第10話 英を除く仏蘭米との下関砲撃戦
第四章・イギリス 1<英を除く仏蘭米との下関砲撃戦>
かたや横浜からは若者五人をロンドンへ密航留学に送り出し、かたや
これほど自己
とはいえ、これはある意味「結果がどちらに
冷静な人間から見ればバカバカしいとしか言いようがないかもしれないが、この「とにかく行動する」「とにかくやってみる」という
さて、この長州藩の行動について見る前に前回の話で触れた、幕府が出した「外国人追放(
生麦事件の賠償金(44万ドル)支払い問題については、幕府の一橋慶喜と小笠原
そしてその支払いの際、幕府は各国に対して「外国人追放(鎖港)令」を通告した。
この通告は攘夷期日である五月十日に合わせたもので、日付は五月九日付けになっており、さらに小笠原長行(
その内容を現代語訳すると大体次の通りである。
「書類でもって申し上げます。日本国民が外国との交際を望んでいませんので外国人には退去してもらい、港を閉鎖するよう京都にいる将軍から命令があり、私が交渉するよう
この通告を出す時に神奈川奉行の浅野
例えばイギリスのニール代理公使の場合は
「このような通告は全ての国の歴史において前例を見ないものであり、事実上全ての条約
といったような内容だったが、他国も
そしてサトウには「この小笠原が通告してきた外国人追放令を英訳する」という仕事が
サトウは通訳として初めて公式な仕事を
ただしニールはこの仕事をサトウの同僚通訳であるユースデンとシーボルトにもやらせており、三通りの翻訳を作成させるようにした。
ユースデンの肩書は日本語
そしてシーボルトの肩書は
一方、サトウの肩書は
とはいえ、日本語の
初めて正式な仕事を任されたサトウの喜びは相当なもので、彼は完成した翻訳を親友のウィリスに見せて喜びを分かち合った。
後年サトウは次のように語っている。
「私が初めて自分の訳文を作った時、友人のウィリスが自分のことのように喜んでくれた。その時の嬉しさは決して忘れられない。三人の翻訳の内どれが最も忠実な訳であるか誰も言い得る者はいなかったが、ウィリスと私にはもちろん分かりきっていた」
ただし一応本当のところも言っておくと、イギリス政府への報告にはユースデンが蘭語から翻訳したものが正式な報告書として提出され、サトウとシーボルトの翻訳は参考資料として
この賠償金支払い問題が決着したあと、慶喜は賠償金の支払いを止められなかった責任を取って
一方、小笠原も責任を一身に背負って辞職する覚悟を決めているのだが、彼の場合、その前にもう一つ重要な仕事が残っていた。
それは蒸気船で幕府歩兵を
しかしながらその小笠原の「
現在、
「五月十日の攘夷期日」というのは、これまで見てきたように幕府にとっては「
けれども長州藩の過激な攘夷主義者たちは、まさに文字通りの攘夷実行期日として受けとめた。
五月十日、下関対岸の小倉藩領の
下関海峡は狭いため潮の流れが急で、最も速い所では約10ノット(時速20km弱)に達することもある。それゆえ逆流では進みづらく、下手をすると
この日の夜、下関の
ちなみにこの一党に高杉晋作は加わっていない。
彼はまだ萩の山奥で
長州藩は藩内すべてが過激な人間ばかりだったという訳ではない。
この日、下関に出張してきていた総責任者の毛利
「何?お
「バカな!幕府が攘夷期日を本日と決めた以上、誰に遠慮する必要があるんじゃ!」
「そうだ!
