生存
あのメリアと名乗った怪物が空の彼方に消え、命の危機を脱したと判断出来ようとも、鳴り続ける携帯電話みたいに止まらない震え。
生き残ったのだという実感が未だに湧いてこない。嘲笑うかのように地面が崩れ、不安定な夢のようにぶっつり途切れてしまいそうなくらい現実味がない。
あのままやれば間違いなく死んでいた筈だ。指先を軽く震い、あの雷みたいな魔法を飛ばせば終わりであった。
子供をあやすよりも遥かに易しく手間の掛からないだろうに、どうして放置したのか。
……だめだ。怖すぎて色々必死だったので、そこまで良く思い出せない。
「──ぐふっ」
何故見逃されたのかを考えようとして、後ろから聞こえた呻きがそれを中断する。
振り向けば、そこには血溜まりの中心に倒れ臥す──クリアさんの姿があった。
「だ、大丈夫ですか!!」
「……そう見えるなら、余程の節穴だな」
すぐに駆け寄るが、そのあまりの惨状に思わず息を呑む。
右の肩にはピンポン球なら通りそうなくらいぽっかりと穴が開き、全身から血を流している。
途切れ途切れの声がなければもう死んでいると思ってしまうような重傷。
俺は、人がこんなにぼろぼろなのを見たことがない。どんな声を掛けていいのか、どういった風に対処すればいいのか。そんなこと、知るわけがない。
かつての記憶が鮮明に蘇る。それは命が失われる瞬間──自分に関係した人の歩みが止まる瞬間の再現に等しい。
また、死んでしまうのか。俺の前でまた、死んでほしくないと思えた人が消えてしまうのか。
「ど、どうすれば──」
何をすれば良いのかわからないが、どうにかしなければならない。
一刻も早い判断が必要なのに、何も出来やしない自分が憎くて憎くて仕方が無い。
「……っ」
そんな俺の前から、がたっと何かが落ちる音がした。
彼女のすぐそこに先程までなかった箱──何度か見たことがある黒い箱が、いつの間にか置かれていた。
「そこから、小瓶を。緑色の液体の、小瓶を取れ」
「は、はい!」
最後まで言い終わる前に箱を開ける。そこにはたくさんの小さなフラスコみたいなガラス瓶が並べられており、赤やら青みたいなシンプルな色から禍々しさ全開の濁りみたいな様々な色の液体が存在していた。
その中から鮮やかな緑の液体の入った瓶を取り出し、すぐにクリアさんに持っていく。
「蓋を、開けて、口に、流し込め」
今にも命の灯火が消えそうなくらいか細い声で、俺に指示するクリアさん。
ゆっくりと仰向けの状態にしてから体を起こし、液体を口に流し込む。
これでどうにかなるのか。お願いだ。どうにかなってくれ。死なないでくれ──!!
祈りながら見守ることしかできない自分が腹立たしくて仕方が無い。
それでも、今できることはそれだけ。医療知識など持ち合わせていない俺に出来ることなんて、それだけだ。
そんな願いが空に届いたのか、クリアさんの少しずつだが息が整っていく。
体の負傷は癒えてはいないが、それでも先程の今際の際ような危機的状況は脱せられたと、なんとなくだがそんな気がした。
「……少し、落ち着いたか」
吹けば消えそうな弱々しさであった先程とは違い、弱っていてもわかる凜とした声色で彼女はそう言ってくれた。
はあっ、と大きな溜息が漏れた。助かったのはクリアさんのはずなのに、どうしてか俺の方が安心しているのは、やはり俺の心が弱いからなのであろうか。
……まあいいや。今はこの人がとりあえずでも助かったことが、何よりも嬉しい。
失わないで済んだ。あの時のように、また目の前で知っている人間がいなくならないでくれて本当に良かった。
体を起こしたいというので、支えながら少しずつ体を上半身を起こしていく。
……決して体が治ったわけではないのに、どうして動けるんだろうこの人。俺なら間違いなく、傷の痛みだけでショック死してそうなくらい重症に見えるんだけどなぁ。
「とりあえず、言いたいことはたくさんある」
呆れを多く含んだ声と目が俺に向けられるが、残念ながら反論の余地などない。
俺はクリアさんの指示を無視して戻ってきた。場違いだと、邪魔でしかないとわかっていながらだ。
今回は運良く助かったし、助けることができた。結果だけ見れば良い事尽くめのうはうはではある。底に後悔はない。
──それでも、俺は逃げるべきだった。それがあの場では最良ではあった。
そもそも俺がいなければこんな風に傷つくことはなかった。どんな事情があったとしても、そんな役立たずの俺を逃がすために命を張ってくれたクリアさんの覚悟を無碍にする最低な行い──それが俺のした選択だ。
罵られるのは当たり前。このどこかもわからない戦場跡に置いてきぼりにされてもおかしくはないくらいの愚行。そこまでのことを俺はした。
今の俺は、彼女にどう映っているのだろうか。
ふて腐れている様に見えているのか。それとも、落ち込んでいる様に見えるだろうか。
……どちらにせよ、決して良い捉え方はされていないだろう。
「──おい小僧、顔を上げろ」
「えっ?」
「えっ、じゃない。何だその顔は。まるで私がいじめているようではないか」
クリアさんは俺が思っていた否定的な表情ではなく、どこから困ったような顔をしながらこちらを見ていた。
嘲りでも激怒でも失望でもなく困惑。俺が一番感じ取れた感情はそれだった。
「何を落ち込んでいる? 今更になって恐怖でも湧いてきたのか?」
「……俺はあなたの命令を無視して戻ってきた。クリアさんは俺を逃がしてくれたのに、こんな足手まといにしかならないとわかっていたはずなのに、俺はっ!!」
「……そんなことか。妙な所に引っかかるやつよな」
俺の葛藤などどうでも良いといわんばかりの切り捨て方に、思わず胸ぐらを掴んでしまいそうになるくらいだった。
どうでも良い? そんなわけないだろう。そんな風に軽く流して良いはずがないだろう!!
「私が何を言ったって、貴様が決めたことなのだろう? 言ったではないか? 貴様が決めろと」
「でもっ!!」
「むしろ、私はお前に感謝しなければならん。何しろ命を救われたのだ。礼より文句を言う輩など、馬鹿か自殺志願者しかおらんだろうに」
感謝? たまたま上手くいっただけの、相手の気まぐれで生かされただけの俺に掛ける言葉が感謝なんてそんなの絶対──。
「ありがとう。お前のおかげで助かった」
その言葉が視界が滲みさせ、それはぽたぽたと雫が零れだしてくる。
「どうして貴様が泣くんだ。……しょうがないやつだ」
涙が止まらなかった。彼女のすぐそばで、ただただ童子のように泣きわめていた。
抑えきれない感情の状態は自分でも正しく認識など出来てはいない。けれども溢れ、止まらないこの情動の波が引くことはなく、わんわんと吐き出し続ける。
──それは久方ぶりに出てきた感情。出さなければまだ楽であると蓋をして、もう決して他者には見せまいとした自分。
諦め続け、逃げ続けた俺が、
雫は地に落ち続け、叫びは赤ん坊のように。収まるまでの間、ただただ泣き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます