第21話 幕長戦争

第七章・二転三転 2<幕長戦争>


 六月七日、幕府軍が周防すおう大島おおしまへの攻撃を開始して、幕長ばくちょう戦争(第二次長州征伐)の火ぶたがきられた。


 幕長戦争は別名「四境しきょう戦争」とも言う。

 戦闘があった四つの地域、すなわち周防大島の大島口、広島の幕府軍本隊と戦う芸州げいしゅう口、山陰の石州せきしゅう口、下関が面している小倉口、これら四方面で長州人が郷土を死守した戦争という意味で、これは主に長州人が好んで使う呼び名である。


 ちなみに当初は萩を攻撃する萩口も予定されており、四境戦争ではなくて「五境戦争」となるはずだったのだが、萩口を担当する予定だった薩摩藩が出兵を拒否した。すでに水面下で薩長同盟が結ばれていたのだから拒否するのは当然だった。

 幕府老中の板倉いたくら勝静かつきよは大久保一蔵を大坂城に呼び出し、薩摩藩の出兵を強く要請した。

 しかしこの時大久保は

「は?聞こえません」

 と耳が遠いフリをした。

 そこで板倉は少し大久保に近づき、今度はやや声を大きくして薩摩藩に出兵を要請した。

 すると大久保は板倉に食ってかかるように言った。

「なんと、幕府は薩摩に対して出兵しようというのか!薩摩に何の罪があるというのか?!」

 あわてた板倉は「薩摩ではなくて長州を攻めるのだ」と説明しようとしたところ

「今度の長州征伐は幕府の私闘しとうである。名分めいぶんのない戦いに兵は出せない」

 と大久保は言い捨てて、その場から退出したという。

 大久保は完全に幕府をナメている。

 大久保と板倉の間にはこれまでも似たようなやり取りがあったが(第12話で紹介したが)、まったく板倉にとって大久保は天敵と言えるような存在だったろう。


 実は大久保がこのように言いながらも、結局薩摩は出兵したのである。

 ただし長州に対して、ではなくて「幕府に対して」という出兵なのだが。

 幕府軍による長州への攻撃が始まると同時に、薩長同盟で約束していた通り、薩摩は京都へ約千名の兵を送ったのである。

 それはちょうど、鹿児島でパークスを迎えている頃のことであった(この件については少し後で詳しく述べることになる)。

 この京都の薩摩兵が大坂の幕府直属軍に対してにらみをきかせる形となり、幕府は大坂から長州へ援軍を送りづらくなった。


 とはいえ、幕府直属軍抜きでも諸藩の兵が長州の四境を取り囲み、その総兵力は十数万人という大軍だった。

 一方長州軍の総兵力はせいぜい五千人であり、およそ二十倍の兵力差があった。


 これに加えて海軍力でも幕府軍が長州軍を圧倒しており、最新鋭の富士山ふじやままる(排水量は千トン)を筆頭に蒸気軍艦七隻を戦線に投入していた。

 一方、長州軍の蒸気船は高杉が開戦直前に買い入れたへいいん丸だけで、この船は富士山丸の排水量の十分の一以下という小型艦であった。

 あとはほとんど使い物にならないボロボロの帆船が三隻あるだけだった。

 一応、たのみのつなとしては俊輔が買い入れてきたユニオン号(乙丑いっちゅう丸)もあるにはあるが、これは坂本龍馬と共に鹿児島にいて、このとき下関へ向かっている最中だった。

 ただし、この一隻が加わったところで海軍力の差はほとんど埋まらず、実際長州軍はこの幕府海軍に終始苦戦をいられるのである。


 これだけの戦力差があるのだから、幕府軍が負けるなどと誰も考えていなかった。

 初戦の大島口の戦いでも幕府陸海軍が長州軍を圧倒し、たった数日で周防大島を制圧した。


 ところが六月十二日の夜、高杉の乗った丙寅丸が大島口の幕府海軍に奇襲をかけた。

 「夜に船で戦う」という発想は常識外れであり、それだけに幕府海軍は蒸気の火を落として油断していた。そのため反撃が間に合わず、丙寅丸は数発大砲を撃ちかけた後、ゆうゆうと脱出に成功した。

 ただし、この奇襲では特にこれといった戦果はなかった。幕府海軍の船にかすり傷がついた程度のことである。

 とはいえ、この奇襲によって長州軍の士気は大いに上がり、一方幕府軍は長州軍から「きもを冷やされる」形となって心理的なプレッシャーをうけることになった。


 そして六月十四日には芸州口でも戦いが始まった。

 戦場は大竹おおたけむら(現、広島県大竹市)で、幕府軍の先鋒せんぽうは徳川家の伝統通り井伊家(彦根藩)と榊原家(高田藩)だった。

 どちらも「徳川四天王」の流れをくむ武家の名門である。

 そしてどちらの兵士も、伝統にとらわれたままの旧式装備だった。


 一方、長州軍の兵士は射程距離の長い「ミニエー銃」を標準装備しており、しかも戦術は「散兵さんぺい戦術」だった。

 散兵戦術とは、それまでの密集みっしゅうした陣形じんけいと違って、少人数の部隊が広く散開さんかいして、各々おのおの遮蔽物しゃへいぶつを利用するなどをいかして敵を攻撃する戦術である。

