第15話 宍戸刑馬(高杉)の下関談判
第五章・出会い 3<宍戸刑馬(高杉)の下関談判>
長州藩には
現在の下関市の市域にほぼ該当する領地をこの長府藩が
八月八日、高杉(
長府藩の家老は高杉のところへ来て、和議に対する不服を申し立てた。
「御本家では和議をなさる方針だと聞きましたが、
これに高杉は
「これは分からぬことをおっしゃる。和議が嫌なら、なぜ
この高杉の対応に家老は「無礼な!」と激しく高杉につめ寄ったが高杉は相手にせず、とにかく三人は四ヶ国との交渉の席に着くため下関の市街へ向かった。
俊輔はなぜか「休戦時には白旗が必要である」という西洋の知識を身につけていた。さすが松陰から「周旋家の才能がある」と言われていただけのことはある。俊輔は高杉たちに、自分が先にイギリス船へ行って交渉してくる、と伝えた。
「西洋では休戦する時に白旗が必要なのです。ワシが先に敵艦へ行って話をしてきますので、号砲の合図が鳴ったら高杉さん、いや宍戸さんたちも船を出発させてください」
そう言って用意しておいた大きな白旗を持って漁船に飛び乗った。そして俊輔は白旗を振りながら四ヶ国艦隊を目指して進んで行った。
漁船はコンケラー号という一番大きな軍艦に到着した。
俊輔は番兵に「これはフラッグシップ(旗艦)か?」とたずねると「いや、これはフラッグシップではない。あのユーリアラス号がそうだ」と番兵は答えたので俊輔はユーリアラス号へ向かった。
そしてユーリアラス号の近くまで来ると俊輔は番兵に向かって叫んだ。
「アーネスト・サトウに会いたい。彼を呼んでくれ!」
しばらくするとサトウが
「やあ、伊藤さん。ご無事でなによりです。そろそろ戦争に
「イエス!まったく飽きた。藩のえらい人、ザ・グレート・マンを連れてきたので戦争を休止してほしい」
「そうですか。とにかく船にあがってください」
俊輔はサトウに
サトウは俊輔を艦長のアレキサンダー大佐のところへ連れていった。そして大佐に和議の使者を連れてきたことを説明した。
「あなたの国の人、こんな悪いことしました!」
そう大声で言いながら、笑った。
このジョークとも嫌味とも分からない大佐の発言を聞いた俊輔は、
それから俊輔はキューパー提督とも面会した。提督は俊輔に
「長州藩主が和議の交渉に来るのか?」
「いや。藩主は病気で来られないので代理のザ・グレート・マンを岸に待たせている」
「本来であれば藩主が来なければならない。とにかく、その代理には会うだけ会おう」
提督の
やがてキューパー提督やフランスのジョレス提督が待ち構えている会談の席に、宍戸刑馬こと高杉晋作を正使とした長州の講和使節がやって来た。
高杉は派手な
英仏側から見た「宍戸刑馬」の第一印象は
「こんな
というものであった。
この会談にはサトウ、俊輔、聞多たちも出席し、彼らの通訳のもと会談は始められた。
まず俊輔が英仏側に対して書状を提出した。
これは開戦直前に、俊輔と聞多が持参していたものの交渉に間に合わず提出できなかった書状で「文久三年五月十日を攘夷期限」とした幕府の
高杉は英仏側に説明した。
「開戦前にこれを提出できなかったのは残念である。これを見てもらえば長州に非が無いことは明白であったものを」
ところが英仏側はその書状を見る前に「宍戸」に問い質した。
「その前に、あなたは
信任状とは、こういった国対国の交渉の際に必要な
長州側はそういった西洋の外交ルールを知らなかったので信任状など持って来ていなかった。
高杉は至急、信任状を取りに行かせるので明後日の会談において提出すると答えた。余談ながら、後年、俊輔は岩倉使節団の一員となって渡米した際、同じように信任状の
それはさておき、とりあえず英仏側は信任状のことは後回しにすることを了承し、休戦交渉の会談を始めることに同意した。サトウは長州側の提出した和議の書状を入念に読み込み、キューパー提督に内容を説明した。
「この書状には『今後、海峡の通航に
このようにキューパー提督は高杉に言った。それで高杉は答えた。
「外国船の通航を差し許すということで、まさしく和議の意志を示しているではないか」
「外国船に対して砲撃したことを謝罪しなければ和議の意志を示しているとはいえない。またこの書状の
高杉はムスっとした表情のまま何も答えなかった。キューパー提督は続けて言った。