この興奮状態の中で入江が久坂に決断を迫った。
久坂は師松陰のことを少し思い浮かべて、それから決断した。
「今の
長州の攘夷戦争は、この久坂の決断によって始まったと言っていい。
砲台からの砲撃では対岸の田野浦まで砲弾が届かないので、
日付が変わった深夜午前二時頃、亀山砲台の号砲を合図に、長州の二隻はペンブローク号への攻撃を開始した。
夜中にいきなり砲撃をうけたペンブローク号の船員たちは、何が起きたのか訳が分からなかった。船員たちは最初
しばらくの間ペンブローク号は長州の二隻から砲撃をうけつづけた。しかしなんとか振り切って脱出することに成功した。長州側からは十数発の砲弾が発射されたものの直撃弾は無く、二、三発、
客観的に見て、これが「戦勝」と言えるのかどうか疑問である。
けれども下関の長州陣営はこの「戦勝」をおおいに喜んだ。そしてこの「戦勝」の
ペンブローク号は横浜から長崎へ向かう途中だったのだが、この長州藩からの攻撃によって下関海峡を通ることをあきらめ、長崎行きも断念した。そして南の
数日後、ペンブローク号は上海に到着した。
その更に数日後、横浜から出発した俊輔たちのチェルスウィック号も上海に到着した。
チェルスウィック号は
その辺りまで来ると港には外国船が数え切れないほど停泊していた。まだ上海近郊では
「こんな大勢の船に攻撃されたら日本はひとたまりもない。攘夷なんて無理だ!そうだろう?俊輔」
「日本を出てまだ何日も経ってないのにもう信念を変えるとは、だらしないぞ、聞多」
「いや。今までは国のためと思って攘夷を唱えてきた。だが本当は開国のほうが国のためになると分かった以上、正直に自分の非を改めたとしても、恥でも何でもあるまい」
「いやいや。
とにかく五人は上陸してジャーディン・マセソン商会の上海支店へ向かうことにした。
この前年に高杉晋作や
人の見る目は十人
このあと聞多は上海から
ちなみに、これは余談と言うべきかどうか少々微妙なのだが、高杉たちの千歳丸が上海に来た時に
さて、五人はジャーディン・マセソン商会の上海支店長にかけ合ってロンドン行きの手配をしてもらおうとした。五人の中では野村
一応、横浜支店長ガウアーからの紹介状を持って来ていたので五人がロンドンへ行きたいことは伝わったようだが、この上海支店長が何を言っているのか、野村でさえ聞き取れなかった。
むこうは日本語がわからず、こちらは英語がわからない。いろいろとゼスチャーを
「どうやら、我々がイギリスへ行く目的は何か?と聞いているらしい」
と野村は言った。
それを聞いた聞多は、あらかじめ“海軍”を意味する英語だけ覚えていたので
「ナビゲーション!(Navigation)」
と即答した。が、山尾はそれに疑問を感じた。
「ちょっと待ってくれ、聞多。“海軍”はネイビー(Navy)じゃなかったか?」
それでも聞多は気楽に受け流した。
「まあ似たようなもんだろう。大丈夫、大丈夫」
山尾は心配だったので少し考えてみたが、結局聞多と同じ結論に至り、そのまま放置した。
(俺の記憶では確かナビゲーション(Navigation)は航海術。でも実際俺は
この「ネイビー」と「ナビゲーション」を間違えて俊輔と聞多がエラい目にあったというエピソードは、この「長州ファイブ」に関する本では必ず出て来る有名なエピソードだが、実際本当のところはどうだっただろう?
このあと上海からロンドンまでの道のりは、俊輔と聞多がペガサス号という300トンクラスの小さな
しかしもし仮に聞多がちゃんと「ネイビー」と答えていたとしても、俊輔と聞多がしっかりと英語で事情を説明できない以上、おそらく二人の待遇は変わらなかったであろう。
「ネイビー(海軍)」であれ「ナビゲーション(航海術)」であれ、船の動かし方を教わるために実地研修をさせられることに変わりはないのだから。
大体「ネイビー(海軍)」の勉強を商社であるジャーディン・マセソン商会に依頼すること自体「
彼ら五人は横浜から出発する時に村田蔵六から「技術」を学ぶように
山尾たちの船では測量の方法なども学んで山尾は「勉強になった」と述べている。最初から「ナビゲーション(航海術)」を学ぶつもりだったのだから、それを苦痛とも思わなかっただろう。
しかし俊輔と聞多は技術を学ぶことに向いてなかった。だから彼らにとって「ナビゲーション(航海術)」しかも蒸気船でもない
ところで前述したように、五人が上海へ到着する少し前に、彼らの故郷下関で砲撃を
