第十五話◇武術の型
今回は型の話をしよう。
(* ̄∇ ̄)「剣道の昇段審査で使われるっていう剣道形のこと?」
剣道形以外にもいっぱいある。
型、または、形、というのは剣術に限らず、柔術、空手など武術の中にはあるもの。
決められた手順に従い身体を動かすもの。
型は二人一組で行うものが多いが、居合は一人で行う。
(* ̄∇ ̄)「でも現代格闘技で型やってる人って、あんまりいないんじゃない?」
実戦形式の試合を行う格闘技などでは、型は踊りで実戦にはなんの効果も無い、という人もいる。
試合に勝つ為の練習には、防具をつけてやりあうのは効果的。しかし殺傷力のある武器の習熟には、真剣で直接やりあえば怪我人続出だ。
試合に負けても死なない競技と、一度負ければ死の危険のある武術では、そこが違う。
(* ̄∇ ̄)「なるほど、型で技を憶えて実戦で使うんだね」
型が示す動作は実戦でそのまま使えるものでは無い。型は実戦を想定しているものでは無い。
(* ̄∇ ̄)「え? それは意味無いじゃん」
型は実戦で使われた技、実戦で使える技と誤解されやすいが、型が求めるのは術理に従った身体の動かし方を学ぶ為のものだ。
これは陸上や水泳など、個人競技でフォームを修正する練習、に近いだろうか。
筋力、体力をどれだけ身につけようとも動き方の質が変わらないと、相手に読まれやすい予測されやすい動き方になる。
この日常的な身体の動かし方を、武術的な身体動作へと作り替える。その為に型がある。
前に素振りが肩こりを緩和する、と書いたが、これは腕を動かす際に、腕と背中の筋肉を連動させる使い方に変えるというもの。
肩にだけ負担をかけないように、背中の筋肉から腕を動かして肩にかかる負担を減らすというもの。身体の一部にだけ負担を強いると、肩こりや腱鞘炎になる。その動き方が癖になると、慢性的に悩まされることになる。
刀の素振りは腕のつけ根が肩では無く、鎖骨と肩甲骨からが腕だと、自身の動作の認識を変化させるものだ。
(* ̄∇ ̄)「腕のつけ根は肩でしょ?」
腕を動かす筋肉のつけ根を辿ると、前は鎖骨周り、後ろは肩甲骨周りまである。
足もキックボクシングなど、蹴りを腰から下で蹴るのでは無く、胸の下から蹴り足として使うと強く蹴ることができる。
人間の動作、歩く、走るといった動作は小脳で処理される。
(* ̄∇ ̄)「いきなり脳の話に?」
日常的に特に考えなくとも自然にできる動作。歩いたり、走ったり。これは難しく考えなくともできるように、小脳でオートで動けるようにプログラムされたもの、と考えてもらいたい。
人は産まれて直ぐには立てない、歩けない。ハイハイからつかまり立ちを憶えて、立てるようになり、歩けるようになる。
このとき、大脳で立ち方、歩き方のプログラムを何度も作り直し、最適化させたものを小脳へとインストールする。
これが上手くいくと、重心バランスをどう操作するか、足の筋肉をどう使うか。次の一歩は何十センチ前に置けば倒れないか。
こういうことを考えなくても歩けるようになる。
(* ̄∇ ̄)「そんなこと考えなくても歩けるけど」
歩けなかった幼い頃は、何度も転んで泣いて痛い思いをして習得したものの筈なんだが。これを憶えている人はあまりいないだろう。
踊りやダンスなど、やったことの無い動作を覚えようとするときも同じ。大脳で理解して、自分の身体に最適化して小脳に入力。これができるまでは、音楽に合わせて手足を動かすのも悩むことだろう。
武術の型はこの小脳にあるオートの動き方を、一度大脳に引っ張り出して、プログラミングしなおして、小脳にインストールしなおす。
これは武術に限らずスポーツでも同じだろうが、その為に最適化された動作手順が型。
歩く、足を出す、手を伸ばす、そんな当たり前の動作の作り替え。
その為に武術では『斬って斬らず、斬らずに斬る』『踏まずに歩く』『無足』『投げようとして投げるものでは無い』という言葉の使い方をする。
人の一般的な動作を否定して、武術的に効果的な動作を追求すると、こういう文章が出てくる。
(* ̄∇ ̄)「斬らずに斬るとか、意味ワカンナイ」
ここで香港の中国武術家、ブルース・リーの言葉を紹介しよう。