 以後、この幕長戦争ではすべての戦場において、この長州の「ミニエー銃」と「散兵さんぺい戦術」が威力いりょく発揮はっきすることになる。

 散兵戦術を長州に導入したのは大村おおむらます次郎じろう(以前の名は村田蔵六)である。


 この日の大竹村での戦いは、長州軍の圧勝であった。

 しかしながら、この日以降も長州軍が勝ち続けたという訳ではない。

 なんといってもこの芸州口は、幕府軍の本隊がいる戦場なのである。

 幕府軍のすべてが井伊や榊原のような旧式装備だった訳ではなく、装備の面では長州軍と互角、あるいはそれ以上の部隊もいた。また海からは幕府海軍が艦砲射撃によって陸上兵力を支援した。そして何よりも、兵の人数が長州軍の二十倍いるのである。

 以後、この芸州口の戦いは一進一退が続くことになる。



 そして大竹村での戦いの翌十五日、長州軍は大島口で反攻はんこう作戦を開始した。

 詳細は割愛するが、反攻作戦は成功し、幕府軍は船に逃げ込んで退却することになり、長州軍は周防大島を取り返した。


 さらに翌十六日からは石州口でも戦いが始まった。

 そしてこれも詳細は割愛するが、ここでも長州軍は連勝をかさね、益田ますだ(現、島根県益田市)を抜き、ついには浜田はまだじょう(同浜田市)も陥落させた。

 この石州口の軍参謀さんぼうは大村益次郎であった。

 大島口でも、石州口でも、長州の「ミニエー銃」と「散兵戦術」が威力を発揮して勝利を得たのである。



 ただし長州としては大島口と石州口で勝ったとしても、一番重要な戦場である「東の芸州口と西の小倉口」で負ければ戦線の崩壊は必至ひっしである。

 東の芸州口を持ちこたえている内に、何としても西の小倉口で勝利する必要があった。

 小倉口の戦いこそが、長州の死命しめいを決するのである。


 その小倉口、すなわち下関海峡に六月十五日、フランスのロッシュが船で乗りつけた。

 その応接には、小倉口の実質的な司令官である高杉が出向いていった。

 高杉は大島で幕府艦隊に夜襲をかけた後、下関に戻って来ていた。

 ちなみに俊輔と聞多はこの頃、石州口での後方支援にあたっていたので下関にはいなかった。


 ロッシュは高杉に対し、幕府と講和するように勧めた。

 そして講和を勧告かんこくする書状を渡し、後日返事を受け取りに来ると述べ、長崎へ去って行った。

 ロッシュの態度は明らかに高圧的な雰囲気をただよわせていた。

 また、その書状の内容もロッシュの態度と同様で、講和とは名ばかりの「降伏勧告」であった。

 幕府の意を受けてやって来たロッシュとしては何としてでも長州を屈服させたかったのである。


 高杉からすればバカバカしくてお話にならない。

 なにしろこれから高杉は、すぐにでも海峡を渡海とかいして小倉へ攻め込むつもりなのだ。

 りも良し、ロッシュが来る直前に龍馬が乙丑いっちゅう丸に乗って下関へやって来た。


 高杉は龍馬に会うとさっそく文句を言った。

「遅かったではないか、坂本君。待ちきれずに丙寅丸だけで作戦を開始するところだったぞ。ところで、我々と一緒に海戦かいせんをやってみないか?こんなことは滅多めったに経験できるもんじゃないぞ」

 龍馬は即答した。

「おお、やるやる。この船を長州へ渡す前に、最後の恩返おんがえしだ。なに、この船の扱いにかけては我々亀山社中の人間が一番れている。それと高杉さんにもらったピストルで命が助かった、その礼もせんといかんからな」


 この乙丑丸は俊輔が買い付けた時はユニオン号といったが、長州では乙丑丸、薩摩では桜島さくらじま丸と名付けて薩長間で所有権問題が発生し、両者の間に微妙な確執かくしつを作ってしまった船である。

 龍馬としては、その仲立なかだちをした責任もあって長州に「恩返し」がしたかった。

 そもそもこの船を買う時に龍馬は

「長州が船を必要とする時まで、薩摩の旗印はたじるしかかげて我々亀山社中の人間が運用すれば幕府には長州の船とはバレない」

 と言っていたのだから、実際この時まではその通りに運用されてきた訳で、龍馬にとってはこの戦争での運用が最後の仕事ということになる。



 一方、小倉側にいる幕府軍の総司令官は老中の小笠原長行ながみち壱岐守いきのかみ)である。

 この物語では以前、生麦賠償金問題、外国人追放令、率兵そっぺい上京の場面で登場した。


 小倉口の幕府軍は九州諸藩の連合軍で、総数は約二万数千人の軍勢である。

 なかでも熊本藩兵が一万数千人と最も多かった。

 ただし最前線で戦うのはやはり小倉藩兵で、その数は約二千人だった。

 これに対する長州軍は、山県狂介きょうすけありとも)がひきいる奇兵隊など約千人である。

 余談ながら、小倉の藩主も長行と同じ小笠原氏なので小倉城で指揮をっている長行を小倉藩主と勘違いしがちだが、小笠原長行は唐津からつ藩主である。そしてこの時の小倉藩主は、まだ五歳の幼君ようくんだった。


