無情な試練
本日も快晴。雨の一つも降り出すとは思えないほど、青く染まる空。分厚い葉の僅かな隙間からでも、日の光が森を見やすい照明になってくれている非情に好ましい天気。
「──ちぃ!」
──そんな中、俺はただ走っていた。息を弾ませながら、後ろから迫る脅威に対してただただ逃亡を続けるのみであった。
決して速度を落とさないように一縷の希望を込めながら、ちらちらと後ろを確認する。
そんな俺の望みなど意に返さずに、今にも飛びかかってきそうなくらいな勢いで追ってくる獣。なんかこう、やけに大きい鼠みたいなやつだ。
ああ、どうしてこんなことになったのか。それもこれもすべて、あの鬼畜鎧の手の上で転がされているのだろう。
すべては起きたときから始まったのだ。いや、もっと言うなら、この森に来るとあの人が決定した時には既に、こうなることは明白だったのかもしれない――。
湖に反射する太陽の光が、起きなくてはならない時間だと言うかのように俺を照らしてくる。
別に野宿に慣れているわけでもないのだが、それでもどうしてか目覚めは良かった。
まだ半分寝ている感覚を起こすため、立ち上がって軽く体を動かす。
ばしゃっと水で顔を洗いたいが、目の前にある湖は果たして綺麗なのか。そんなことを考えながら体をほぐし、調子を整えていく。
……お腹減った。今日の朝食もあの肉の塊だろうか。
正直朝からは重いんだよなと考えた時、初めて何かが足りないことに気づいた。
ぐるりと辺りを見渡してみる。前方には綺麗な水のたまり場、周囲には変わらず、たくさんの大きな木。そしてすぐそこには昨日の火跡──。
「……あっ」
そこまで確認して、ようやくこの不足感の正体がわかった。
クリアさんだ。銀色の鎧を纏ったあの人が、どこにもいない。いくら見回しても、この場にはいない。
トイレでも行ったのか。朝食でも獲りに行ったりしてるのか。──それとも、俺を見捨ててこの森を抜けてしまったのか。
一度でも思いついてしまった嫌な予感は、拭い去って忘れることなど出来はしなかった。それどころか、起きかけの脳に不安の一色が張り付いて離れない。
「……何だこれ」
一度声を出して呼んでみようとお腹に息を吸い込もうとしたその時、ちょうど昨日火を焚いたすぐそばに見慣れない物があるのを認識できた。
一体何だろうと、とりあえず手で拾ってみる。
ちょっと丸みを帯びた形の、小学生が持っているキーホルダーのような物。石ではないが、これは一体──?
『おい、そろそろ起きたか?』
「わっ!?」
いきなり聞こえた音にびくつき、思わず放り投げてしまうところだったがなんとか堪える。
『……起きてるな。なら結構』
「……クリアさん?これは一体?」
黒色の物体から聞こえてきたこの声を、聞き間違うはずはなかった。
なんせここ二週間の間で一番聞いた声だ。……まあ、それ以外を聞くことがほとんど無かっただけではあるが。
『では次の訓練について説明する。この森の中で一週の間、生き延びてみせろ』
「……はっ?」
『どんな手段を使っても良い。七日間、この
その暗に死ねと言っている言葉を受け入れるのには、少しばかり時間が掛かった。
この暗くて何もかもが不安に満ちあふれたこの森で、七日間?
