかも知れない、と思った。



 数日後、俊輔は西宮にしのみやに上陸していた長州勢の陣地を訪問し、そのあと長州へ帰った。

 ちなみに西宮の長州勢は十一月二十九日に上陸していた。総勢約千人。この長州の出兵計画は芸州藩の協力によっておこなわれた。

 俊輔や木戸は鳥羽伏見の戦いには参加しない。長州で留守番である。

 また聞多はこの頃、太宰府で三条実美ら五卿の上京準備をしているところだった。実際に聞多と五卿が上京するのは十二月下旬のことである。


 西宮に長州勢が上陸したのと同じ日に、パークスが大坂に到着した。ウィリスなど他の公使館員も大勢引き連れて来ていた。

 パークスは兵庫開港の式典を盛り上げるため(さらに攘夷派の日本人に見せつけるため、という狙いもあるが)イギリス極東艦隊の旗艦ロドニー号以下十二隻の軍艦を兵庫沖に集結させた。またアメリカとフランスも軍艦を呼び寄せており、このとき兵庫沖には十八隻の外国軍艦が集結した。


 およそ二年前、パークスが条約勅許を勝ち取るために兵庫沖へ来た時の四ヶ国艦隊は九隻だった。今回はその倍の軍艦が兵庫沖に集結したことになる。これは下関戦争の時の規模に匹敵する大勢力で、兵庫開港にかけるパークスの意気込みが分かろうというものである。また、これまでほとんど日本に軍艦を派遣していなかったアメリカも、南北戦争が終わったことで対外的な野心を復活させ、この時は五隻の軍艦を送り込んできた。


 そして十二月七日(1868年1月1日)ついに兵庫が開港され、大坂が開市となった。


 兵庫沖と大坂の天保山沖では、日の丸や各国の国旗をひるがえした外国軍艦が盛んに号砲を打ち鳴らして開市開港を祝った。

 これに対し、開陽丸などの幕府軍艦も号砲を鳴らして答礼した。さらに陸上では各国の代表団がにぎにぎしく式典をおこなった。


 この騒ぎの陰で、京都ではクーデターがおこなわれた。

 言わずと知れた、十二月九日の「王政復古のクーデター」である。

 これまでずっと見てきたように、この兵庫開港は反幕府勢力(もっと端的に言ってしまえば薩摩藩)にとっては死活問題であり、これを幕府主導のままで進められることは絶対に認められなかった。

 だからこそクーデターのタイミングは、この兵庫開港に合わせるかたちになったのである。

 ちなみに「開港騒ぎのどさくさ紛れ」を狙ったかどうか?ということについては、よく分からない。


 このクーデターの首謀者は西郷吉之助、大久保一蔵、岩倉具視の三人である。

 本来このクーデターは、もう数日早く決行される予定だった。

 しかし、この王政復古運動に協力していた土佐の後藤象二郎が、小御所こごしょ会議に参加する容堂の到着が遅れていることを理由に数日延期するよう西郷たちに要請し、この十二月九日の決行になったのである。


 クーデターの中身はよく知られている話だが、一応ざっくりと述べると次のような結果になった。

 王政復古の宣言により、摂政せっしょう・関白・将軍職が廃止され、新しく総裁・議定ぎじょう参与さんよの職が置かれることになった。そして慶喜を擁護しようとした容堂、後藤、春嶽らの主張を西郷、大久保、岩倉が退け(容堂が「幼主を擁して権柄を盗まんとする企み」と発言したのに対して岩倉が「聖上は不世出の英主にて、幼冲の天子を擁するとは何たる妄言ぞ」と詰問したのは有名な話)、「辞官じかん納地のうち」すなわち慶喜の官職(内大臣)辞任と徳川領の削封さくほうが決定したのである。


 また、このクーデターの前日に朝廷は長州藩主父子および三条実美ら五卿の赦免しゃめん(官位復旧と入京許可)を決定。

 これを受けて西宮に在陣していた長州勢は京都へ向かって進軍を開始し、この日、京都郊外の光明寺こうみょうじ(現、長岡京市粟生あお)に入った。長州勢はここに本営を置き、その一部は入京を果たした。


 禁門の変以来およそ三年半ぶりに帰ってきた長州兵を、京都の人々は歓迎したという。

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