第15話 宍戸刑馬(高杉)の下関談判

第五章・出会い 3<宍戸刑馬(高杉)の下関談判>


 長州藩には長府ちょうふ藩という支藩しはんがある。

 現在の下関市の市域にほぼ該当する領地をこの長府藩がおさめていた。今回四ヶ国艦隊と戦争があったのはほとんどこの長府藩の領内である。従来の居城きょじょうは城山(櫛崎くしざき城。現、関見台公園のあたり)だったが、この下関戦争の頃にはそこよりやや内陸にある勝山かつやま御殿ごてんへと移っていた。城山は海のすぐ近くにあり、今回の下関戦争でも砲台を設置して四ヶ国艦隊と砲撃戦を展開した場所だった。そんなところに居城を置いておく訳にもいかないので内陸の勝山御殿へと移ったのである。先の角石陣屋での戦いで陣屋を破られた長府藩は、この勝山御殿で四ヶ国の陸戦隊と決戦にのぞむつもりだった。


 八月八日、高杉(宍戸ししど刑馬けいま)、聞多ぶんた俊輔しゅんすけたちは長府の勝山御殿に入った。

 長府藩の家老は高杉のところへ来て、和議に対する不服を申し立てた。

「御本家では和議をなさる方針だと聞きましたが、はなは合点がてんが参りませぬ」

 これに高杉はごうぜんと答えた。

「これは分からぬことをおっしゃる。和議が嫌なら、なぜ貴殿きでんらはまだ討ち死にしておらぬのか」

 この高杉の対応に家老は「無礼な!」と激しく高杉につめ寄ったが高杉は相手にせず、とにかく三人は四ヶ国との交渉の席に着くため下関の市街へ向かった。


 俊輔はなぜか「休戦時には白旗が必要である」という西洋の知識を身につけていた。さすが松陰から「周旋家の才能がある」と言われていただけのことはある。俊輔は高杉たちに、自分が先にイギリス船へ行って交渉してくる、と伝えた。

「西洋では休戦する時に白旗が必要なのです。ワシが先に敵艦へ行って話をしてきますので、号砲の合図が鳴ったら高杉さん、いや宍戸さんたちも船を出発させてください」

 そう言って用意しておいた大きな白旗を持って漁船に飛び乗った。そして俊輔は白旗を振りながら四ヶ国艦隊を目指して進んで行った。


 漁船はコンケラー号という一番大きな軍艦に到着した。

 俊輔は番兵に「これはフラッグシップ(旗艦)か?」とたずねると「いや、これはフラッグシップではない。あのユーリアラス号がそうだ」と番兵は答えたので俊輔はユーリアラス号へ向かった。


 そしてユーリアラス号の近くまで来ると俊輔は番兵に向かって叫んだ。

「アーネスト・サトウに会いたい。彼を呼んでくれ!」

 しばらくするとサトウが舷側げんそくへやって来て、微笑ほほえみを浮かべながら言った。

「やあ、伊藤さん。ご無事でなによりです。そろそろ戦争にきたんじゃないですか?」

「イエス!まったく飽きた。藩のえらい人、ザ・グレート・マンを連れてきたので戦争を休止してほしい」

「そうですか。とにかく船にあがってください」

 俊輔はサトウにうながされて船のタラップを上がっていった。


 サトウは俊輔を艦長のアレキサンダー大佐のところへ連れていった。そして大佐に和議の使者を連れてきたことを説明した。

 椅子いすに座っていた大佐は、先日の戦いで撃ち抜かれ包帯ほうたいでグルグルきにしてある足首を俊輔の目の前に突き出して

「あなたの国の人、こんな悪いことしました!」

 そう大声で言いながら、笑った。

 このジョークとも嫌味とも分からない大佐の発言を聞いた俊輔は、苦笑にがわらいするしかなかった。

 それから俊輔はキューパー提督とも面会した。提督は俊輔にただした。

「長州藩主が和議の交渉に来るのか?」

「いや。藩主は病気で来られないので代理のザ・グレート・マンを岸に待たせている」

「本来であれば藩主が来なければならない。とにかく、その代理には会うだけ会おう」

 提督の承諾しょうだくが得られたので俊輔はサトウに合図の号砲を鳴らしてくれるよう頼んだ。そして下関海峡に号砲がとどろき、高杉たちが乗った小船がユーリアラス号へ向かって岸から出発した。