「さらに我々の要求は次の通りである。一つ、大砲の撤去を認めること。二つ、今後長州が一発でも発砲すれば我々は下関の町を焼き払う。三つ、戦闘中に行方不明になったオランダ水兵二名を引き渡すこと。四つ、下関の町人に言って我々に食料を販売すること。以上である」
それでもやはり、高杉はムスっとしたまま何も答えなかった。ちなみに三つ目のオランダ水兵の件については、すでに長州側が二人を殺害してしまっているので
高杉が返事をしようとしないのでキューパー提督は「イエスかノーか!」と机を叩いて怒った。まるで後にシンガポールを陥落させることになる山下
見かねた俊輔が高杉に対して進言した。
「高杉……、いや宍戸さん。とにかく、どれか少しでも相手の言い分を認めないと、交渉になりませんよ」
すると高杉が答えた。
「いや。今しがたずっと、連中の要求に対してどう答えるか考えていたんだが、すべて受けいれて構わないと分かった。だから俊輔、あいつらにそう言ってやれ」
「今度もって来る書状には、負けた軍が勝った軍に対してちゃんと謝罪してないといけませんよ。例えば『
「誰が降参などするか!」
高杉は
(私の言葉は少し彼を傷つけたようだ)
と思った。
高杉は別に強がっていた訳ではない。「まだまだ談判は始まったばかりだ。今に見ていろ」というつもりだった。
ところが、高杉は次の談判には出席できなくなってしまったのである。
この日の談判はこれで終了となったが、高杉と俊輔が船木にいる世子定広へ談判結果を報告して退出すると、同僚から
「外国との和議に反対する攘夷派が高杉、伊藤、井上の命を狙っているので気をつけろ」
と言われたのだった。ちなみに聞多は大砲撤去の立ち合い役を任され、下関の砲台のところに残ったままだった。
高杉はその同僚に問い質した。
「それで上層部はそいつらを取り締まらないのか?」
「ああ。ただ困った、困ったと言っているだけで、何も手を付けようとしない」
「何という無責任な奴らか!聞多の言うとおりだった!あの連中とは行動を共にすることはできない!おい、俊輔、とにかく俺たちは逃げることにしよう」
「はい!」
そんな訳で高杉と俊輔は急きょ船木の農家に潜伏することにした。
「宍戸刑馬」が行方不明になったので、二日後の第二回会談には長州側は別の代表者を出席させることにした。
毛利
キューパー提督はさっそく「前回代表だった宍戸はなぜ来ないのか?」と長州側に問い質した。
「宍戸刑馬は
と長州側は答えた。
「もし今日の会談ですべての用件が
キューパー提督はこのように皮肉を述べた。さらに
「前回の宍戸刑馬は身分を
と長州側に
これはサトウがあらかじめ「
しかし長州側はなんとか「説得力のあるウソ」を並べたてて強引にサトウを納得させてしまった。まあ外国人で武鑑まで調べる人間はサトウぐらいのものだが、そのサトウといえども武士社会の複雑な養子縁組の仕組みまでは
さて、長州側は前回再提出を求められた和議の書状をあらためて提出した。
サトウは今回もその書状を入念に読み込み、「
さすがに「降参しました」とは書いてなかったが、前回よりかなり
一方、キューパー提督はあらためて長州側に要求を突きつけた。
「一つ、今後下関の港で石炭、食料、水などを購入できるようにすること。二つ、下関海峡に再び砲台を築いてはならない。三つ、戦争の賠償金を支払うこと。そしてこれらの要求については四日後に藩主が直接ここへやって来て回答すること」
長州側はこれらの要求を持ち帰って検討する、と回答した。
ちなみに前回要求された行方不明になったオランダ水兵二名について長州側は「どうなったか行方が全く分からない」ということで押し通した。
この日の談判が終わると、聞多は船木の定広のところへ談判結果の報告に行き、それと同時に
「お約束が違うではないですか!あのとき殿が『今後、
こうやって聞多が定広の
藩内では「この三人が若殿(定広)をそそのかして外国と和議を結ばせようとしているのだ」と思っている攘夷派も多かった。それゆえ定広は
「彼ら三人の
と藩内に通達を出して、高杉と俊輔を呼び戻した。
そして四日後の第三回会談の日が到来した。
この第三回会談では、宍戸刑馬こと高杉晋作が再び会談に出席した。
他に前回出席した毛利登人などの重役も何人か出席した。俊輔も第一回会談以来、通訳として復帰した。ただし聞多は欠席した。余談ながらこの会談には村田
