2.6

 夜もふけるころ、玄関ロビーに降りていくと、ジャンスにつきまとわれるディオネと行き合った。グランセに気づいた妹は、黒髪をびたんとジャンスにぶつけながら振り返る。

「お姉さま! 探していたのよ」

 髪をぶつけられ、すげなく扱われてもどこか嬉しそうなジャンスを見て、王女は内心で(気色悪いな)と思った。

 駆け寄ってくる妹に、どうしたのだ、と尋ねる。

「頼みごとがありますの。来月、ニルをこちらに貸していただけるかしら」

 はて何かあっただろうか、と考えたあと、グランセは得心した。

「そうか。そなたの誕生日だな。よかろう、わらわからニルに伝えておく」

 ディオネがうれしそうに目を細める。昔からディオネはことさらニルを慕っており、園芸趣味もニルの影響によるものだ。生い茂る温室の様子を思い出していたグランセは、ふと頭をよぎった単語にはっとする。

 緑の女王。忘れていたが、これもまだ謎を残したままだ。

「なあ、ディオネ。ジェロニー地方の森林再生事業のことだが……聞いた話では、わらわが成し遂げたと思われているそうだな」

 機嫌よさげだったディオネの目つきが、ぴりっと緊張感を孕む。

「わらわはな、そなたが成功させた事業ではないのか、と思うのだ」

 そこへジャンスが、金縁眼鏡の鎖をゆらしながら顔を突っ込んできた。

「そうでしょうなあ! わたしもね、そう思う次第でございます。十中八九ね!」

「うるさいぞ。引っ込んでおれ」

「ねえ、殿下? あまりにもひどい仕打ちではないか。なぜ妹君の功績を奪うようなやり方をなさったのです?」

 突如、喉元に刃を突きつけられたような気分になり、グランセが目を見開いたとき。ディオネが「おやめなさい!」と叫び、ジャンスを遠ざけようと胸を押した。ジャンスは華奢な女の腕ごときで押し返されるような細身ではなかったが、彼女の悲痛な声を憐れむような目で受け止めて、素直に数歩下がる。

 ディオネは、自らの興奮した姿を恥じ入るように咳払いをする。

「お願いがございますわ、会長さん。厨房から花瓶をもらってきていただけるかしら。お花を数本、ここに生けたいの」

「お安い御用でございます!」

 即座に廊下を駆けていったジャンスを見送ると、ディオネは姉をうながし、別の方向へ歩き始めた。

「よいのか? ジャンス会長が戻るのを待たなくて」

「ええ。遠ざけるための詭弁ですから。お姉さまとお話しするには、あの方は邪魔なの」

 二人は連れだって裏口へ回ると、夜の庭に出ようとする。そこで背後から「殿下?」と声がかかり、グランセが振り返ると、廊下の奥にニルが立っていた。丸眼鏡の奥で、いぶかしげな目が二人を査定している。

「こんな時間に、どちらへ?」

 王女が答えあぐねていると、ディオネが意を決したようにニルを呼びつけた。

「大事なお話があるの。ニルも一緒についてきてくださらない?」

「……承知いたしました」

 ニルを加えた三人は、庭先の温室に辿り着いた。ガラス戸を開けたディオネは、暗闇の中でも迷いなく燭台の位置を把握しており、手早く灯をともしていく。昼間は歓迎してくれたアラマンダの花は閉ざされ、眠りについている。だがアンスリウムの仏炎苞は花ではないので、夜でも濡れたような緋色が鮮やかだ。

 グズマニアの葉にドレスの裾を引っ掻かれながら、グランセは奥へ向かう。ハエトリグサが群生する場所で、ディオネがじょうろに水をくみ入れ、花たちにシャワーを浴びせていた。細かい水滴が降り注ぐのを見つめていたグランセが、あることに気づく。

「炎晶華も、育てておるのか」

 紐で二枚葉を結ばれたハエトリグサの陰に、見覚えのある葉が揺れている。夜なので赤い花は確認できないが、おそらくグランセの見立ては正しい。

「そうですわ。一本だけですけれど。これは、罪を忘れないための花なの」

 薄暗い温室を、不安定なろうそくが照らしている。静まり返った熱帯植物の森で、飼育者であり虐待者でもある主人は、隠れるように生える炎晶華の葉をそっとなでながら言った。