 やがてキューパー提督やフランスのジョレス提督が待ち構えている会談の席に、宍戸刑馬こと高杉晋作を正使とした長州の講和使節がやって来た。

 高杉は派手な陣羽織じんばおり烏帽子えぼしを着用し、魔王(ルシフェル)のようにごうぜんとした態度で談判の席に乗り込んできた。

 英仏側から見た「宍戸刑馬」の第一印象は

「こんな若造わかぞうが長州の代表者なのか」

 というものであった。


 この会談にはサトウ、俊輔、聞多たちも出席し、彼らの通訳のもと会談は始められた。

 まず俊輔が英仏側に対して書状を提出した。

 これは開戦直前に、俊輔と聞多が持参していたものの交渉に間に合わず提出できなかった書状で「文久三年五月十日を攘夷期限」とした幕府の布告書ふこくしょだった。

 高杉は英仏側に説明した。

「開戦前にこれを提出できなかったのは残念である。これを見てもらえば長州に非が無いことは明白であったものを」

 ところが英仏側はその書状を見る前に「宍戸」に問い質した。

「その前に、あなたは信任状しんにんじょうを持っているのか?」

 信任状とは、こういった国対国の交渉の際に必要な主権者しゅけんしゃ(この場合は長州藩主)からの全権ぜんけん委任いにんを証明する書類のことである。

 長州側はそういった西洋の外交ルールを知らなかったので信任状など持って来ていなかった。

 高杉は至急、信任状を取りに行かせるので明後日の会談において提出すると答えた。余談ながら、後年、俊輔は岩倉使節団の一員となって渡米した際、同じように信任状の欠落けつらくを指摘され何ヶ月もかけて大久保利通と一緒に日本へ取りに戻ることになる。


 それはさておき、とりあえず英仏側は信任状のことは後回しにすることを了承し、休戦交渉の会談を始めることに同意した。サトウは長州側の提出した和議の書状を入念に読み込み、キューパー提督に内容を説明した。

「この書状には『今後、海峡の通航にさわりはない』としか書いてない。これでは和議にならない」

 このようにキューパー提督は高杉に言った。それで高杉は答えた。

「外国船の通航を差し許すということで、まさしく和議の意志を示しているではないか」

「外国船に対して砲撃したことを謝罪しなければ和議の意志を示しているとはいえない。またこの書状の署名しょめいには『防長ぼうちょう国主』としか書いてないが、藩主の名前で署名しなければならない」

 高杉はムスっとした表情のまま何も答えなかった。キューパー提督は続けて言った。

「さらに我々の要求は次の通りである。一つ、大砲の撤去を認めること。二つ、今後長州が一発でも発砲すれば我々は下関の町を焼き払う。三つ、戦闘中に行方不明になったオランダ水兵二名を引き渡すこと。四つ、下関の町人に言って我々に食料を販売すること。以上である」

 それでもやはり、高杉はムスっとしたまま何も答えなかった。ちなみに三つ目のオランダ水兵の件については、すでに長州側が二人を殺害してしまっているので履行りこうするのは不可能である。


 高杉が返事をしようとしないのでキューパー提督は「イエスかノーか!」と机を叩いて怒った。まるで後にシンガポールを陥落させることになる山下奉文ともゆき中将のようである。

 見かねた俊輔が高杉に対して進言した。

「高杉……、いや宍戸さん。とにかく、どれか少しでも相手の言い分を認めないと、交渉になりませんよ」

 すると高杉が答えた。

「いや。今しがたずっと、連中の要求に対してどう答えるか考えていたんだが、すべて受けいれて構わないと分かった。だから俊輔、あいつらにそう言ってやれ」


 ごうぜんと構えていた「宍戸」があっさりとすべての要求を受けいれたことで、英仏側は少し驚いた。サトウは念のため「宍戸」に向かって問い質した。

「今度もって来る書状には、負けた軍が勝った軍に対してちゃんと謝罪してないといけませんよ。例えば『降参コウサンしました』とか……」

「誰が降参などするか!」

 高杉はてるように言った。サトウはそれを「宍戸」の強がりと受けとめて

(私の言葉は少し彼を傷つけたようだ)

 と思った。

 高杉は別に強がっていた訳ではない。「まだまだ談判は始まったばかりだ。今に見ていろ」というつもりだった。



 ところが、高杉は次の談判には出席できなくなってしまったのである。

 この日の談判はこれで終了となったが、高杉と俊輔が船木にいる世子定広へ談判結果を報告して退出すると、同僚から

「外国との和議に反対する攘夷派が高杉、伊藤、井上の命を狙っているので気をつけろ」

 と言われたのだった。ちなみに聞多は大砲撤去の立ち合い役を任され、下関の砲台のところに残ったままだった。

 高杉はその同僚に問い質した。

「それで上層部はそいつらを取り締まらないのか?」

「ああ。ただ困った、困ったと言っているだけで、何も手を付けようとしない」

「何という無責任な奴らか!聞多の言うとおりだった!あの連中とは行動を共にすることはできない!おい、俊輔、とにかく俺たちは逃げることにしよう」

「はい!」

 そんな訳で高杉と俊輔は急きょ船木の農家に潜伏することにした。


 「宍戸刑馬」が行方不明になったので、二日後の第二回会談には長州側は別の代表者を出席させることにした。

 毛利登人のぼるを正使として他に数名の副使を付けた。聞多は前回同様、通訳として出席することになった。英仏側は前回と同じメンバーで、今回もユーリアラス号で会談をした。