実はこの事件のことが江戸や横浜へ伝わるのは十数日後のことになるのだが、この上海ではすでに英字新聞でこの事件が報じられていた。被害を受けた当事者が上海にいたのだから当然のことだった。
ただしその英字新聞の記事に五人が気づいた形跡はまったく無い。
この五人の英語力では、それもやむを得なかったと言える。まあ、もし知ることが出来たとしてもどうする
とにかく彼らがこの事件、ならびに「これ以降の事件」について知ることになるのは、彼らがロンドンに着いてからのことである。
そんな訳で俊輔たち五人はしばらく上海で渡航の準備をし、そのあと別々の船でロンドンへ向かって出発した。
そして五月十五日(6月30日)、横浜のサトウにとってちょっと大事なことがあった。
サトウが
下関の砲撃事件のことなど知る
話を下関の砲撃事件に戻す。
砲撃事件はペンブローク号だけにとどまらず、被害者はその後も出続けた。
五月二十三日、フランスの
ペンブローク号のニュースが上海から横浜へ届くのは五月二十六日のことなので、下関でそんな事件があったとは
今度は前回と違って陸上砲台の
前回の砲撃事件と同じように、いきなり砲撃されたキャンシャン号の船員たちは最初、何が起きたのか理解できなかった。
とにかくキャンシャン号はすかさず応戦した。
ただしこの艦は
キャンシャン号は結局七発
そこへちょうど長崎から横浜へ向かうオランダの軍艦メデゥサ号が通りかかった。
キャンシャン号からボートが
これをうけて、メデゥサ号のカセムブロート艦長はオランダ
「これはどうも、瀬戸内海は避けたほうが良さそうですね、総領事」
「それは無理だよ、艦長。あなたは昨夜のパーティで『下関で砲撃されたら反撃して
長崎には横浜より先にペンブローク号が砲撃された情報が上海から届いていたのである。それでカセムブロート艦長は長崎を出る前日に、西洋人のパーティでこのように豪語していたのだった。
カセムブロート艦長は苦しい表情でポルスブルックに反論した。
「……だけど、
これにポルスブルックは答えた。
「下関を避けて横浜の連中から
しかしカセムブロート艦長は納得しなかった。それでポルスブルックはやむなく高圧的に命令を
「何かあったら私が責任を取る。下関を通りたまえ。これは命令だ」
ところがポルスブルックの予想は見事に
メデゥサ号が下関海峡に入ると、たちまち長州の
ただし前の二回と違って今度のメデゥサ号は軍艦である。当然ながら即座に反撃を開始した。
攘夷戦も三回目に突入して、初めて長州は本格的な砲撃戦を経験することになった。
ちなみにこの戦闘の様子を西洋人が描いた
メデゥサ号は不意を
メデゥサ号の艦内ではそこかしこに船員たちが倒れており、まさに
カセムブロート艦長は倒れている船員たちを指さして、ポルスブルックに叫んだ。
「こんなに戦死者が出たのは、あなたの責任ですよ!」
自身も負傷して頭から血を流しているポルスブルックが、必死の
「今は言い争ってる場合じゃない!私への批判は、この危機を切り抜けてから改めて聞く!」
メデゥサ号はその後も被弾し続けたが、
二十発の
一方、この戦いにおける長州側の被害は
このように三回の攘夷戦を戦い抜いた長州藩の勢いは、まさに天を
五月二十六日、下関でアメリカ商船ペンブローク号が砲撃されたという情報が、ようやく横浜に届いた。
この軍艦は
この頃アメリカは南北戦争の
この艦は北軍の軍艦で、アジア海域を荒らし回っていた南軍のアラバマ号を
自国のペンブローク号が下関で砲撃されたという情報を聞いて、ワイオミング号のマクドゥーガル艦長はすぐさま部下に命令した。
「よし。我々の
続いてフランス艦が砲撃された
無論、公使のベルクールはすぐに幕府役人へ抗議した。
「フランスに対するこのような行為は
さらにベルクールと一緒に抗議に来ていたジョレス提督が
「我々の艦隊は長州藩主に砲撃の理由を問いただすため下関へ向かう。場合によってはその場で長州に賠償金を請求する」
と幕府へ
まず五月三十日に
ジョレス提督は下関へ行く途中、偶然オランダのメデゥサ号と出会った。そしてメデゥサ号のカセムブロート艦長から下関での
このあとメデゥサ号は横浜に入港したが、横浜の人々はメデゥサ号の生々しい
横浜のサトウとウィリスは、被弾してボロボロになったメデゥサ号を海岸から
「また
横浜での戦争が回避されてホッとしていたサトウは、意外なところで戦争が開始されて驚いていた。
「オランダは昔から日本の友好国だったんじゃないの?オランダを攻撃する意図がよくわからないね」