「炎晶華は、麻薬である炎睡えんすいの原料として名高いわ。でも乳液を正しく精製すれば、質のいい鎮痛剤になりますの。わたくしのお母さまは持病で心臓を病んでらした。ある日わたくしが炎晶華から鎮痛剤を作ってさしあげたら、すごくよろこんでくれたの。あれほどうれしかった日はないわ。だから母に炎晶華の育て方と、鎮痛剤の作り方を教えてあげたのよ」

 ディオネはひどく暗い目で、よろこびに満ちた日々の話をする。

 ニルが遠慮がちに口を挟んだ。

「ディオネさま。そのお話はなさらぬほうが……」

「いいの。ニルには世話になったけれど、これ以上お姉さまに隠し通すのはつらいの」

 そう言ってディオネは、母の話を続けた。数か月後、母は病で隔離され、息を引き取った。それはグランセも記憶しているが、表向きの話なのだとディオネが苦い顔で言う。

「母は、炎睡中毒で安楽死させられました。わたくしの知らぬうちに、炎晶華の邪悪な魅力に負けてしまったの。わたくしが目を離さなければ、あんな死に方なんか……」

 グランセは思いあたった。

「……ちょうどその時期なのだな。そなたがこの地の再生に奔走していたのは」

「所詮わたくしは母一人救えなかった娘ですわ。お母さまの不名誉を隠蔽したのも、わたくしを支えたのも、ニルなのです」

 ニルが気まずそうな顔をしている。

 じょうろを床に置き、ディオネはハエトリグサの前にしゃがみ込んだ。不安定な灯かりが、ゆらゆらとその目に滲む。

「ねえ、お姉さま。昔から、あなただけが女王と目されていた。ニルも、お母さまも、誰もわたくしに目もくれなかった。幼かったわたくしは、愚かにもそこに革命を起こそうともくろんだの。実力で王座を勝ち取ってみせる。そのための森林再生事業でした。その結果が、実の母を麻薬漬けにした罪人ですわ」

 ディオネの頬が、引きつったように笑う。積もりに積もった罪悪感が溶け出してくるような、どことない不気味さが妹の見開かれた双眸には在った。グランセは嫌な引っかかりを覚える。先ほど見せたニルの、気まずそうな所作。

 女王になるともくろんだ途端、ディオネに訪れた悲劇。でき過ぎていないか。まるで仕組まれたように。

「わたくしの野望が、お母さまを食い殺した。望む者への報いでした。食べてはならぬものを捕食した悪い口は、永遠に閉ざされるべきだわ。きつく、紐で結んで」

 グランセは、ハエトリグサの二枚葉を結ぶ紐を注視する。これが、望む者への。

 そのとき、どすっという殴打音と共にディオネが倒れた。次の瞬間、剣先を突きつけられ、グランセは一歩も動けなくなる。ニルは温室の外に助けを呼ぼうとしたが、王女の命が人質に取られていることに気づくと、黙らざるをえなくなった。

 ゆれる灯火が、襲撃者を照らし出す。グランセとニルは驚愕した。

 顔半分が焼けただれ、病人みたいに暗い眼をした元首席補佐官。拷問でぼろぼろだった両手には、目の覚めるような赤い手袋をしている。

「ネフ……そなた、ネフではないか」

 ネフェルメダは、三白眼をわずかにゆるめてグランセを見るが。ニルから「なんと罪深いことをするのか!」という叱責を受けた途端、禍々しい笑みを浮かべた。

「ほう。あんたがそれを言うのか。……ちょうどいいね」

 ハエトリグサのあいだに倒れ込むディオネを一瞥し、ネフェルメダは言った。

「殿下。わたしはね、ディオネさまの母君が亡くなられた当時、ニルの部下だった。だから知っているのです。あのときニルが仕組んだ陰謀を」

「黙りなさい、ネフェルメダ!」

「いいかい、殿下。ディオネさまの母君は、娘の言いつけを守り、正しく鎮痛剤を服用なさっていた。しかし数か月後、炎睡中毒と診断されたこともまた事実。では、どうして母君の体に麻薬が蓄積したのか?」