 キューパー提督はさっそく「前回代表だった宍戸はなぜ来ないのか?」と長州側に問い質した。

「宍戸刑馬は暑気しょきあたりと睡眠不足で病気となり、歩行困難になってしまったのだ」

 と長州側は答えた。

「もし今日の会談ですべての用件が妥結だけつしない場合は、次回はあなたがたも病気にならないよう健康に気をつけてもらいたい」

 キューパー提督はこのように皮肉を述べた。さらに

「前回の宍戸刑馬は身分を詐称さしょうしていたのではないか?」

 と長州側に詰問きつもんした。


 これはサトウがあらかじめ「武鑑ぶかん」を用意しており、武鑑で調べてみたところ前回の宍戸の発言と食い違いが見られ、サトウが不審に思って追及したのだった。ちなみに武鑑とは、大名や旗本の姓名・石高・家臣の氏名などを紹介している本のことである。

 しかし長州側はなんとか「説得力のあるウソ」を並べたてて強引にサトウを納得させてしまった。まあ外国人で武鑑まで調べる人間はサトウぐらいのものだが、そのサトウといえども武士社会の複雑な養子縁組の仕組みまでは熟知じゅくちできなかったであろう。それでも宍戸ししど刑馬けいま(高杉)の身分詐称さしょうを見抜いたところまではサトウもよく頑張った、とは言える。


 さて、長州側は前回再提出を求められた和議の書状をあらためて提出した。

 サトウは今回もその書状を入念に読み込み、「和議わぎねがう」という文句と「松平まつだいら大膳だいぜん大夫たゆう=毛利慶親よしちか」の署名を認めることができた。

 さすがに「降参しました」とは書いてなかったが、前回よりかなり下手したてに出ていることは確認できたのでキューパー提督は、これで和議を認めることにした。

 一方、キューパー提督はあらためて長州側に要求を突きつけた。

「一つ、今後下関の港で石炭、食料、水などを購入できるようにすること。二つ、下関海峡に再び砲台を築いてはならない。三つ、戦争の賠償金を支払うこと。そしてこれらの要求については四日後に藩主が直接ここへやって来て回答すること」

 長州側はこれらの要求を持ち帰って検討する、と回答した。

 ちなみに前回要求された行方不明になったオランダ水兵二名について長州側は「どうなったか行方が全く分からない」ということで押し通した。


 この日の談判が終わると、聞多は船木の定広のところへ談判結果の報告に行き、それと同時に猛烈もうれつな勢いで定広を詰問きつもんした。

「お約束が違うではないですか!あのとき殿が『今後、如何いかに藩内で攘夷論がわき起こっても抑え込むことを約束する』とおっしゃったから私は和議の使者を引き受けたのです。あれからまだ何日も経っていないのに、このように約束を反故ほごにされるとは何事ですか!」

 こうやって聞多が定広の背信はいしん行為を責めたので、定広は高杉、俊輔、聞多の三人を保護すると約束した。

 藩内では「この三人が若殿(定広)をそそのかして外国と和議を結ばせようとしているのだ」と思っている攘夷派も多かった。それゆえ定広は

「彼ら三人の策謀さくぼうで和議を結ぼうとしているのではない。まったく私の意志で和議を結ぼうとしているのである」

 と藩内に通達を出して、高杉と俊輔を呼び戻した。



 そして四日後の第三回会談の日が到来した。

 この第三回会談では、宍戸刑馬こと高杉晋作が再び会談に出席した。

 他に前回出席した毛利登人などの重役も何人か出席した。俊輔も第一回会談以来、通訳として復帰した。ただし聞多は欠席した。余談ながらこの会談には村田蔵六ぞうろくも出席していたのだが、なぜかサトウの記録では「一人だけ名前を書きもらした」として、蔵六の名前を書きもらしている。第二章で神奈川のヘボンのところで会って以来だが、こんな独特な頭をしている男の名前を書きもらすとは、ちょっと理解しがたい。

 英仏側は今回も同じメンバーで、会談場所も同じユーリアラス号である。

 そしてこれが最後の会談となる。


 冒頭、キューパー提督は長州藩主が来なかったことについて長州側を激しく責めたてた。

 長州側は、連絡の船が遅れたとか、懸命に藩主を説得したが藩主は現在謹慎きんしんの身で(禁門の変の罪によって)誰とも会うことをこばんでいる、といった理由を縷々るる説明して弁解べんかいした。

 これに対してキューパー提督は

「そうであれば、もっと前に我々に知らせるべきであろう。なぜ当日いきなり言うのか」

 と、実にもっともな理由で長州側を責めたてた。

 なにしろキューパー提督からすれば自分たちは「国家」を代表している人間であり、長州藩主は一地方の領主に過ぎず、自分たちから見れば格下だと思っている。それはまことにとうた考え方ではあるのだが、なにしろ当時の日本では藩を「国家」だと考えていた。長州側からすればイギリスと対等のつもりなのである。

 とにかくこの問題についてはしばらくやり取りがあった後、とりあえず不問ふもんすということで本題へと移ることになった。


 前回、四ヶ国側から要求があった三点について、まず一つ目の「今後下関の港で石炭、食料、水などを購入できるようにする」ということについては、長州側も異論なく同意した。