英仏側は今回も同じメンバーで、会談場所も同じユーリアラス号である。
そしてこれが最後の会談となる。
冒頭、キューパー提督は長州藩主が来なかったことについて長州側を激しく責めたてた。
長州側は、連絡の船が遅れたとか、懸命に藩主を説得したが藩主は現在
これに対してキューパー提督は
「そうであれば、もっと前に我々に知らせるべきであろう。なぜ当日いきなり言うのか」
と、実にもっともな理由で長州側を責めたてた。
なにしろキューパー提督からすれば自分たちは「国家」を代表している人間であり、長州藩主は一地方の領主に過ぎず、自分たちから見れば格下だと思っている。それはまことに
とにかくこの問題についてはしばらくやり取りがあった後、とりあえず
前回、四ヶ国側から要求があった三点について、まず一つ目の「今後下関の港で石炭、食料、水などを購入できるようにする」ということについては、長州側も異論なく同意した。
二つ目の「下関海峡に再び砲台を築いてはならない」ということには、長州側は不服を申し立てた。
なにしろこれから幕府、諸藩連合が長州へ攻めて来るのである。
その際、砲台がないと下関を守ることが出来ない。長州側はこのことを散々キューパー提督に説明した。しかしこの条件については四ヶ国側が一切の
最大の争点となったのは三つ目の「戦争の賠償金を支払うこと」についてだった。
これには宍戸こと高杉が、激しく反論した。
もちろん、長州藩には多額の賠償金を支払う
「文久三年五月十日を攘夷期限と命じたのは朝廷と幕府である。賠償金を請求するのであれば幕府に言うべきである」
高杉はこのようにキューパー提督に反論した。するとキューパー提督も高杉に反論した。
「我々は下関の砲台から砲撃をうけたのだから、当然、下関市街を焼き払う権利があった。しかし我々は
キューパー提督の言う「相当な金額」とは、後に300万ドルという
ただし、かなりの高額になるであろうことはイギリス側も
高杉は再び反論した。
「大砲を撃ったのは兵士であり、下関の町民にはまったく関係ない話である。なぜ町民が街を焼き払われたり、多額の賠償金を
もし俊輔がイギリスの新聞記事のことを詳しく知っていれば「キューパー提督が下関市街を焼き払えるはずがない」ということをここで追及できたであろうに。
なぜならキューパー提督は薩英戦争の際に鹿児島市街を焼いて、そのことをイギリス議会から「非人道的である」と厳しく追及されており、イギリスの新聞でも批判されていたのである。要するに、この下関戦争においてキューパー提督が下関市街を焼かなかったのは「一度鹿児島の市街を焼いて厳しく非難された“
そういったイギリスの政治や世論に詳しい人間が長州にいれば、この点を上手く反論できたはずなのだが、たった数ヶ月しかロンドンにいなかった俊輔にそんな知識があるはずもなかった。
それにしても、どのみち現代の我々から見ればキューパー提督の言う「お前たちの街を焼かなかったのだから代わりに金を出せ」という理屈はずいぶんと乱暴な話に聞こえるだろうが、この十九世紀の話としては、さして珍しい話でもない。
高杉の反論をうけてキューパー提督も再び反論した。
「あなたたちは戦争を始める前にその費用を計算しておかなければならなかったのだ。そして今その
「だからその勘定書は幕府へ回すべきだと言っているのだ」
もはや、お互い一歩も譲らない構えである。
事ここに及んで、キューパー提督はかなり突っ込んだ発言をした。
「あくまで賠償金の支払いを拒むのであれば、我々は
すると高杉はすっくと立ち上がり、キューパー提督をにらみつけて宣言した。
「長州には藩主のために命を投げ出す兵士がまだ何万といる。あまりに過大な要求を突きつけられると彼らを制止するのが難しくなる」
このようなやり取りが続き、会談が平行線のままだったので一時休憩を取ることになった。
その間に俊輔はサトウを室外へ連れ出して密談を持ちかけた。
「どうにも困ったものだ。このままでは和議は
これに対しサトウは答えた。
「私も長州が多額の賠償金を支払えないことは分かってます。確かにキューパー提督は、宍戸さんの発言をうけて少しムキになっているようですね。ただしこの賠償金の請求は四ヶ国が取り決めたものなので、講和にはどうしても必要な条件なのです。我々としても、長州に多額の賠償金を請求するのが目的ではありません。賠償金は『支払ってくれそうなところから』