『私が格闘技を学ぶ前、私にとってパンチは単なるパンチであり、キックは単なるキックだった。けれど、格闘技を学んだ後には、パンチはもはやパンチではなく、キックはもはやキックではなくなっていた。そして、格闘技とは何かを理解したとき、パンチは単なるパンチとなり、キックは単なるキックとなった』
( ̄▽ ̄;)「ううん? なに言ってるかワカンナイぞ?」
体感する動作の変化を言葉にしようとすると、こういう感じになるのではないだろうか。
こういったところが武術を伝えるのに難しいところでもある。なにせ、感じたことの無い感覚を掴め、というものでもあるから。
型の示す武術的動作を身につけることで、前動作、予備動作を無くし、日常的ではない動き方で相手に予測されにくい動きとなる。また、武器を扱う上で最適化された動き方を学ぶ。
手先、足先に制限をかけて、動きが遅れがちになる胴体から先に動くようにする。この身体の中心から人体を操作しようという考え方が、丹田に行き着くのではないだろうか。
この動きの質を変化させるのが、武術の型である。
(* ̄∇ ̄)「型を練習すれば、サムライになれるの?」
これが現代では難しいようだ。
というのも日本人は明治以前と比べて、身体の見取り能力が衰えているからだ。
(* ̄∇ ̄)「身体の見取り能力って?」
一例を上げると、身体の見取り能力の高い民族、オーストラリアのアボリジニ。
車の助手席に乗せ運転手の動きを見てもらうと、二、三日ほどで車が運転できるようになってしまうという。運転の仕方を教えなくとも、見ているだけでハンドル、ペダルの操作を憶えてしまう。
人の動きを見て、それを真似して覚えるのがこの見取り能力。
日本は義務教育が普及し、識字率が上がった。文章情報を理解して学ぶ能力が上がった代わりに、この身体の見取り能力は衰えた。
文字の無い民族ほど、この身体の見取り能力は高い。
日本でもかつては、名人と言われた職人が、弟子にすぐに仕事の技術を教えず、雑用をさせて様子を見たりする。
門前の小僧、習わぬ経を詠む、という言葉もあるが、見て覚えること、見て技を盗むことに関して、この見取り能力が重要。名人の技を見て、それを自分の感覚に取り入れて再現する。
教育が普及し、誰もが読み書きできるようになると、文章情報からの学習に慣れ、代わりに身体の見取り能力が低下した。
(* ̄∇ ̄)「文字で書き残すとか無いとなると、見たその場で覚えなきゃってなるのか」
ここに今の日本の専門職の後継者不足もあるのでは無いだろうか。
仕事を覚えるのに見て真似して覚えた世代。マニュアルのように文字情報で読んで覚える世代。
教える側と教わる側の学び方の違い。
これは互いに問題点が二つの世代の差にあると理解して、歩み寄ることができれば解決する。
しかし、問題点がはっきりしないまま、互いに互いのやり方を押しつけあって上手くいかない。教える側は見て覚えた世代で、文章で教えるのが下手。教わる側は文章で覚える世代で、見て真似をするのが下手。
急速にインターネットが進化しパソコン、スマホなどが普及したことで、この世代間格差が広がったのではないか。
特に技術者の感覚など、文章化しづらく教え難いもの。これを見て感覚を掴んで覚えろ、というのは難しい。
( ̄▽ ̄;)「説明されないと解らない世代と、解るように説明することができない世代、か。そうじゃ無い人もいると思うけど」
武術の型が形骸化していったのも、型の動作の意味が読み取り難い、というところにある。
何せ武術は、相手に見切られない動き方を目指す訳で、人が見て解り難いもの。素人が見て簡単に解る動きでは無いから、役に立つ。
これは初見では、なにやってるか解らないというものだったりする。
(* ̄∇ ̄)「フィギュアスケートのアクセルスピンを見ただけで真似してやれってこと? それができたら超天才だよ」
そして型の意味が失伝し、形骸化していく。
(* ̄∇ ̄)「残ってる剣術の型って、日本剣道形?」
一番有名なのが日本剣道形になるか。
個人的にお奨めしたいのが、駒川改心流剣術宗家、黒田鉄山、著、
『剣術精義』
柳生新陰流から派生した駒川改心流剣術の型が写真入りで細かく説明されている。
追記
まことに失礼ではありますが、敬称を略させて書いております。
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