 二つ目の「下関海峡に再び砲台を築いてはならない」ということには、長州側は不服を申し立てた。

 なにしろこれから幕府、諸藩連合が長州へ攻めて来るのである。

 その際、砲台がないと下関を守ることが出来ない。長州側はこのことを散々キューパー提督に説明した。しかしこの条件については四ヶ国側が一切の妥協だきょうを認めなかった。今回の遠征における最大の目的が「下関砲台の撤去」であったのだから無理もないだろう。それで長州側も最後には「とにかく後で何か抜け道を考えるしかない」とあきらめ、ひとまずこの条件に同意した。


 最大の争点となったのは三つ目の「戦争の賠償金を支払うこと」についてだった。

 これには宍戸こと高杉が、激しく反論した。

 もちろん、長州藩には多額の賠償金を支払う資力しりょくがない、ということも説明したが、それ以上に、最初の会談で高杉が幕府の布告書ふこくしょを提出して説明したように、悪いのは幕府であって長州ではない、ということを力説した。

「文久三年五月十日を攘夷期限と命じたのは朝廷と幕府である。賠償金を請求するのであれば幕府に言うべきである」

 高杉はこのようにキューパー提督に反論した。するとキューパー提督も高杉に反論した。

「我々は下関の砲台から砲撃をうけたのだから、当然、下関市街を焼き払う権利があった。しかし我々はえてそれをしなかった。もし下関市街を焼き払っていれば再建費用は相当な金額になったはずである。我々はその金額を受け取る権利がある」

 キューパー提督の言う「相当な金額」とは、後に300万ドルという途方とほうもない金額となって四ヶ国側は請求することになるのだが、この会談の席で300万ドルという数字が出ていた訳ではない。

 ただし、かなりの高額になるであろうことはイギリス側も示唆しさしていたはずなので、長州側もその認識でいただろう。ちなみに生麦事件の賠償金として幕府が支払った額は40万ドルである。当時大体10万ドルで蒸気船一隻が買えたので300万ドルというと蒸気船三十隻分ということになる。


 高杉は再び反論した。

「大砲を撃ったのは兵士であり、下関の町民にはまったく関係ない話である。なぜ町民が街を焼き払われたり、多額の賠償金をされしいたげられるのか理解できない。非戦闘員を虐待ぎゃくたいするのがあなたたち西洋人のやり方なのか。そもそもイギリスの船は下関で一度も砲撃されていないではないか」

 もし俊輔がイギリスの新聞記事のことを詳しく知っていれば「キューパー提督が下関市街を焼き払えるはずがない」ということをここで追及できたであろうに。

 なぜならキューパー提督は薩英戦争の際に鹿児島市街を焼いて、そのことをイギリス議会から「非人道的である」と厳しく追及されており、イギリスの新聞でも批判されていたのである。要するに、この下関戦争においてキューパー提督が下関市街を焼かなかったのは「一度鹿児島の市街を焼いて厳しく非難された“前科ぜんか”があった」ので、実は焼きたくても焼けなかったのだ。

 そういったイギリスの政治や世論に詳しい人間が長州にいれば、この点を上手く反論できたはずなのだが、たった数ヶ月しかロンドンにいなかった俊輔にそんな知識があるはずもなかった。

 それにしても、どのみち現代の我々から見ればキューパー提督の言う「お前たちの街を焼かなかったのだから代わりに金を出せ」という理屈はずいぶんと乱暴な話に聞こえるだろうが、この十九世紀の話としては、さして珍しい話でもない。


 高杉の反論をうけてキューパー提督も再び反論した。

「あなたたちは戦争を始める前にその費用を計算しておかなければならなかったのだ。そして今その勘定書かんじょうしょが回って来たのだから、これを支払わなければならない」

「だからその勘定書は幕府へ回すべきだと言っているのだ」

 もはや、お互い一歩も譲らない構えである。

 事ここに及んで、キューパー提督はかなり突っ込んだ発言をした。

「あくまで賠償金の支払いを拒むのであれば、我々はひこしまを占領して賠償金が支払われるまで担保たんぽとして差し押さえることになるが、それでも支払わないと言うのか?」

 すると高杉はすっくと立ち上がり、キューパー提督をにらみつけて宣言した。

「長州には藩主のために命を投げ出す兵士がまだ何万といる。あまりに過大な要求を突きつけられると彼らを制止するのが難しくなる」

 このようなやり取りが続き、会談が平行線のままだったので一時休憩を取ることになった。



 その間に俊輔はサトウを室外へ連れ出して密談を持ちかけた。

「どうにも困ったものだ。このままでは和議は破綻はたんしてしまうだろう。今、藩内では和議反対の意見が強い。また砲撃による被害も大きく、この上多額の賠償金を請求されたら民衆が激怒するだろう。賠償金の請求は引っ込めてくれないだろうか?」

 これに対しサトウは答えた。

「私も長州が多額の賠償金を支払えないことは分かってます。確かにキューパー提督は、宍戸さんの発言をうけて少しムキになっているようですね。ただしこの賠償金の請求は四ヶ国が取り決めたものなので、講和にはどうしても必要な条件なのです。我々としても、長州に多額の賠償金を請求するのが目的ではありません。賠償金は『支払ってくれそうなところから』もらえれば良いのです」