 高杉は龍馬の乙丑丸が下関に到着すると、すぐに小倉側への攻撃作戦を開始した。

 現在は関門かんもんきょうによって下関側と小倉こくら門司もじ)側はつながっているが、小倉側の、ちょうど橋の辺りにった半島がある。

 下関側から見ると、その出っ張りの左(東)側が田野浦たのうらで、右(西)側が門司浦である。そしてその門司のずっと先に小倉城がある。


 高杉が計画した作戦は次の通りである。

 龍馬の乗る蒸気船乙丑いっちゅう丸が帆船はんせん庚申こうしん丸を縄で引っ張って、この二隻で門司浦を艦砲かんぽう射撃する。

 同時に高杉の乗る蒸気船丙寅へいいん丸が帆船癸亥きがい丸を縄で引っ張り、さらに帆船丙辰へいしん丸も加えた三隻の船で田野浦を艦砲射撃する。

 これらの船で小倉側の砲台を叩いた後に、奇兵隊などの陸上部隊が小舟に乗って小倉側に上陸する、という作戦であった。


 高杉と龍馬は六月十六日の深夜に出撃準備をして、翌未明に船を出発させた。

 そして夜が明ける前にそれぞれ戦闘配置につき、日の出とともに砲撃を開始した。

 しばらくすると小倉側の砲台も反撃を開始して、たちまち砲撃戦となった。


 長州は以前四ヶ国艦隊と砲撃戦を経験したことがある。

 ただしその時は逆に、艦隊から砲撃される側であった訳だが。

 その時の四ヶ国艦隊、特にイギリス艦隊と比べると、この長州艦隊は大砲の数も威力も、まったく微弱びじゃくな代物であった。


 この時の海戦の様子は、後に龍馬が土佐の家族に宛てた手紙で(しかも図解ずかい入りで)詳細に解説しているが、それによると小倉側の砲撃によって龍馬が引っ張っていた庚申丸には二十発、高杉が引っ張っていた癸亥丸には三十発の砲弾が命中した。

 もっとも、小倉側の砲弾も弱かったので撃沈されずに済んだ。


 さらにその手紙によると、龍馬がいた門司側の、さらにずっと先のほうに幕府軍の軍艦三隻が待機していた。

 ところが龍馬の手紙によると

「なぜか分からないが、それらの軍艦は援軍に来なかった」

 と書いている。

 もしこれらの軍艦が攻め寄せてきたら、龍馬の乙丑丸が長州海軍では一番大きいのでたてとなって防戦する予定だったのだが、幸運にも攻めてこなかった。

 この三隻の軍艦の中に幕府海軍の主力艦である富士山ふじやま丸はいなかった。

 もし、このとき富士山丸がいたら即座に攻め込んできて、苦も無く龍馬や高杉の船を蹴散けちらしていただろう。まったく二人は運が良かった。


 こうやって龍馬と高杉の艦隊が小倉砲台の注意を引きつけている内に、奇兵隊などの上陸部隊が田野浦への渡海とかい作戦に成功した。

 龍馬の船に乗っていた長州人は、龍馬に対してうれしそうに言った。

「この上陸作戦のやり方は、以前我々が戦ったイギリス軍のやり方に勝るとも劣りません」


 上陸した長州軍は幕府軍(というか、ほぼ小倉藩軍)を次々と敗走させ、砲台を焼き、田野浦と門司浦の町を焼き、さらに幕府軍の上陸用舟艇しゅうてい数百そうを焼き払った。

 ただし、民家の焼き払いについては「戦争が終わり次第、修復する」というきを残しておいた(一説には、この田野浦と門司浦の焼き払いは、幕府軍が最初の大島の戦いで民家を焼き払ったことに対する報復ほうふくであったとも言われている)。


 この幕長戦争においてはすべての戦線で見られた姿勢なのだが、長州軍は民衆に対する配慮を重視して戦っていた(特に石州口での大村が、その点を重視して戦っていた)。

 それは武士階級よりも奇兵隊などの民兵組織を重視する方向にいち早くかたむいていた長州軍らしい戦い方とも言えよう。


 龍馬は船の上から陸上戦の様子をつぶさに観察していた。

 そして長州の奇兵隊が幕府の武士軍団を敗走させるのを見て「武士の時代は終わった」と思った。

 龍馬は家族への手紙で次のように書いている。

「小倉の兵はいくさならわず、それぞれたてを手に取ってあちこちにかたまっていた。海上から見ているといたって見苦しい様子だった」


 作戦を指揮していた高杉は、この日の夕方にすべての兵を下関側へ引きあげさせた。

 敵の上陸用舟艇しゅうていを焼き払ったのだから、当分は敵から上陸作戦を仕かけられる心配は無くなった。これだけでも十分な戦果である。

 それに敵地で陣地を保ち続けるには、長州軍はあまりにも人数が少なすぎる。

(なに、これから何度でも押し寄せてやるさ。そして必ず小倉城を落としてみせる)

