伊藤とサトウ
海野 次朗
第1話 俊輔とサトウ
第一章・生麦騒動 1<俊輔とサトウ>
六日前に来日したばかりのイギリス人青年アーネスト・サトウは、横浜の街頭で異様な
ちなみにこのサトウという青年、年齢は十九歳、容姿は長身スマート、顔も美形という文句なしの美男子である。
街頭で騒いでいる男たちの大半はサトウの同胞であるイギリス人だった。
彼らは興奮した様子で口々に
「リチャードソンたちがサツマのサムライに斬られたらしい!」
「場所はアヴェニュー(東海道)のナマムギだ。すぐに救出に向かうぞ!」
と怒りに満ちた表情で
「リチャードソンたちの救出を日本人が妨害したら
「邪魔する日本人はみんな射殺しろ!」
などとぶっそうなことを叫んでいる連中もいた。
サトウはその群衆の中から一人の
「ウィリス!」
サトウは一目散にウィリスのもとへかけよって、この騒動の原因をたずねた。
「ウィリス、何があったんだ?」
「おお、サトウか。どうやら日本人がまた刀をふりまわして我々西洋人に “
このウィリスという男の肩書は「イギリス
この男は西洋人のなかでもひときわ目立つ巨大漢で、すこし頭がハゲあがっているが年齢はまだ二十五歳である。サトウと違ってむさくるしいヒゲ
そのウィリスの隣りでもう一人の医者が医療器具を馬に積んで出発の準備をしていた。ジェンキンズという中年の医者で、彼もまた「イギリス公使館付き医官兼補助官」である。ただしウィリスの先任者なので横浜の事情についてはこのジェンキンズのほうがはるかに詳しく、いわばベテランと言える存在である。
ウィリスが横浜に来たのはたった半年前のことだった(それでも六日前に横浜に来たばかりのサトウからすれば、そのウィリスでさえもベテランと呼べるかもしれないが)。恐るべきことに、このたった半年間の在日経験しかないウィリスが
出発の準備がととのったジェンキンズは、サトウとのんびりしゃべっているウィリスをせきたてた。
「急げ、ウィリス!もたもたしてると助かるものも助からんぞ!」
「了解。それじゃあサトウ、留守番をよろしく頼む」
そう言うやいなや、二人は護衛のイギリス陸軍騎兵数名とともに
あとに残されたサトウは、ぼうぜんとその騎馬隊を見送った。
(やっぱり、ついこの前までいた上海と同じように、この横浜も戦場になってしまうのか?日本に到着してからボクはまだ何もしてないのに。あの美しい黒髪の日本女性と、まだ
世にいう「生麦事件」である。
馬に乗った四名のイギリス人(女性一名含む)が東海道の生麦村で薩摩藩の行列と遭遇して、薩摩藩士たち数名から斬りつけられた事件である。
斬りつけられたのは男性の三名で、女性は難をのがれた。彼女はすぐに横浜へ引き返して事件が起きたことを皆へ知らせた。先述のように横浜のイギリス人たちが
イギリス人を
それゆえ、この行列は「大名行列」ではない。いや、それどころか幕府から禁じられているのを無視して大砲で武装までしているという「
久光の目的は、幕府に政治改革の
その恫喝は成功した。
一例をあげると、幕府は
目的を達した久光は京都へ戻るために、この日江戸を出発した。そして東海道の生麦村にさしかかったところでイギリス人の
横浜(
ウィリスやジェンキンズたちの騎馬隊一行は横浜道を北上して東海道へ合流しようとした時に、目の前の東海道を右から左へ進んでいく薩摩藩の行列を目撃した。
「あれを見ろ!」
「あれがリチャードソンたちを
と護衛のイギリス陸軍騎兵たちは叫び声をあげ、
しかしジェンキンズが冷静に彼らをおしとどめた。
「
イギリスの騎馬隊一行は東海道を右折して、薩摩藩の行列の脇を抜けるように神奈川宿方面へと向かった。
薩摩藩士とイギリス人たちはお互い相手の
そのうち一人の薩摩藩士が刀の
「もし我々が発砲していたら私達は
このあとウィリスたちは神奈川宿に到着して当地のアメリカ領事館に避難していたイギリス人男性二人を保護した。彼らは何ヵ所か
しかしながら、最後の一人として
横浜の外国人たちはたちまち
生麦と横浜で騒動が起きている頃、江戸
「俊輔、お前今夜、品川へ遊びに行くそうだな」
「品川へ行くと申しても、いつも遊女目当てという訳ではないぞ、聞多よ。
「なんじゃ
「当たり前ではないか」
伊藤俊輔はこの時「
「品川で公務というと、やはり相手は薩摩か」
「うむ。昨日の
「なんという男だ?」
「
若殿とは毛利
久光の江戸出発の前日という、このギリギリの日程でなんとか両者の面会を成功させるために、俊輔の上司である桂小五郎(後の木戸
俊輔は話を続けた。
「しかも驚くなかれ、その五代という男、
「上海だと?異国ではないか!幕府の人間でもない薩摩人が、どうすれば異国へ行けるというのだ。
「バレたら死罪となる密航を我々他藩の人間にうちあける訳がないではないか。上海行きと言えば、ほら、我が藩でも一人思い当たる人間がいるだろう?」
「あっ!高杉が乗って行った、あの
「そうだ。幕府が派遣したあの千歳丸で、五代は上海へ行ったのだ。さらに驚くことに、五代は上海で高杉さんと一緒に行動していたらしい。なんとまあ、世の中は
この数ヶ月前、幕府は上海の状況を視察するために千歳丸を長崎から上海へ派遣した。その船に高杉
余談ながらこの六年後、神戸と堺で今回同様の
俊輔は桂とともに桜田の藩邸を出て高輪へ向かった。まず薩摩藩邸で前日の薩長面会について返礼をして、その後品川で五代を
ところが薩摩藩邸に入ってすぐに「取り込み中」ということで、桂は面会を
確かに藩邸内の雰囲気はどこか異様だった。
あわただしく走り回っている藩士を見かけることもあれば時々「チェストー!」と大きな叫び声が聞こえてきたりもする。どことなく藩邸内が殺気立っているように桂と俊輔には感じられた。
桂は念のため五代と連絡をとろうとしたところ、これもすぐに「取り込み中」ということで面会を断られ、さらに「今夜の酒席についても辞退する」との返事をよこしてきた。
桂は通りかかった何人かの薩摩藩士に事情を聞こうとしたが、
「これはどうも、ただならぬ事態が発生したらしい。俊輔、すぐに桜田に戻って事情を調べるぞ」
と桂は俊輔に
(なんということだ!これで今夜、品川で遊女と遊ぶ予定が台無しになってしまったではないか!)
もちろん、薩摩藩邸が殺気立っていたのは生麦での事変の報告が次々と伝わっていたからである。俊輔はこの日の夜、品川で遊女と遊ぼうなどとノンキな気持ちで一杯だったが、薩摩藩側はこの日の夜「イギリスと一戦
桜田の長州藩邸に戻った桂と俊輔はすぐに生麦での事変のことを知った。
この薩摩の「
「残念だ!薩摩に先を越されてしまった!」
「これで薩摩は攘夷の
俊輔とて、その気持ちにかわりはなかった。吉田
(それにしても薩摩はなんと血の気の多いことよ。京都を出発する時に寺田屋で自藩の人間の血を流し、今また江戸を出発する時にイギリス人の血を流すとは)
俊輔が
しかしながらそれは後々の話であり、今はとにかく生麦のこと、特にサトウがいる横浜で外国人たちが激怒して、すぐ近くの
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