「それは『幕府に支払わせる』と理解してよろしいか?」

明言めいげんはできませんが『支払ってくれそうなところから』です。とにかく講和を成立させるために、この場はひとまず賠償金の請求を了承してください」

 密談を終えた俊輔とサトウは、会談の席へと戻った。


 二人が席へ戻ると、高杉が席に座ったまま何か歌っているかのようにしゃべり続けていた。少なくともサトウには歌っているかのように見えた。

天地あめつちはじめておこりし時に、高天たかまはらになりませる神の名は、あめ之御のみ中主なかぬし、次に高御たかみ産巣日むすひの神、次にかむ産巣日むすひの神、この三柱みはしらの神はみなひとがみとなりまして、身をかくしたまいき。次に国稚くにわかく、浮かべるあぶらごとくして……」

 サトウは俊輔に「宍戸は何を歌っているのか?」とたずねた。

「ああ、あれは古事記です。あの人は古事記を口ずさむのが趣味なんです」

「コジキ?」

「我が国の神話です」

 後にサトウが「日本アジア協会」で神道しんとうに関する論文をいくつか発表することになるのは、この時のことがきっかけであったかも知れない。

 俊輔は高杉に対して、賠償金請求に関するイギリス側の認識を伝えた。

 そしてサトウもキューパー提督に対して、日本側の事情を説明して、さらにいくつか助言も付け加えた。


 キューパー提督は再び高杉に対して意見を述べた。

「もし本当に長州がミカド大君タイクン(幕府)の命令によって砲撃したというのなら、大君が賠償金を支払うこともあり得よう。いずれにせよ、賠償金の支払いは講和の絶対条件で、この問題は江戸へ戻って大君政府と四ヶ国の間で決定することになるだろう」

 これに対して高杉が答えた。

「それで結構である。ついでに私の個人的な意見を述べると、あなたたちは賠償金を請求するよりも馬関ばかん(下関)を国際港として開港するよう幕府に要求したほうが、お互いにとっての利益となるだろう。一応参考までに、このことを申し上げておく」

 これで長州とイギリスの談判は終了となった。



 さて、いくらか先回りをして賠償金支払い問題の結末を述べてしまうと、幕府と四ヶ国との話し合いの結果、賠償金は幕府が支払うことになるのである。

「長州も日本の一部だから国全体の政府である幕府が支払うべきである、との判断で幕府自身が支払うことを容認した」

 という見方もできるかも知れないが、やはり幕府が出した「文久三年五月十日を攘夷期限とすべし」という布告書に関して、幕府が四ヶ国に対してハッキリと釈明しゃくめいできなかった、というのが決め手であったらしい。ちなみに薩英戦争でも薩摩は幕府から金を借りてイギリスに賠償金10万ドルを支払ったものの薩摩は幕府に金を返さなかったので幕府が支払ったに等しく、結局、薩英戦争も下関戦争も幕府が尻ぬぐいをする形になった訳である。


 そして四ヶ国が幕府に請求する金額は300万ドルという途方とほうもない額が設定された。

 ちなみに四ヶ国はそれを均等きんとう割りにして受け取るので一カ国が受け取る金額は75万ドルということになる。

 四ヶ国、特にイギリス(オールコック公使)としては賠償金を取り立てるのが目的ではなく、下関あるいは他の瀬戸内海の港(基本的には開港を延期している兵庫港)を開港させることが目的であり、四ヶ国は幕府に対して

「300万ドルの支払いか?下関または兵庫の港を開くか?」

 の二者択一を迫ることにしたのだった。

 ある意味この300万ドルは「ふっかけて請求した」ようなものであり、まさか四ヶ国も、幕府が300万ドルの支払いを選ぶとは思っていなかった(ただしフランスのロッシュだけは、日本側に多額の賠償金を支払わせることを狙って当初200万ドルの予定だったところに後から100万ドル上乗せして請求したので「金目当てだった」と言える)。


 オールコックがなぜ「下関の開港」を要求したのか?その理由は定かではない(多分高杉が下関開港を訴えた事とは関係がない)。

 下関を開港する場合、長崎と商圏しょうけんが重なる部分もあり、それほど新たな商圏が広がるとは思えない。その点、兵庫の場合は関西全域に商圏が広がるので四ヶ国は以前からそれを熱望ねつぼうしていた。ただし兵庫は京都から近く、兵庫開港は朝廷が強硬に反対していた。そのため大坂・兵庫の開市開港は1868年1月1日まで延期されているのである。

 オールコックが下関の開港を要求した理由は、おそらく

「幕府が横浜、長崎、箱館(函館)さらには兵庫といったすべての貿易港を支配しているので、大名(特に薩長)が幕府を憎むのだ。であるならば大名の港である下関を開き、大名も自由に貿易できるようにしてやれば大名の不満も減るだろう」