「それは『幕府に支払わせる』と理解してよろしいか?」
「
密談を終えた俊輔とサトウは、会談の席へと戻った。
二人が席へ戻ると、高杉が席に座ったまま何か歌っているかのようにしゃべり続けていた。少なくともサトウには歌っているかのように見えた。
「
サトウは俊輔に「宍戸は何を歌っているのか?」とたずねた。
「ああ、あれは古事記です。あの人は古事記を口ずさむのが趣味なんです」
「コジキ?」
「我が国の神話です」
後にサトウが「日本アジア協会」で
俊輔は高杉に対して、賠償金請求に関するイギリス側の認識を伝えた。
そしてサトウもキューパー提督に対して、日本側の事情を説明して、さらにいくつか助言も付け加えた。
キューパー提督は再び高杉に対して意見を述べた。
「もし本当に長州が
これに対して高杉が答えた。
「それで結構である。ついでに私の個人的な意見を述べると、あなたたちは賠償金を請求するよりも
これで長州とイギリスの談判は終了となった。
さて、いくらか先回りをして賠償金支払い問題の結末を述べてしまうと、幕府と四ヶ国との話し合いの結果、賠償金は幕府が支払うことになるのである。
「長州も日本の一部だから国全体の政府である幕府が支払うべきである、との判断で幕府自身が支払うことを容認した」
という見方もできるかも知れないが、やはり幕府が出した「文久三年五月十日を攘夷期限とすべし」という布告書に関して、幕府が四ヶ国に対してハッキリと
そして四ヶ国が幕府に請求する金額は300万ドルという
ちなみに四ヶ国はそれを
四ヶ国、特にイギリス(オールコック公使)としては賠償金を取り立てるのが目的ではなく、下関あるいは他の瀬戸内海の港(基本的には開港を延期している兵庫港)を開港させることが目的であり、四ヶ国は幕府に対して
「300万ドルの支払いか?下関または兵庫の港を開くか?」
の二者択一を迫ることにしたのだった。
ある意味この300万ドルは「ふっかけて請求した」ようなものであり、まさか四ヶ国も、幕府が300万ドルの支払いを選ぶとは思っていなかった(ただしフランスのロッシュだけは、日本側に多額の賠償金を支払わせることを狙って当初200万ドルの予定だったところに後から100万ドル上乗せして請求したので「金目当てだった」と言える)。
オールコックがなぜ「下関の開港」を要求したのか?その理由は定かではない(多分高杉が下関開港を訴えた事とは関係がない)。
下関を開港する場合、長崎と
オールコックが下関の開港を要求した理由は、おそらく
「幕府が横浜、長崎、箱館(函館)さらには兵庫といったすべての貿易港を支配しているので、大名(特に薩長)が幕府を憎むのだ。であるならば大名の港である下関を開き、大名も自由に貿易できるようにしてやれば大名の不満も減るだろう」
といった
ここでさらに先回りをして「その二者択一」に対する幕府の回答を述べてしまうと、幕府は港の開港よりも賠償金300万ドルの支払いを選ぶのである。
兵庫の早期開港は朝廷の強い反対があるので不可能である。
さりとて、下関の開港は大名に自由貿易を許可することになり武器なども自由に輸入できるようになってしまうので、これも幕府としては認められない。幕府が長州を
今回の下関戦争において、オールコックは長州を徹底的に叩くつもりだった。それゆえ、キューパー提督に対して
「賠償金の担保として長州領の一部(特に下関)を占領せよ。また本拠地の萩を攻撃せよ」
といったことまでオールコックは命じていた。
キューパー提督が彦島の
しかしキューパー提督は、長州領を占領しようとはしなかった。
いや。もし戦争の際に長州兵たちが一目散に逃げ出すか、あるいは談判の際に長州側があっけなく
後年サトウは次のように手記で語っている。
「日本人が
また、あるイギリスの歴史家は下関戦争について次のように書いている。
「日本の
キューパー提督は冷静に戦力を分析した上で、長州領を占領するというリスクを避けたのである。
一応参考までに前回の薩英戦争と同じく、今回も数字で表すと死傷者数は次の通りである。
四ヶ国連合:戦死者12名、負傷者60名、死傷者合計72名