「どうやら下関では無差別に外国船を砲撃しているらしい。ただし今のところ我がイギリスの船への砲撃は確認されていない」
サトウはこの前やった
「どうもこの連中の無差別砲撃は、この前
「聞くところによると、この砲撃は
「薩摩や水戸はこれまでよく耳にしたけど、長州というのはあまり聞いたことがないな」
「ニール代理公使は薩摩へ賠償金を取りに行くのを優先するか、長州の事件のほうを優先するか、今考えているらしい。このままイギリス船への砲撃がなければ、やはり行き先は薩摩だろうな」
サトウが長州のことを意識したのは、この時が初めてだった。
三回の攘夷戦争を戦い抜いた長州藩は、まさに得意の
長州藩内では「実際に戦ってみれば何のことはない」「西洋人など恐るるに足らず」こういった楽観論が
一応この楽観論を否定して「長州の
この頃、久坂玄瑞は攘夷実行の
そして六月一日、攘夷を実行した長州藩に対して朝廷から
「攘夷期限に
との
この
この日、アメリカ軍艦ワイオミング号が下関海峡に姿を
ワイオミング号は約1,500トンの船で砲6門を装備している。イギリスの旗艦ユーリアラス号やフランスの旗艦セミラミス号はどちらも3,000トン級で砲も30門以上装備している大型艦だが、それらと比べると中型艦の部類に入るだろう。
ワイオミング号は国旗を引きおろして
奇襲をしかけられた長州側は、たまたまこの日
ワイオミング号のマクドゥーガル艦長はこの三隻を攻撃目標と定めた。国旗(星条旗)を掲げるよう部下に命令し、すぐさま攻撃を開始した。
ここにワイオミング号と長州海軍との戦闘が開始された。
ワイオミング号は長州の三隻の船、下関の砲台、下関の市街へと向けて、とにかく大砲を撃ちまくった。そのなかでも壬戌丸が長州の旗艦であると見て、これを攻撃目標と定めた。
この戦闘の直前、
敵艦の
ワイオミング号は海峡の中を
ワイオミング号は途中、
その命中弾のうち、特に機関部への直撃弾では即死者数名が出る大被害となった。
やがて壬戌丸は海中へと沈んでいった。乗組員の多くは泳いで船から逃れた。
続いて庚申丸が撃沈され、癸亥丸も大破させられた。
さらに
ただし強襲をしかけたワイオミング号も無傷では済まなかった。長州側の砲撃によって20数発を被弾。死者5名、負傷者数名を出すに
とはいえ、長州海軍の
満足する
この戦いの四日後、長州が新たな
この日の戦闘は一方的な展開となった。
フランスの二隻は前田砲台と壇ノ浦砲台を砲撃。射程距離および火力の差で、これを難なく沈黙させた。この砲撃戦によるフランス側の被害は
その後フランスは250名の陸戦隊をボートに乗せて上陸作戦を
長州はわずかに小銃や弓矢で迎撃したものの、あえなく撤退。あっさりと陸戦隊の上陸を許してしまった。
フランス陸戦隊は長州軍の武器庫を焼き、
この時になってようやく長州の騎馬武者たちが下関から前田へ
そのためフランスの陸戦隊は長州からの抵抗も受けず、ゆうゆうと
そして長州への
長州藩はこの攘夷戦争の直前に外国軍隊からの防御を
攘夷戦争で思わぬ敗北をきっした藩主父子は、“
藩主父子は高杉に下関の防衛策を
これに対して高杉が答えた。
「有志の士を
こうして奇兵隊はここに誕生をみることになった。
この
この頃、戦争に向けて動き出していたのは長州藩だけではない。
幕府も同じようにこの時、兵を動かしていた。
五月二十七日、小笠原
小笠原の目的は二つあった。
一つは京都に
横浜を出港した小笠原勢は、外国船で大坂に上陸することは
この幕府軍には福地
今回の小笠原の
水野・福地の両者と
にもかかわらず、なぜかこの計画はすでに朝廷の知るところとなっていた。
幕府軍の入京をおそれた
在京中の将軍
しかし
特に
「“
鎌倉幕府が
けれども入京禁止を命じる家茂自筆の書状が届けられ、小笠原は
ただしこれと同時に朝廷は、家茂の江戸帰還を許可した。やはり小笠原の軍勢は朝廷にとってそれなりに
家茂は船で江戸へ戻るために、六月九日、京都を出発して大坂へ向かった。家茂は途中、淀にいた小笠原たちも回収して大坂へ入った。このあと家茂は大坂を出港し、六月十六日、約四ヶ月ぶりに江戸へ帰還した。
結局小笠原の率兵上京は、家茂の江戸帰還は成功させたものの「京都(朝廷)の改革」という点では全くの失敗に終わった。
そして小笠原は
「イギリスへの賠償金の支払い」「外国人追放令の
これらの
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