 といった目論見もくろみだったと思われる。


 ここでさらに先回りをして「その二者択一」に対する幕府の回答を述べてしまうと、幕府は港の開港よりも賠償金300万ドルの支払いを選ぶのである。

 兵庫の早期開港は朝廷の強い反対があるので不可能である。

 さりとて、下関の開港は大名に自由貿易を許可することになり武器なども自由に輸入できるようになってしまうので、これも幕府としては認められない。幕府が長州を征伐せいばつして「下関を幕府領にしてから開港する」というのであれば、まだそれを考える余地はある。けれども幕府には長州を征伐するだけの決断力がなかった。

 今回の下関戦争において、オールコックは長州を徹底的に叩くつもりだった。それゆえ、キューパー提督に対して

「賠償金の担保として長州領の一部(特に下関)を占領せよ。また本拠地の萩を攻撃せよ」

 といったことまでオールコックは命じていた。

 キューパー提督が彦島の保証ほしょう占領を口にしたのもその一環であったろう。


 しかしキューパー提督は、長州領を占領しようとはしなかった。

 いや。もし戦争の際に長州兵たちが一目散に逃げ出すか、あるいは談判の際に長州側があっけなく屈服くっぷくしていれば、キューパー提督はそれをやっただろう。

 後年サトウは次のように手記で語っている。

「日本人が頑強がんきょうに応戦したことは認めてやらなければならない」

 また、あるイギリスの歴史家は下関戦争について次のように書いている。

「日本の堡塁ほうるい有無うむを言わせぬ十字砲火にさらされたが、彼らが攻撃態勢のまま砲台を死守した態度は、四ヶ国艦隊の将兵からも讃嘆さんたんの声があがったほどである」

 キューパー提督は冷静に戦力を分析した上で、長州領を占領するというリスクを避けたのである。


 一応参考までに前回の薩英戦争と同じく、今回も数字で表すと死傷者数は次の通りである。


 四ヶ国連合:戦死者12名、負傷者60名、死傷者合計72名

 長州藩:戦死者18名、負傷者29名、死傷者合計47名

(※一般に広く伝わっている説にもとづく数字)


 死傷者合計では、四ヶ国側のほうが多数の被害を出している。

 無論、長州は全砲台を占拠され、約120門の大砲をすべて撤去されているのであるから、勝敗はあきらかに長州の負けである。


 筆者が思うに、キューパー提督は次のように考えたはずである。

「下関海峡の通航が確保されさえすれば四ヶ国の目的は達成したことになるのだから、下関を占領するかどうかということは、あとは幕府がやれば良いだけの話である。四ヶ国の兵士が幕府のためにそこまで血を流す理由はない」


 そしてキューパー提督が長州領を占領しなかったもう一つの理由は、イギリス一国で長州領を占領するのであればまだしも「四ヶ国連合軍」として戦っているだけに四ヶ国内のかけひきが存在していたからである。

 要するにイギリスの独走をこころよく思っていなかったフランスが、イギリスに歯止めをかけていたのである。

 そういった諸々の理由から、キューパー提督は長州領の占領をあきらめたということである。


 余談ながら、イギリスは太平天国の乱では、清国政府のためにイギリス兵の血を流して戦った。なぜイギリスがそうしたのか?というと、日本と違って清国にはイギリスの利権が多大に関係していたことと、さらに言えば清国政府がイギリスからの援軍の申し出を受け入れたからである。

 実は幕府も、これ以前に何度か英仏から援軍の申し出を打診だしんされていた。特にフランスが積極的に援軍を申し出ていた。

 イギリスは、まだ清国で太平天国が片づいてなかったのでそれほど積極的ではなかったが、それでも前年の「小笠原長行ながみち率兵そっぺい上京」の際に兵の海上輸送で多少の便宜べんぎはかっていた。こういった英仏による幕府への軍事援助については以前何度か触れたことがある。

 けれども幕府は基本的に英仏からの援軍の申し出を容認しない方針で一貫していた。このことに限って言えば、幕府の無為むい無策むさくおよび決断力の無さは、良きにつけ悪しきにつけと言うべきか、国内の争いに外国軍が直接介入かいにゅうすることを容認しなかったという点では「悪くない結果につながった」と言うべきであろう。ただし、幕府はいつまでもこの方針を堅持出来た訳ではなく、後段で見るように、後に少しずつ方針転換を余儀なくされることになる。


 そしてもう一つ余談を付け加えると、後年こうねん(明治四十二年)伊藤博文ひろぶみ(俊輔)はこの時の会談について次のように語っている。

「高杉と吾輩わがはいがキューパー提督と談判中、提督が彦島の租借そしゃくていしてきたが、今から思えば危なかった。もしあの時提督があくまで彦島の租借を要求して強引に奪っていたならば、この島は今の香港のようになっていたかもしれなかった。今から思えば実に恐ろしいことであった」

 筆者が思うに、現代の日本人の感覚からすると「今は人もあまり住まない彦島が、もし香港のように発展していたのであれば、それはそれで良かったんじゃないの?」という声が多数になりそうな気がしてならない。