 高杉はそう、心の中で誓っていた。

 しかしこの頃すでに、彼の体はみはじめていた。




 高杉と龍馬が下関海峡で戦っていたのと同じ日に、鹿児島ではパークスが薩摩藩主の島津茂久もちひさ、さらにその父久光ひさみつと面会していた。

 長崎でキング提督の艦隊と合流したパークスは、今回の鹿児島訪問をセッティングしたグラバーも連れて長崎を出発し、この日の前日、鹿児島に到着していた。


 なにしろ薩摩とイギリスは三年前、この鹿児島湾で戦争を経験している。

 そしてその戦争の原因となったのは薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件である。

 こういったいきさつからしても、両者の感情は複雑なものがあった。

 この鹿児島訪問に参加したウィリスは家族への手紙で次のように書いている。

「私個人の考えでは、この鹿児島訪問は大変なまやかし行為であり、生麦でリチャードソンを斬り殺すように命じたあの悪党、つまり島津三郎サブロウ(久光)と宴会えんかいをともにするのは恥ずべき行為だと思います。私は彼ほど悪党顔あくとうづらをした人物に会ったことがありません。(中略)き気がするほど長い宴会でした。魚、海草、きのこ、なまこ、といった料理が四十皿も出る宴会を想像してごらんなさい。これが日本式の宴会なのです」


 このようにウィリスは散々な感想を述べているが、パークスやその他の人々の感想からすると、この鹿児島訪問は全体的になごやかな雰囲気だったようである。

 藩主を含む多くの薩摩人がイギリス軍艦を訪問する一方、イギリス人たちも鹿児島の各所を訪問した。さらにお互いの兵士たちがそれぞれ演習えんしゅう披露ひろうしたりもした。


 ところで、言うまでもない話ではあるが、このパークスの鹿児島訪問は単なる「表敬ひょうけい訪問」であり、高杉や俊輔が勘違いしていた「薩英同盟を締結ていけつする」などといった大げさなものではない。

 以前は戦争するほど敵対していた両者が「お互いに和解したことを確認する」というのが今回の眼目がんもくである。


 この当時のイギリス政府が基本的に「日本の内政には干渉しない」という方針で、パークスもその方針に従っていたということは以前述べた。パークスはこのあと下関を再訪して、さらに四国の宇和島うわじまにも行く予定であり、西国諸藩の動向どうこうさぐるのが今回のパークスの目的なのである。


 パークスが藩主父子と面会した翌日、西郷吉之助がプリンセス・ロイヤル号を訪問し、パークスと会談することになった。

 西郷は薩長同盟の約束であった「京都への出兵」を手配している最中だったが、忙しい中わざわざ出向いて来たのだった。

 そしてこの会談には薩摩側の通訳として、五月下旬にイギリスから帰国していた松木も参加した。

 松木はロンドンで、パークスの上司であるクラレンドン外相に面会していたのだから、この会談の通訳としてはまさにうってつけの存在だった。


 西郷はパークスに対して条約勅許と兵庫開港の件について意見を述べた。

「幕府は諸外国に対しては『兵庫開港の勅許を得た』と申しているようだが、国内への通達では『兵庫は開港しない』と述べている。まったく二枚舌もはなはだしい。貴殿きでんはこの点を突いて、幕府を攻めるべきでござろう」

 この西郷の意見に対するパークスの答えは、実にないものだった。

「我々は日本全体と条約を結んだのであって、朝廷の勅許があろうとなかろうと我々にとっては関係がない。我々は大君タイクン政府(幕府)に対して日本を代表する政府として、確実に条約の内容を履行りこうするよう求めるだけのことである」


 この条約勅許と兵庫開港の件については条約勅許の章でくわしく述べた。

 慶喜の尽力によって条約は勅許されたが、兵庫開港については、朝廷には「開港しない」と言い、諸外国には「早期開港はしないが期限が来れば開港する」と言いのがれをして、老中の本荘ほんじょう宗秀むねひでなどが独断どくだんで(偽造ぎぞう文書で)開港を保証ほしょうした、と、要約して言えばこういった経緯である。


 このパークスの対応をうけて西郷は

(この男はよほどばくしゅうが強い)

 と感じた。幕臭が強いとはつまり、幕府擁護の気配けはいが強い、ということである。

(パークスをなんとか幕府から引き離さねばならん)

 西郷は、そう決意した。


 このあと西郷は、幕府による兵庫開港は日本人にとって、さらには外国人にとっても不都合である、ということを順序じゅんじょててパークスに説明した。

「幕府の役人はその場その場で言い逃れをしてアテにならない、というのは貴殿もご存知であろう。現在のようなかたちで兵庫開港を進めれば、またその直前になってモメることは必至ひっしである」

 この西郷の発言をうけて、パークスは一つの疑問を投げかけた。

「我々の艦隊が兵庫へ出向いた際、薩摩は兵庫開港に反対していたと聞いている。実際のところ薩摩は兵庫開港をどう考えているのか?」

「我が藩は兵庫開港自体には反対していない。現在のように、幕府が利益を独占するかたちで兵庫を開港することに反対しているだけである。西国諸藩にとって大坂は重要な交易地こうえきちなので皆そのように考えている。また京都の朝廷も同様な考えである」

