魔鼠
今にも倒れそうなくらい死にものぐるいで足を動かす。そんな終わりのない追いかけっこが始まって、一体どれだけ経ったのだろうか。
あの地獄のような訓練で体力は付いたと思っていた。少なくとも、そう思えるくらいに辛い体験は乗り越えたのだ。
――現実はいつだって、残酷で非情な牙を俺に向けてくる。
もう、いつ足が止まってもおかしくはない。今走れているのは、最後に残ったほんのちょっぴりの悪あがきだ。
こうして俺は死ぬ。こんな知らない世界の知らない森の中でたった一人、畜生の餌にされて終わりを迎えるのだ。
どうしようもないと、諦観が俺の心の満杯まで満たされる。
そう、これで終わり。これ以上足を動かそうが無意味。言葉の通り、意味の無い愚かな行い。
「――っ、――っ!」
だというのに、どうして俺の体は今も足掻いているんだ。
理解できない。意味がわからない。ただ辛いだけ。そうである、はずなのに――。
諦めてしまったも良いという心の弱さに抗うように、なおも速は落ちることはない。
何度も方向を変え、捕らえられないようにがむしゃらに森の中を駆ける。
そうして体が張り裂けそうになるくらい懸命に走り続け、僅かに見えた救いの光――。
間違いない。森を抜けられる。こんな所からおさらばできる。
あの人が告げた条件は果たせないが、それはもうしょうがない。仕方が無い、のだ。
――それで良いのか? 本当に?
「――っ!!」
刹那の思考。最後の力を振り絞ってその光に飛び込もうと考えた、ほんの僅かで無駄な疑問がよぎってしまった。
逃げれば良い。そうやって生きながらえて、この何もわからない世界を彷徨う。それでも別に、死ぬよりはましなはずだ。
「なに、やってんだ、俺」
それが正しいと思っている。そのはずなのに完全に足は止まって、腰に差していた剣を抜いていた。
迫り来るあの獣の足音に、鷲掴みにでもされたかのように締め付けられると錯覚している心臓。
わかっている。わかっているさ。
結局、俺は逃げたくない。見捨てられたくない。――それだけしかないんだ。
例え、あの全身鎧の鬼畜人間が俺のことを何も思っていなくても。どうでも良いとしても。
――俺にとっては救いだったのだ。それに縋るしかなかったのだ。
ああ、覚悟は決まった。もう、迷いはない。――あの獣を殺す。この善悪なしの生存競争に、俺は勝つ。
逃げるだけの言い訳は終わりにしよう。少なくとも、今この場では捨て去ろう。
森に響くあの獣の足音が、俺の運命を決める距離。
勝負は一瞬。やることは一つ。――あいつの一撃を避け、この剣であいつの息の根を止める。それだけだ。
不思議と感覚は冴え渡る。必要ない情報が入ることのない、極限の集中。
――来る。
けたたましい咆哮と同時に、全力で横に飛び込む。
すぐ横を突き抜けた怪物。――躱した。
「うわあぁぁ――!!」
恐怖すらもかき消そうと、全力で叫びながら胴体に突き刺すが、分厚い皮膚がそうはさせないとばかりに弾こうとする。
これで失敗なら待ち受けるのは死。正真正銘、最初で最後のチャンス。
残されたすべての力で剣を押し込み、そして――。
横から襲いかかる鋭い衝撃が、俺をは弾き飛ばし地面に転がす。
全く予想していなかったその激痛。例えそれを見て無くとも、何だとしても関係はない。
痛みを歯を食いしばりながらこらえ、ふらふらと立ち上がり上手くいってるかを確認する。
「グッギュアァ――!!!」
抑えることを知らない赤ん坊のように、けたたましく吠えながらもだえる獣。
胴体には剣。先程まで握っていた鉄の剣が、柄だけが見えるくらいに深く刺さっている。
やった。上手くいった。こんなちっぽけで弱い俺が、どうにか一撃与えてやった。
もう、出来ることはない。逃げるだけの体力なんて残っているわけもなく、今にも崩れ落ちてしまいそうなぎりぎりの状態。
あとは天任せ。この一撃で、あの怪物が命を散らしてくれる。そうなるように祈るしか出来ない。
――さあ勝負だ。俺とお前、はたしてどちらが生き残るべきなのか。
「……死んだか」
少しずつ、怪物は動く力を無くしていき、そうして動かなくなった。
天秤は俺に傾いた。本当に僅かだが、俺を生きるべきだと世界は告げていた。
再び立ち上がるまでには大分時間を要した。
先程もらった一撃の痛みに耐えながら死んだ鼠に近づき、刺さっている剣の柄を掴む。
「……うっわ」
思ったよりも抜けにくく、全力で剣を抜いた直後、まるでまな板の上の魚のようにぴくっと跳ねる。
……びくった。まだ生きてんのかよこいつ。
生臭い獣の血につけた剣を何度か振った後、近場の大きな葉で適当に拭いてから鞘に戻す。
それですべてが終わりだと、そう思ったときには、既に地面にへたり込んでいた。
……勝った。俺は生き残った。一息ついて、ようやくその実感が湧いてきた。
どうして生き残れたのかもわからない。もう一度やれと言われても無理だ。そんな宝くじを当てるくらいの可能性しかなかった道筋だった。
それでも俺は生き残った。限りなく小さな穴はあったが、確かに俺は通り抜けたのだ。
多分、今こんな場所で座って勝利に浸るのは間違いなのはわかってる。この森に住む他の生き物が、こいつの血の匂いや先程の音に気づかないわけはないのだ。
ああ、それでもどうか、今だけは浸らせてくれ。
――だって、初めてなのだ。俺の人生の中で初めて自分の意志で立ち向かって、手にした勝利なのだから――。
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