 長州と四ヶ国との休戦協定が成立したので、四ヶ国の艦隊は下関で再度砲台が築かれないよう監視するための船を若干残して、あとは順次横浜へ帰還することになった。また四ヶ国の外国人たちは下関市街への上陸が許可された。この頃には下関の町民も皆、戦争が終わったことを見届けて市街へ戻って来ていた。

 サトウはさっそく下関に上陸して食事や買い物を楽しんだ。下関の町民は皆、外国人に対して親切だった。そして戦争が終わったことを心から喜んでいた。ただし武士の中にはまだまだ攘夷意識が強い連中もいて、外国人にむかって、刀を抜いたりはしないまでも、にらみつけたり横柄おうへいな態度をとる連中はそこそこいたようである。


 ところで、長州藩はキューパー提督に対して「藩士数名を横浜まで便乗びんじょうさせてもらいたい」と申し出た。

「幕府と四ヶ国との会談で賠償金問題の結果がどうなるのか、横浜で確認したい」

 というのが長州側の言い分であった。この長州の態度は、薩英戦争のあと薩摩が講和の席でイギリスに対して軍艦の購入や留学生の派遣を申し出たのと似ている。薩摩も長州も講和が済み次第、すぐにイギリスのふところへ飛び込むという、しなやかな対応を見せたのである。

 キューパー提督はこの長州の申し出を了承した。

 横浜へ行く長州使節の正使は家老の井原主計かずえという人物で、この随行員の中には俊輔も含まれることになった。出発は二週間ほど先の予定であり、サトウもそれまでの間、下関を監視するために残るバロッサ号で下関にとどまるよう命じられた。


 数日後、俊輔が商人二名を連れてバロッサ号のサトウを訪問した。

「やあ、サトウさん。下関の商人に町を案内させますから見学に行きませんか?」

 サトウは二つ返事でオーケーし、俊輔と一緒に町へ出かけた。

 商人たちはサトウを長州特産の木綿もめんろう(ろうそく)、紙などを扱っている店へ案内した。長州では藩の大きな資金源となっていた米・塩・紙を「防長ぼうちょうさんぱく」と言い、これにろう(ろうそく)を加えて「防長ぼうちょうよんぱく」とも呼んでいた。

 俊輔はサトウを案内しながら長州人が外国との貿易を望んでいることを説明した。

「下関が開港されればこれらの商品だけに限らず、大坂や北陸の商品も扱うことができます。藩主も下関が開港されることを望んでます」


 市内見学が終わってサトウがバロッサ号へ戻ると、俊輔はそのまま艦に残ってサトウと相談を始めた。

「確かに我々は外国との貿易を望んでいるのですが、実は今、藩はそれどころではないのです。将軍と諸藩の軍が近いうちに我々を攻めに来るはずなので、その対応に藩は追われているのです」

「やはり長州は幕府と戦うことになるのですか?」

「まだ分かりません。しかし幕府が攻めてくれば我々は一丸となって戦うことになるでしょう。詳しいことが分かり次第サトウさんに手紙でお知らせします。横浜の公使館へ手紙を送っても良いですか?」

「もちろん結構です。ただしイギリスの船が下関へ立ち寄った際に手紙をたくすようにしてください」

「分かりました。ところでサトウさんはどんな風に名前を書いてるんですか?“サトウ”ですか?“佐藤”ですか?」

 俊輔は紙に「サトウ」とか「佐藤」と書いて、サトウに尋ねてみた。

 サトウは少し恥ずかしがりながら答えた。

「あのー、そのー……。実は私の日本語教師といろいろ相談してるんですけどね。“佐藤”じゃ一般的過ぎてつまらないし、実はこんな風に書いてます」

 そう言いながらサトウは紙に「薩道懇之助」さらに「薩道愛之助」と書いて俊輔に見せた。

「はあー、なるほど“薩道”でサトウですか。アーネストは“愛之助”と……。しかし“懇之助”だとコンノスケかネンゴロノスケと日本人は呼んでしまうかも知れませんな。それはともかく“薩道”は……。ワシは実のところそれほど気にしておらんのですが、藩内では“薩摩”のことを激しく憎んでいる人間が多いのです。この前、京のいくさで薩摩に大勢同胞どうほうを殺されましたから」

「懇の字は懇切こんせつがアーネストの意味なので“懇之助”にしました。“薩道”は、来日直後に生麦の事件を経験して以来、薩摩の話に触れることが多かったので、なんとなく選びました。それにしても長州の人は本当に薩摩を憎んでるんですね。なんとか仲直りできないんですか?」

「無理でしょうな。もうすぐ攻めて来る諸藩の軍勢には薩摩も加わってるでしょうから」

「我々は薩摩と戦争しましたが、終わったらすぐ和解しました。長州とも戦争して、すぐに和解しました。何を考えているのか分からず、態度がハッキリとしない幕府と違って、長州と薩摩は率直そっちょくで分かりやすい。私は長州と薩摩は似ているように思います」

「まあ、どちらも関ヶ原で負けた、という点では似てるかも知れませんな。今でも我が藩には関ヶ原のうらみで幕府を倒そうとしている者が大勢いる。だがワシはそれとは別に、幕府ではもう日本は立ち行かないと思う。イギリスへ行ってみてそれがよく分かった。日本もイギリスの女帝じょていのようにみかどを中心にして、そして武士も町人も関係なくおおやけの意見をくみ取るような政治にしなけりゃいかんと思う」

