それは産声のように
必死に足掻いて掴んだ勝利の後、へとへとになりながらも俺は最初の湖に戻ってきていた。
とはいっても場所なんてはっきり覚えていたわけでもなかったので、帰ってこれたのは本当に偶然だった。
「――はあっ」
そのため息には、今の俺が抱く不安と痛みがありったけ込められている。
あの鼠の長い尾での一撃の痛みは時間が経っても引きやせず、少し体を動かすだけで言葉にならないほどの苦痛が押し寄せてくる。
こんな有様でも酷かったときよりましだ。昨日説明の時もらった
空は既に夕刻。すっかり日も沈みかけであるこの時間でここに戻ってこれたのは本当に運が良かった。
こんな死にかけの人間なのに、なぜだか他の獣が襲ってくることなく森を進めたのだ。弱っちいわんこが一匹迫ってきただけでくたばりそうであった俺にだ。
――まあ、今はそんなどうでも良いことに頭を回す余裕はない。
今考えなければならないのはこの後について。明日以降、どうやって生き残らなければいけないのかだ。
腰につけた小さなポーチみたいなやつを手を突っ込み、中身をぶちまける。
昨日もらった水の入っていた空の筒と
「少ねえなぁ」
今手に持っているほとんど中身のない安物のライター。それだけが、今の俺が持っている物だった。
こんなんでどう生きろというのか。あれか、このライターで森でも燃やせってか。あと何回点くかわからないこんなものを最後の希望と誇れば良いのか。
……いけない。若干現実を見たくなくて、つい変な方向に飛んでいた。
「にしてもあれ、どうすっかなぁ」
呟きを漏らしながら目の前を観る。そこにあるのは大きな黒色の塊――先程殺したあの鼠の死体だ。
どうしてこれを、引きずってでも持ち帰ってきたのかは自分でも理解できない。
勝利した証にこの強大な怪物を空に晒したかったのか、それとも愛着でも湧いたのか。
――馬鹿らしい。まだそこまで頭がいかれているわけではない、はずだ。
少なくとも理由はないはずだ。あの時は何かに追われたかのように無心に引っ張っていたのだから。
ともかく鉄錆びのような、この臭さの原因をどうにかしなくては。これ以上ここに置いておいたら、鼻も湖の綺麗な水にも悪影響だ。
……それにしても。
「……お腹減ったなぁ」
どれだけ体ががたがたでも、まるでいつもと変わらずにぐるぐると意思表示をする胃袋。きっと中にはほとんど何も入ってはいないのだろう。
さてどうするか。特に食べるものなんて――。
「あっ」
あるではないか。食べて下さいと、己の目の前に転がっている物が存在するではないか――!
そこに気づいてしまっては最後、最早人としての理性など存在しなかった。
ふらりと立ち上がり亡骸の前に近寄る。
「――っりゃ!」
鞘から剣を抜いた。そして先程の傷口に思いっきり刺し、無理矢理切り分けようと力を込めた。
自分の想像通りに動かない刃物の軌道にいらつきを覚えるもそれでも無我夢中に肉を分け、その辺の木の枝にぶっさしていく。
とりあえず一段落した後、燃えそうな葉や木の枝を集め先程のライターで火を付ける。
「――おおっ」
つい昨日見た橙色の灯火。その明るさが、たった一日ですっかりすり切れた俺の心に僅かな安心を与えてくれる。――まあとりあえず、今はこの肉だ。
適当に火のそばの地面に、肉付きの棒を囲むように差して火に当たるようにする。
これで終わり。後はしばらく待てば、少なくとも生肉ではなくなるはずだ。
……実に不格好で見るに堪えない焼き肉大会だ。一回でもバーベキューをやったことある人なら、もう少し上手に組み立てられたのだろう。
だが生憎、俺にそんなスキルは無い。バーベキューなど一度だけ眺める程度の縁しか無いし、なんならこんなにたくさんの肉を食べた事なんてないのだ。
焼けるのを待つ間、すっかりと夜の帳の降りきった黒色の空をぼんやりと眺める。
夜空に浮かぶのは無数の星々と、何者よりも存在感を示す白く輝く月。二本から見える物と何ら変わりはしなかった。
そういえばあの時に聞かなかったが、どうして星が見えるのだろうか。
地球であれば当たり前の光景。けれど、何もかもが異なる世界では何もかもが疑問の対象だ。
……ここも地球と同じ一つの天体で、太陽は月も同じように、ぐるぐると回っているのだろうか。
もしかしたら同じ宇宙のずっと遠くなだけなのではと、何よりもくっだらない思考の連鎖。そんな時間が、たまらなく心地よい。
「そろそろ焼けたかな?」
肉を差してあった枝を地面から引っこ抜き、肉の匂いを嗅いでみる。……臭い。舌に触れなくても不味いと断言できるくらいには強い、鉄の臭い。それが一気に鼻を刺激してくる。
もしかしたら、これを食べたせいで体調を崩すかもしれない。そもそも食べれるのかも怪しいし、毒だってあるかもしれない。
少なくともこの肉を前にした人間の多くは、何かしら忌避感を抱きたくなるような塊──。
目を閉じて覚悟を決め、勢いよく噛みつく。
口の中に広がる鉄の味。案の定、舌が吐き出したくなるような不味さ。
「──っ」
それでも、無理やりにでも胃の中へ放り込んでいく。
毒があろうと飢えで死ぬよりはマシだと、一口進めるたびに出てくる弱音に言い聞かせながら。
変化が起きたのは、何も考えないようにしながら食事を進めていき、おおよそ三つ目の肉に入ろうとした時であった。
突如として襲い掛かる刺激。お腹の──丁度胃の辺りから中心に広がる、反則的で暴力的な痛み。
「──っ、──っ!!」
あまりの激痛に声すら出ない。殺虫剤の餌食にあったゴキブリのように、呻きながら転がるしかできなかった。
苦しみを誤魔化すように記憶に縋りながら、ポーチの中に閉まってある一枚の葉を口に押し込む。それでどうにかなるなんて考えはなかったけど、すこしぐらいはましになってほしかった。
「──は、ははっ。ははハハっ──!」
やがて空を仰ぐように横たえた時、喉を通ってきたのは笑い。歯止めの効かぬ滑稽極まりない馬鹿笑いだだった。
どうして零れた感情が、こんな馬鹿みたいな笑いなのかは自分でもよくわからなかった。
何も嬉しいことはなかったし、こんな辛いだけの日々に楽しめる事なんて無かった。何もなかったはずなのに。
──それでも止まらない。閉めることの出来なくなった蛇口のように溢れるだけ。
いつの間にか、見えていた景色もぼんやりとしか捉えられなくなっていた。鼻をすすりながら手の甲で目をこすると、付いていたのは透明な水滴。
ああ、泣いているのか。子供のように泣きじゃくりながら笑っているのか、俺は。
自覚したところで、その苛烈な感情の吐露が終わることはなかった。
だって、初めてだった。こんなにも心も体も抑えきれないことなんて、今までなかったのだ。
抗うことよりも先に諦めてきた弱者。吐き出すことより溜め込むことを利口と思い、孤独という殻に籠もり続けた愚かな人間であった。
そんな根性なしの負け犬であったはずの俺が、勝ち組のサンドバッグでしかなかった哀れなゴミくず自分で手にした勝利。これを笑わずに、一体何を笑えば良いのか。
結局の所、俺という凡人はどうしようもない。あの倫理と秩序の国に生きておいて、他の生き物に刃物を刺してなお、生きていることへの歓喜を溢れさせてしまえる人でなしなのだから。
──ここから始めよう。このどうしようもなさこそが、生ける屍であった俺のスタート地点には丁度良い。
お似合いだと自嘲しながも抑えることの出来ないそれは──産声にも等しい感情の咆哮。生きている意味すらわからなかった凡人──
「──ああ、星が綺麗だ」
視界をぼやけさせながら見た星々は、この厳しく残酷な世界のくせに宝石のように煌めいていた。
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