「もし大君政府以外のやり方で兵庫を開港するとしたら、どのような方法で開港するつもりなのか?」

「朝廷の勅許のもと、数名の有力諸侯が外交や貿易の実務を担当し、利益の一部を朝廷へおさめるようにする。現在、幕府の役人が賄賂わいろむさぼっているようなやり方はこれで改善されるので、外国人にとっても好都合であろう」


 こういったやり取りを続けているうちにパークスも少しずつ西郷の考えに理解を示すようになった。

 ただし全面的に西郷の考え方を支持するという訳ではなかった。現時点では幕府が正式な日本の政府である、という考えをパークスが変えるにはいたらなかった、ということである。

 とはいえ、西郷から幕府の欠点を詳しく聞かされたパークスが幕府に対する評価を引き下げたのも事実であった。

「大君政府との会談の席で、こういった外国人が知るはずのない話をした場合、それは誰から聞いた話なのか?と問われることもあろう。その場合、薩摩の名前を出すと不都合であろうからせておくことにしよう」

「いや、そのような気づかいは無用である。薩摩から聞いた、ということで幕府を追及しても、我々は一向いっこうかまわない」

「大いに結構。それでこそ腹をって話ができるというものだ。大君政府の役人にも少しは君たちのような率直そっちょくさがあれば良いのだが。とにかく、我々外国人としては早く内乱が終息しゅうそくすることを望む」

「外国人に心配をかけて、とんと日本人として面目めんぼくない次第である」


 この日の西郷・パークス会談はこのような形で終了した。


 この会談について西郷は大久保一蔵に宛てた手紙で次のように書いている。

「おおむね見込み通りに事を運んだつもりですが、こちらがだまされていたとしたら仕方がありません。それでも随分、幕府の手から英国を引き離したつもりです。まったく喜ばしいことです」



 西郷との会談の三日後、パークスは長崎に戻った。

 そして長崎に来ていたロッシュがパークスに会いに来て、二人は日本の国内問題について話し合った。

 ロッシュは幕府(老中)からの依頼を忠実に守り、パークスの鹿児島訪問に対して警告けいこくを発した。

「我々外国人が大名と交流するのは悪くないことではあるが、現在のような状況下で将軍と不仲な藩主をイギリス公使が訪問するのは、いらぬ誤解ごかいまねきかねず、将軍を苦境に立たせるおそれがある」


 そして話し合いの争点は「下関をどうするのか?英仏が幕長間の調停をするのか?」という話に移った。

 幕長戦争が始まる直前にパークスが下関へ行った際に「帰路、立ち寄った時に藩主と面会する」と高杉に話していた。

 またロッシュも先日下関へ行った際に「帰路、長州が幕府と講和するかどうか、返事を聞きに来る」と高杉に言ってあった。

 二人とも帰路、下関へ立ち寄る予定になっているのである。

 それで、この長崎で話し合っていてもらちが明かないので、とにかく二人して下関へ向かうことになった。

 六月二十四日、パークスとロッシュはそれぞれ自国の船に乗って下関海峡へやって来た。


 下関海峡の戦況は、十七日に高杉が小倉側に攻撃をしかけて以降、特に戦況に変化はなく、膠着こうちゃく状態が続いていた。

 パークスとロッシュはそれぞれ個別に、幕府と長州の代表と面会することにした。

 幕府の代表は小倉城にいる小笠原で、長州の代表は木戸である。

 木戸はこの時、英仏代表と会うために下関へ出て来ていた。

 そして木戸の補佐ほさ役として俊輔も随行ずいこうして来ていた。


 まずパークスは下関で木戸と会談した。もちろん俊輔も同席して通訳にあたった。

 パークスはロッシュと違ってこの戦争に深入りする気はなかったので、幕長間の調停にも消極的であった。

 そしてこのパークスの姿勢こそが、木戸の望むところでもあった。

 パークスはこの会談で長州藩の現状を確認することに専念したのだった。


 木戸はパークスに対して長州の正当性を主張した。

「我々は幕府からの不当な要求を受けいれるつもりはなかったし、戦わずに屈服するつもりもなかった。しかるに幕府は大島を攻撃して無辜むこの民を殺し、また略奪りゃくだつもした。それゆえ我が軍は幕府軍を攻撃して各地で撃破した。我々は独力で戦わねばならないことを承知しているが、藩内は一致団結しており、必ず国土を守りきれると確信している。我々は外国に援助を求めるつもりはなく、ただこの戦争に対して干渉しないことを望むだけである」


 木戸や西郷などはかなり古い時代から政治活動に参加しており、政治的な修羅場しゅらばを何度も経験してきた。

 だからこそ、こういった場面でもイギリス公使に対して毅然きぜんとした態度が取れた。


 しかしながら俊輔はまだまだ若かった。

 この少し前に俊輔は、木戸に対して次のような意見を具申ぐしんしていた。

「我が藩の海軍は幕府海軍と比べてあまりにも劣勢です。この際、馬関ばかん(下関)の防衛をイギリスに頼んでみてはどうでしょう?」

 むろん、木戸は即座に俊輔の意見を却下した。

「以前は尊王攘夷にかたまっていたお前がそんなことを言い出すなんて、人間、変われば変わるものだな。外国に助けてもらうぐらいなら、そのまま負けて滅びたほうが良い。第一、そんなあからさまにイギリスの助けを借りて、もし勝てたとしても、結局日本中からそっぽを向かれることになるぞ」

 実はこのあとパークスが小笠原と面会した際に

「下関のような繁華はんかな町を焼き払うのは商業的損失が大きいので、上陸作戦をやるなら別の場所でやるべきだ」

 とパークスは下関の町を守るような発言をして小笠原を牽制けんせいするので、俊輔の考えはあながちイギリスの方針から外れていた訳ではなかったのかも知れないが、それでもさすがにこの俊輔の意見具申ぐしんいさみ足であったと言わねばなるまい。


 ところでパークスは藩主・毛利敬親との面会については「ロッシュ公使も一緒なら面会する」と述べて、とりあえずこの件はロッシュの返事待ちということになった。

 薩摩藩主ならともかく、幕府と戦争中の長州藩主にパークスが単独で面会するとなると幕府から無用の嫌疑けんぎまねくことになりかねず、しかも内政不干渉の方針にも反するおそれがあるので単独で会うことは避けたのだ。


 次にロッシュが木戸と会談した。俊輔は、フランス語は通訳できないので木戸の補助役に徹した。

 ロッシュは冒頭、長州が田野浦と門司を焼き払ったことに対して強く非難した。そして先日手紙で伝えた「講和勧告」の回答を求めた。

 もちろん木戸は「講和勧告」を拒否した。あとはパークスに説明したことをくり返しロッシュにも説明した。要するに「悪いのは幕府である」と。

 さらに木戸はロッシュに対して

「もし貴殿が我が主君(藩主)と面会するのであれば、そこで講和勧告の話を持ち出してはならない」

 と藩主との面会に厳しい条件を付けた。

 結局ロッシュは藩主と面会するのを拒否して、長州に対する説得(というか降伏勧告)もあきらめるしかなかった。そして自動的に、パークスが藩主と面会する話も消滅したのだった。


 このあとロッシュは小倉側へ行って、小笠原長行ながみちと会談した。

 ここでロッシュは物心ぶっしん両面に渡って全力で幕府を支援する姿勢を見せた。

 一方小笠原も、まったくロッシュに頼りきるかたちだった。

 ロッシュは北アフリカでの軍事経験が豊富なので、長州攻略作戦を具体的に小笠原へ伝授でんじゅした。

「下関の西側にあるひこしまを全力で奪取だっしゅし、陣地を構築こうちくする。そうすれば長崎から下関への物流を遮断しゃだんすることができ、長州は武器の密輸みつゆができなくなる」

 なるほど理にかなった作戦ではあるが、この作戦が幕府軍によって実行された形跡はない。おそらく防戦一方だった幕府軍としては、そんな攻勢をかける余裕もなかったのだろう。


 そして小笠原はロッシュに対して軍艦・大砲・小銃をフランスから送ってくれるように依頼した。

 これはこのあとロッシュと面会する幕閣、例えば板倉勝静かつきよ本荘ほんじょう宗秀むねひで、さらには慶喜も含めて、全員がロッシュに同様の依頼をすることになる。

 まあ、俊輔が言っていた「イギリス海軍を頼って」みたいな、フランス軍に直接援助を頼むようなことはさすがにしなかったが(というか、そもそもフランス軍には極東にそれほど頼みになる戦力もなかったが)負けいくさが続いて尻に火がついたせいか、幕閣もなりふり構わない姿勢を見せるようになった。

 このあと小笠原はパークスにも「極東にあるイギリス軍艦を一隻、幕府に売ってくれないか?」と打診したが、パークスは「軍艦の売却は公使の権限外である」と言ってそれを拒否した。


 幕府が、かつては「英仏の援助を断り続けてきた」ということは、この物語で何度か指摘してきた。

 幕府のこれまでの方針は

「独力でやれるところまではやる。しかし、もし独力で勝てなくなった場合は、外国の力を借りるしかない」

 というものだった(生麦賠償金騒動の時に、外国奉行の竹本正雅まさつねがそのように述べていた)。


 そしてとうとう、この「独力で勝てなくなった場合」に直面したのである。

 いや。そもそも幕府はこれまで「独力で勝った」ことなど一度もなく、常に戦いを避けるか、あるいは諸藩の軍に戦いを丸投げしてきた。

 事実この幕長戦争でも、幕府直属の軍はほとんど戦線に投入されておらず、大坂に残ったままだった。何度も実戦を経験してきた薩長の軍とはまるで正反対である。


 ともかくも、下関海峡における英仏両公使と、幕長両代表との会談は大体こういった経緯を経て、終了した。

 パークスに随行していたウィリスはこの時のことを次のように手紙で書いている。

「下関海峡ではとても愉快ゆかいでした。フランスとイギリスの公使は策略さくりゃく駆使くしして、お互いに相手を出し抜こうとしていました。一方がある場所へ出かけると、他方もまたすぐそこへ出かけ、一方が日本側の役人と面会すると、他方もまたその役人と面会する、という具合ぐあいでした」