「イギリスは長い時間をかけてそういう政治体制を作ったのです。日本がそうなるには相当時間が必要でしょう」

「ワシもそう思います。まあ、とてもじゃないが、ワシの生きているうちにはまず無理でしょうな。ところで今度、艦長さんたちを食事に招待したいと思ってるんですが、いかがでしょうか?以前ワシと井上を姫島まで送ってもらって、今度は横浜まで送ってもらうので、そのお礼です。もちろんサトウさんにも来てもらいたい。ワシのロンドンでの経験をいかしてイギリス風の食事にしたいと思ってます」

「それは面白そうですね」


 数日後、二人が参加メンバーをセッティングして、イギリスと長州から数人ずつが参加する「欧州風ディナーの会」が下関の料亭りょうていで催されることになった。イギリス側はバロッサ号の艦長、サトウ、その他の士官が二名、長州側は家老の井原、俊輔、その他の役人が二名参加した。

 ヨーロッパ風のテーブルクロスをかけたテーブルを用意し、皿とスプーンとはしと「気味の悪いほどぎすまされた長いナイフ」が並べられていたとサトウの記録にはあるが、その長いナイフの刀身はいまにもつかから抜けそうだった、とも書かれている。日本の食事でナイフなんか使う習慣はないので、まさか脇差わきざしではあるまいが、小柄こづかか何かのたぐいだったのだろうか。そしてどうやらフォークはなかったらしい。


 最初はハゼのた料理が出た。サトウは切るのに苦労したが頭に箸を突き刺してスプーンで肉をけずってなんとかやってのけた。

 そして主催者である俊輔は

「次の料理はうなぎの蒲焼かばやきです」

 とイギリス人たちに告げた。すると彼らは少しギョッとした。

 イギリス人にとってうなぎ料理と言うと、すぐに思い浮かぶのは「ゼリード・イール(ウナギのゼリー寄せ)」だった。

 この料理はまず、見た目が非常に悪い。

 そして味もイマイチで、決して人気のある食べ物ではなかった。

 イギリス人たちが恐る恐るうなぎ料理を待ち受けていると出て来たのは予想外の形をした料理だった。しかもこれがまた不思議と美味うまい。それで「そうか。うなぎはゼリード・イール以外に、こういう食べ方もあるのか」と、サトウを含めたイギリス人たちは目からうろこが落ちた気分になった。

 その次に出て来たすっぽんのシチューもなかなか美味うまかった。しかしその次に出て来たたアワビと鶏肉の煮物にものは、どうにもサトウは食べられなかった。ナイフの刀身が抜けそうで上手うまく切れなかったのだ。それでサトウは他の人に自分のお皿を勧めた。最後に出て来た柿のデザートはすこぶる美味かった。


 ところで、すっぽんのシチューはともかくとして、これらの料理が「欧州風ディナー」と言えるのかどうか、筆者にははなはだ疑問に思われる。

 けれどもサトウは次のように俊輔の努力をほめている。

「伊藤は欧州風ディナーを用意するために涙ぐましい努力をしていた。このディナーは長州では初めての欧州風ディナーの試みだったに違いない。あるいは日本全体でも初めてだったかも知れない」

 ともかくも、この「欧州風ディナーの会」はつつがなく終了した。


 それから数日が経った九月五日、長州の横浜派遣使節である井原や俊輔たちはイギリスのバロッサ号とオランダのジャンビ号の二隻に分乗ぶんじょうして、下関から横浜へ向かった。ちなみに俊輔はジャンビ号に乗っていたので道中サトウとは別々だった。

 五日後、俊輔たちが横浜に着いてみると、イギリスのオールコック公使は長州使節をあたたかく迎え入れ

「賠償金は幕府が支払うことになった」

 と告げて、長州使節を安心させた。

 とりあえずホッとした井原や俊輔たちは急いで横浜を発って長州へ戻ることにした。

 なにしろ本来であれば長州人は、日本中どこにも身の置きどころがないのである。

 なぜなら長州は「朝敵」であり、幕府から追討令ついとうれいを受けている立場でもあり、外国人居留地である横浜にいるからこそ俊輔たちは特別扱いされているだけのことで、すでに江戸と大坂の長州藩邸は取り壊され、藩邸に残っていた長州人は全員捕縛ほばくされてしまったのだ。

 俊輔たちは四日後、下関の監視へ向かうイギリス軍艦に便乗して横浜を出発した。


 俊輔たちは下関に着くと急いで山口の政事堂へ行き、賠償金問題の報告をおこなった。九月二十三日のことである。俊輔はその報告が終わると下関へ戻ってきた。

 そして戻ってすぐに俊輔は悲報ひほうに接することになった。

「山口で聞多が刺客に襲われ、瀕死ひんしの重傷におちいっているらしい」

 これを聞いて俊輔はすぐに山口へと取って返した。

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