長州藩:戦死者18名、負傷者29名、死傷者合計47名
(※一般に広く伝わっている説に
死傷者合計では、四ヶ国側のほうが多数の被害を出している。
無論、長州は全砲台を占拠され、約120門の大砲をすべて撤去されているのであるから、勝敗はあきらかに長州の負けである。
筆者が思うに、キューパー提督は次のように考えたはずである。
「下関海峡の通航が確保されさえすれば四ヶ国の目的は達成したことになるのだから、下関を占領するかどうかということは、あとは幕府がやれば良いだけの話である。四ヶ国の兵士が幕府のためにそこまで血を流す理由はない」
そしてキューパー提督が長州領を占領しなかったもう一つの理由は、イギリス一国で長州領を占領するのであればまだしも「四ヶ国連合軍」として戦っているだけに四ヶ国内のかけひきが存在していたからである。
要するにイギリスの独走をこころよく思っていなかったフランスが、イギリスに歯止めをかけていたのである。
そういった諸々の理由から、キューパー提督は長州領の占領をあきらめたということである。
余談ながら、イギリスは太平天国の乱では、清国政府のためにイギリス兵の血を流して戦った。なぜイギリスがそうしたのか?というと、日本と違って清国にはイギリスの利権が多大に関係していたことと、さらに言えば清国政府がイギリスからの援軍の申し出を受け入れたからである。
実は幕府も、これ以前に何度か英仏から援軍の申し出を
イギリスは、まだ清国で太平天国が片づいてなかったのでそれほど積極的ではなかったが、それでも前年の「小笠原
けれども幕府は基本的に英仏からの援軍の申し出を容認しない方針で一貫していた。このことに限って言えば、幕府の
そしてもう一つ余談を付け加えると、
「高杉と
筆者が思うに、現代の日本人の感覚からすると「今は人もあまり住まない彦島が、もし香港のように発展していたのであれば、それはそれで良かったんじゃないの?」という声が多数になりそうな気がしてならない。
長州と四ヶ国との休戦協定が成立したので、四ヶ国の艦隊は下関で再度砲台が築かれないよう監視するための船を若干残して、あとは順次横浜へ帰還することになった。また四ヶ国の外国人たちは下関市街への上陸が許可された。この頃には下関の町民も皆、戦争が終わったことを見届けて市街へ戻って来ていた。
サトウはさっそく下関に上陸して食事や買い物を楽しんだ。下関の町民は皆、外国人に対して親切だった。そして戦争が終わったことを心から喜んでいた。ただし武士の中にはまだまだ攘夷意識が強い連中もいて、外国人にむかって、刀を抜いたりはしないまでも、にらみつけたり
ところで、長州藩はキューパー提督に対して「藩士数名を横浜まで
「幕府と四ヶ国との会談で賠償金問題の結果がどうなるのか、横浜で確認したい」
というのが長州側の言い分であった。この長州の態度は、薩英戦争のあと薩摩が講和の席でイギリスに対して軍艦の購入や留学生の派遣を申し出たのと似ている。薩摩も長州も講和が済み次第、すぐにイギリスの
キューパー提督はこの長州の申し出を了承した。
横浜へ行く長州使節の正使は家老の井原
数日後、俊輔が商人二名を連れてバロッサ号のサトウを訪問した。
「やあ、サトウさん。下関の商人に町を案内させますから見学に行きませんか?」
サトウは二つ返事でオーケーし、俊輔と一緒に町へ出かけた。
商人たちはサトウを長州特産の
俊輔はサトウを案内しながら長州人が外国との貿易を望んでいることを説明した。
「下関が開港されればこれらの商品だけに限らず、大坂や北陸の商品も扱うことができます。藩主も下関が開港されることを望んでます」
市内見学が終わってサトウがバロッサ号へ戻ると、俊輔はそのまま艦に残ってサトウと相談を始めた。
「確かに我々は外国との貿易を望んでいるのですが、実は今、藩はそれどころではないのです。将軍と諸藩の軍が近いうちに我々を攻めに来るはずなので、その対応に藩は追われているのです」
「やはり長州は幕府と戦うことになるのですか?」
「まだ分かりません。しかし幕府が攻めてくれば我々は一丸となって戦うことになるでしょう。詳しいことが分かり次第サトウさんに手紙でお知らせします。横浜の公使館へ手紙を送っても良いですか?」
「もちろん結構です。ただしイギリスの船が下関へ立ち寄った際に手紙を