 この後、パークスは宇和島藩を表敬訪問するために四国へ向かい、ロッシュは幕閣と面会するために大坂へ向かった。




 パークスとロッシュが下関を去り、小倉口での戦争が再開したのは七月三日のことだった。

 この時は幕府海軍の主力艦、富士山ふじやま丸が下関海峡に来ていた。さらに順動じゅんどう丸としょうかく丸も配備され、強力な艦隊を編成していた。

 そこで長州軍はこの日の未明、和船に大砲三台を積み込んで富士山丸に近づき、暗闇くらやみの中から撃ちかけた。

 この奇襲作戦は一応成功したものの、それほど大きな損害を与えることはできなかった。


 このあと丙寅丸などの長州艦隊と彦島の砲台が幕府艦隊に攻撃を開始し、たちまち両者の間で砲撃戦が展開されるに至った。

 この間、前回と同様に上陸部隊が小倉側に渡海して、今回は大里だいり(現在のJR門司駅周辺)まで長州軍は進撃した。

 そして、やはり前回と同様に熊本藩など諸藩の援軍は小倉城を動かず、今回も小倉藩軍が単独で長州軍と戦うことになった。このような状況で小倉藩軍が長州軍にこうせるはずもなく、結局大里から小倉城へ撤退することになった。

 長州軍は大里の町を焼き払い、今回も敵地に残留せず、日が暮れる前に下関へ引き返した。


 三回目の小倉口での戦争は七月二十七日におこなわれた。

 いわゆる「赤坂あかさかの戦い」と呼ばれる、この小倉口で最大の激戦となった戦いである。


 この日は高杉がやまいをおして出陣し、前回陥落かんらくさせた大里の町に本陣を構えた。

 長州軍はここから小倉城へ向かって進軍するのだが、その中間地点にあるのが赤坂である。


 この戦いでは初めて熊本藩軍が戦いに参加した。

 熊本藩軍は小倉口における幕府軍の主力であり、装備も優秀だった。

 この赤坂の戦いでは熊本藩軍が優秀なアメリカ製の大砲を駆使し、長州軍に大打撃を与えた。

 長州軍の死傷者数は百名を超え、この幕長戦争で最大の犠牲者を出すことになった。

 大損害をうけた長州軍はひとまず小倉城の攻略をあきらめて大里へ退却した。そして一部の兵を大里に残し、高杉を含む大部分の兵は下関へ退却した。


 小倉口の戦いも三回目におよんで、初めて長州軍が、いや高杉が負けたのである。


 にもかかわらず、小倉城は四日後(八月一日)落城した。

 この前日に小倉口の総指揮官、小笠原長行が富士山丸に乗って逃亡とうぼうした。そのため熊本藩軍を含めた諸藩軍も小倉から撤収して国元へ帰っていった。

 孤立こりつ無援むえんとなった小倉藩軍は城および城下に火をかけ、南の田川郡たがわぐんへと落ちのびていったのである。


 この急展開の原因は、言わずと知れた「将軍家茂いえもちの死」(七月二十日に死去)が小倉に伝わったからだった。

 死因は脚気かっけであった。享年二十一。


 この将軍の急死によって幕府軍の敗北は決定的となった。

 確かに兵の数では、幕府軍と長州軍には二十倍の兵力差があった。

 けれども幕府軍の大半は諸藩の兵で、それら諸藩はそれほど長州に対して悪意を抱いていなかった(ただし下関海峡をはさんでずっとにらみ合っていた小倉藩は別である)。

 それゆえ諸藩の兵は士気も低かった。

「なぜ幕府のために憎くもない長州と戦って、我々が犠牲にならねばならないのか?」

 言うなれば、彼らは嫌々戦っていたのである。兵の士気が高かろうはずがない。


 それでいて、長州軍のほうが「ミニエー銃」と「散兵戦術」で戦いを優位に進めることができたのだから、幕府軍が敗北するのも無理はなかった。

 とはいえ、幕府上層部にもう少しまともな人材がいて、さらに幕府海軍をもう少し有効に運用していたならば、ここまで惨敗ざんぱいはしなかっただろう。


 以下、余談を少々付け加える。

 家茂の死後、慶喜が、将軍職就任をしながらも徳川宗家そうけだけはぎ、その上で孝明天皇から長州征討せいとうの勅許および節刀せっとうたまわり、居並いならぶ幕臣たちの前で長州への「大討込おおうちこみ」を宣言した。

此度こたびが出馬するからには、たとえ千騎が一騎になろうとも山口城まで進入し、いくさを決する覚悟なり。そのほうたちも予と同じ決心なら予に随従ずいじゅうすべし。その覚悟がない者は随従するにおよばず」

 この慶喜のセリフは、当時家臣だった渋沢栄一がのち手掛てがけた『徳川慶喜公伝』に書いてある。

 そしてこの本には、当時このセリフを聞いた渋沢の気持ちも書かれている。

「今こそ一身を君国にささげる時であると喜びながらも、以前は自分も尊王攘夷を唱えて長州をしたっていただけに、まさかその長州を征討する軍勢に加わることになろうとは、と非常に複雑な気持ちだった」