無理だ。絶対に死んでしまう。どうやって生きていけば良いのだ。
『ちなみにだが、そこの湖の水は飲んでも問題は無い。それだけは教えといてやろう』
だからなんだというのだ。それがどうしたというのだ。
水が飲めたところで食料がなければ意味が無い。ただただ苦しみの時間が長くなる、それだけだ。
『では健闘を祈る』
「え、あ、ちょっ――」
こっちの返事を待つことなくクリアさんの声は途切れてしまう。
これで完全に一人。このあまりに広大な緑の中で、どうしようもないほどちっぽけな人間が一人っきり。
「どうすりゃいいんだ……」
先程まで寝ていた葉にへたり込みながら、これからどうしようと途方に暮れる心境。
考えてみれば、異世界に来てからずっと誰かに導かれているだけだった。
どんなに辛く厳しい訓練だって、指示されたことをこなして自分の中で納得しただけ。
――けれど、これは違う。今の状況は明らかにそうではない。
僅かに道を逸れればたちまち死の道を一直線。そんな地獄を、道案内なしで歩けと放り出されたのだ。
まるで杖のなくなった老人や親の手を放してしまった幼児の如く。俺という凡人は今この瞬間、異世界唯一における支えを失ったのだ。
どうしようもない過酷な現状を、正しく納得出来るまでしばらくその場所を動けなかった。
その場に蹲り、ただ泣き言を散らすだけ蛆虫。――まるでかつての、あの時の自分のよう。
「――グゥル」
そんな風に体育座りでふて腐れていた自分の耳が、唐突に音を捕らえた。
不安と焦燥からいつもより速く首を振り、その不気味な音の正体を確かめようとする。
「グルルル」
静寂に包まれたこの森に響く音は、繰り返される度に大きくなっていっているように聞こえる。
すぐに立ち上がり、慣れない動作で剣を抜き、正面に構える。それでどうにかなるとは思えないが、それでもばくばくと、爆発しそうに動く心臓を気休めでも落ち着かせたい。
「グルゥルゥ」
――そのうなり声の正体が見えたのは最早手遅れであると悟った瞬間であった。
地を踏みつける音と共に、ゆっくりと近づいてくる真っ黒な毛皮の怪物。
熊のように大きさでずしずしと近づいてくる四足の獣。後ろに見える長い尾、丸みのある耳、そしてくりっとした目。
――鼠だ。今俺の真ん前に、大鼠の化け物がいた。
「グルルゥ」
唸り声を上げながら、あの獣の体毛のように真っ黒な眼球がじっとこちらを見つめている。
そこから感じるのは興味。俺という森で見慣れない生き物に対してへの、純粋な好奇心をあの怪物は抱いている、はずだ。
――知るか。どうでも良いだろそんなこと。
実に無駄な思考。獣畜生の心の内なんて理解できるか。あんなやつが思ってることなんて、俺がどんなあじなのかであろうに。
ゆっくりと、牛の如く一歩ずつ足を後ろに下げ、距離を開ける。
どっかで聞いたことがある。熊に会ったら背を向けて逃げるのではなく、ゆっくりと身を引くのが良いと。
剣を抜いて戦うなんて選択は思いつかなかった。このまま何ごともなく離れられればそれで良い――。
「――あっ」
ぱきっという何かが折れる音。あろうことか、それが自身の足下からしたのだ。
見なくてもわかる。木だ。昨日の焚き火に使ったであろう、木の一つを足でへし折ったのだ。
「グァリャア――!!」
その音が始まりの合図。あの四足の獣が動き出すホイッスル。
「――っ!?」
勢いをつけ、まるで高速道路の走る自動車を思わせる速度で俺に向かって突き進んでくる獣。
とっさに横に飛び退き、その直後に後方から大きく鈍い衝突音が鳴り響いた。
「――えっ」
木が折れていた。この巨大な森にふさわしい大きな木に罅が入っていた。
横に移動できたのは偶然だった。もし避けれなければどうなっていたことか。そんなのは、予想したくもない。
あんな威力で激突してなお、すぐにこちらに振り向いてくる大鼠。
勝てるわけがない。こんなのに挑むなんて勇気は、俺にあるわけがない。
決断は一瞬だった。そうでなければいけなかった。
今にもまた飛びかかってきそうな獣に背中を向け、全速力で足を動かし森へ飛び込む。
捕まれば死亡。逃げ切れる可能性はほぼ皆無。
誰も助けてはくれないこの緑の空間で、絶望の鬼ごっこがが始まった。
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