「分かりました。ところでサトウさんはどんな風に名前を書いてるんですか?“サトウ”ですか?“佐藤”ですか?」
俊輔は紙に「サトウ」とか「佐藤」と書いて、サトウに尋ねてみた。
サトウは少し恥ずかしがりながら答えた。
「あのー、そのー……。実は私の日本語教師といろいろ相談してるんですけどね。“佐藤”じゃ一般的過ぎてつまらないし、実はこんな風に書いてます」
そう言いながらサトウは紙に「薩道懇之助」さらに「薩道愛之助」と書いて俊輔に見せた。
「はあー、なるほど“薩道”でサトウですか。アーネストは“愛之助”と……。しかし“懇之助”だとコンノスケかネンゴロノスケと日本人は呼んでしまうかも知れませんな。それはともかく“薩道”は……。ワシは実のところそれほど気にしておらんのですが、藩内では“薩摩”のことを激しく憎んでいる人間が多いのです。この前、京の
「懇の字は
「無理でしょうな。もうすぐ攻めて来る諸藩の軍勢には薩摩も加わってるでしょうから」
「我々は薩摩と戦争しましたが、終わったらすぐ和解しました。長州とも戦争して、すぐに和解しました。何を考えているのか分からず、態度がハッキリとしない幕府と違って、長州と薩摩は
「まあ、どちらも関ヶ原で負けた、という点では似てるかも知れませんな。今でも我が藩には関ヶ原の
「イギリスは長い時間をかけてそういう政治体制を作ったのです。日本がそうなるには相当時間が必要でしょう」
「ワシもそう思います。まあ、とてもじゃないが、ワシの生きているうちにはまず無理でしょうな。ところで今度、艦長さんたちを食事に招待したいと思ってるんですが、いかがでしょうか?以前ワシと井上を姫島まで送ってもらって、今度は横浜まで送ってもらうので、そのお礼です。もちろんサトウさんにも来てもらいたい。ワシのロンドンでの経験をいかしてイギリス風の食事にしたいと思ってます」
「それは面白そうですね」
数日後、二人が参加メンバーをセッティングして、イギリスと長州から数人ずつが参加する「欧州風ディナーの会」が下関の
ヨーロッパ風のテーブルクロスをかけたテーブルを用意し、皿とスプーンと
最初はハゼの
そして主催者である俊輔は
「次の料理はうなぎの
とイギリス人たちに告げた。すると彼らは少しギョッとした。
イギリス人にとってうなぎ料理と言うと、すぐに思い浮かぶのは「ゼリード・イール(ウナギのゼリー寄せ)」だった。
この料理はまず、見た目が非常に悪い。
そして味もイマイチで、決して人気のある食べ物ではなかった。
イギリス人たちが恐る恐るうなぎ料理を待ち受けていると出て来たのは予想外の形をした料理だった。しかもこれがまた不思議と
その次に出て来たすっぽんのシチューもなかなか
ところで、すっぽんのシチューはともかくとして、これらの料理が「欧州風ディナー」と言えるのかどうか、筆者には
けれどもサトウは次のように俊輔の努力をほめている。
「伊藤は欧州風ディナーを用意するために涙ぐましい努力をしていた。このディナーは長州では初めての欧州風ディナーの試みだったに違いない。あるいは日本全体でも初めてだったかも知れない」
ともかくも、この「欧州風ディナーの会」はつつがなく終了した。
それから数日が経った九月五日、長州の横浜派遣使節である井原や俊輔たちはイギリスのバロッサ号とオランダのジャンビ号の二隻に
五日後、俊輔たちが横浜に着いてみると、イギリスのオールコック公使は長州使節をあたたかく迎え入れ
「賠償金は幕府が支払うことになった」
と告げて、長州使節を安心させた。
とりあえずホッとした井原や俊輔たちは急いで横浜を発って長州へ戻ることにした。
なにしろ本来であれば長州人は、日本中どこにも身の置きどころがないのである。
なぜなら長州は「朝敵」であり、幕府から
俊輔たちは四日後、下関の監視へ向かうイギリス軍艦に便乗して横浜を出発した。
俊輔たちは下関に着くと急いで山口の政事堂へ行き、賠償金問題の報告をおこなった。九月二十三日のことである。俊輔はその報告が終わると下関へ戻ってきた。
そして戻ってすぐに俊輔は
「山口で聞多が刺客に襲われ、
これを聞いて俊輔はすぐに山口へと取って返した。
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