 渋沢が慶喜の一橋家につかえる前に、横浜襲撃などの攘夷実行計画をくわだてていたことは、この物語で以前少しだけ触れた。この渋沢の複雑な感慨かんがいは、そのことを意識してのものである。


 そして、これも言うまでもない話だが、慶喜の長州への「大討込」は結局中止となった。

 小笠原が小倉城から逃亡し、小倉の幕府軍が解兵かいへいになったという情報が届くと、慶喜はあっさりと出陣を取りやめたのである。


 この頃幕府が置かれていた状況について、世評では次のように語られていた。

「諸藩は兵を引き、将軍は死に、出兵の名分めいぶんは立たず、薩摩は京都に兵を置き、英仏の船は西国を徘徊はいかいし、そして一揆や打ちこわしが各地で頻発ひんぱつしている」


 さらに言うと、大坂にいた幕府直属軍の士気も低かった。

 この時大坂に滞陣していた幕府御家人の中西関次郎という人物が、当時の大坂での暮らしぶりについて書き残している。

 それによると中西は長州での戦争にはほとんど関心をいだかず、物見ものみ遊山ゆさんに出かけたり、連日銭湯へ行ったりして遊興ゆうきょうにふけっていた。そして暇を見つけては内職に精を出して小銭を稼ぎ、時には町娘たちにちょっかいを出して遊んでいる、といった様子が記録されている。

 もちろん幕府直属軍の全部が全部、中西のような「ごくつぶし」ばかりではなかったであろうが、長州人と比べると、あまりにも危機意識が薄すぎると言わざるを得ない。

 幕府を取り巻く状況がこんな風であれば、慶喜としても長州征討をあきらめるしかなかったろう。



 この頃、俊輔は長崎にいた。

 幕府海軍と比べてあきらかに劣勢な長州海軍を補強するため、再びグラバーから蒸気船を買ってくるよう藩から命じられたのである。最初にこの命令を受けたのは七月初旬のことだった。


 そして長崎のグラバーのところへやって来ると、そこにたまたま薩摩の五代がいた。

 五代も松木同様、この時すでにヨーロッパから帰って来ていたのである(松木よりも二ヶ月ほど早く帰国していた)。


 俊輔が五代と会うのは、この物語の冒頭ぼうとう(第1話)以来である。

 生麦事件の直前に東海道の金谷かなや宿で会って以来のことで、四年ぶりということになる。ただし、その時の俊輔は木戸の従者という立場だったから、五代が俊輔のことをおぼえているはずもなかった。


 けれども、この時二人は意気いき投合とうごうした。

 なにしろ二人ともイギリス帰りだったので話が合ったのだ。

(この五代という男は根っからの商売好きのようだ。その点、坂本龍馬と似ているようで、実は似ていない。龍馬も一見いっけん商人のように見えるが、むしろ政治家向きの男だ。龍馬が長薩同盟をげた時、ワシは心底しんそこ感心した。周旋家を目指すワシとしても、将来龍馬のように大きな仕事がしたいものだ)


 五代とグラバーの斡旋あっせんもあって、俊輔は蒸気船二隻を購入することができた。

 当然今回も薩摩名義での購入である。そして俊輔は七月中旬に長州へ戻った。

 ところが、そのあとグラバーから俊輔へ連絡が来た。俊輔が購入した二隻の蒸気船を幕府が強制的に買い上げてしまった、と。

 幕府もこの頃には、グラバーが武器や蒸気船を薩摩経由で長州へ渡していたことに気がついたのだろう。長州が蒸気船を入手できないように手を回したのである。


 そんな訳で俊輔は七月下旬、再び長崎へやって来た。

(もう一度長崎で蒸気船を購入しても、また幕府に横取よこどりされてしまうかもしれない)

 そう考えた俊輔はグラバーと相談して、今度は上海まで足をのばして海外で蒸気船を購入することにした。

 さすがに上海では幕府に妨害されることもなく、無事二隻の蒸気船を購入することができた。ただしその二隻が長州へ回航かいこうされるのは、どんなに早くても十月になるということだった。


 結局のところ、俊輔が購入してきた二隻の蒸気船は実戦投入に間に合わなかった。

 九月二日に厳島いつくしまで、幕長戦争の休戦協定が結ばれたのである。

 厳島に来た幕府側の代表は勝海舟で、長州側の代表は聞多たち数人だった。


 俊輔が上海から長崎に戻ってきたのは八月中旬のことだった。

 いつものように俊輔が薩摩藩邸を訪れてみると、そこに龍馬がいた。


 龍馬は俊輔に自身の苦境を語った。

「長州に乙丑丸を渡してから自分たちの乗る船が無くなってしまったのだ。それで泣く泣く水夫たちにひまを出そうとしたら皆が『死ぬまで一緒です』と言って、俺のそばから去ろうとせん。まったくありがたいやら切ないやらで、どうしたもんかのう……」


 俊輔は龍馬の顔を見つめながら、つくづく思った。

(ついこの前まで軍船に乗って幕府と戦争していた男が、今は水夫たちのり方に頭を悩ませているとは……。まったく妙な男だ)

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