 答えは単純です、とネフェルメダが解き明かす。

「ニルが、母君の食事に炎睡を混ぜていたからですよ」

 病んだ三白眼が、グランセの衝撃を愉しむように細められた。

「さあ殿下、お考えくださいな。女王になると豪語するからには、これしきの策謀は攻略できなければなりませぬ。なぜニルは母君を麻薬中毒者に仕立てあげたか」

 それにより、誰が失脚したのか。

 ――ディオネだ。

 グランセの障害となるディオネの野心を、ニルは摘心したのだ。

 ネフェルメダは続けた。緑の女王という称号をディオネから剥奪したのもまた、ニル。恩着せがましく母の名誉を守ると申し出て、代わりに功績をグランセの名にすり替えた。

 ニルが耐えかねたように肩を震わせながら「殿下!」と叫ぶ。

「よもや信じておりませぬな、このような犯罪者の妄言など。殿下にとって唯一の味方であるこのわたくしを、ここで疑いますか」

 ニルの訴えは王女の耳を素通りし、代わりにディオネとの対話がよみがえる。誕生日にはニルに一緒にいてほしいからと頼み込んできた妹の遠慮がちな姿を思い出し、グランセは鼻の奥がつんとなった。

「ニル――どうか、ディオネの紐を外しておくれ」

 望むことを禁じられ、紐で結ばれたハエトリグサのゆれる光景が、ひどく悲しい。

 ディオネはきっと誰よりも、ニルに認めてほしかったのだ。

 グランセはニルに乞う。思わずディオネを紐で縛らざるをえなかったときのことを思い出せ、と。

「ディオネはそなたを魅了したのだ。永久不毛の地になる寸前だったこの地を救った、緑の女王。妹はわらわよりもはるかに強く、そなたを魅了した。しかしそなたは」

「冗談でも、そのようなことをおっしゃるでない」

 ニルは、はさみのように鋭くグランセの言葉を遮断した。

「我がサイデン家は、亡国のなきがらと共に没落した家系でした。すべてが変わったのは、あの伝説の片割れを担った日からです。我々は、支柱なくして上へは伸びない。クロト家という最も偉大な支柱こそ、最も高いところまで我々を導いてくれるのです」

 杖に体重をかけながら、ニルがグランセに近づこうとした。しかしネフェルメダは王女の首に腕を回し、ニルを牽制する。

 そのとき、足元でうめく声が聞こえた。昏倒から目覚めたディオネが、きょろきょろと夜の温室を見渡している。何が起きたかすぐには理解できなかったようで、人質にとられた姉の姿を数秒見つめてから、ようやく状況を察知し、表情がこわばる。

 ちょうどいい、とネフェルメダが笑った。

「ニル。ディオネさまに説明しろよ。あんたが母君に何をしたか。無駄なあがきはよしなよ? わたしの剣先は、あんたの宝物の急所を向いているからね」

 王女の命が目の前で危険にさらされ、ニルはあきらめた様子で従う。ハエトリグサの前でまだ座り込んでいるディオネに、自ら仕組んだ陰謀について話をしていった。衝撃と悲嘆ですっかり青ざめたディオネの前に膝をつき、ニルが頭をさげる。

「ディオネさまの母君は、わたくしが殺したも同然。お咎めは、重々承知しております」

「……ニルは、もとよりわたくしが成果を出しても出さなくても、興味がなかったのね」

 涙をにじませたディオネにニルが気をとられた隙に。グランセのそばから離れたネフェルメダは、ニルの杖を蹴り倒した。そしてよろけたニルを乱暴に掴み寄せると、今度はニルが囚われの身になる。

 ディオネが「ニル!」と叫ぶのを無視し、ネフェルメダはグランセを見据えた。

「殿下。あなたにもう一つ、見抜いていただきたい策謀がある。これからわたしは、この女を処刑いたしますが――それはなぜか?」

 赤い革手袋の手が、きつくニルの首を絞めあげる。

 ディオネが、グランセを振り返った。

「お姉さま! あなたの部下なのでしょう、早く剣を収めるよう命令なさって!」

 ネフェルメダの病んだ目に、悲しい痛みの記憶がちらついた。瞬間グランセは悟る。

「――ニル、そなた……まさか、ネフの妹を」

 ネフェルメダの妹が誘拐され、殺された事件の黒幕は、ニルなのか。

 違う! とニルが訴える。

「どうかお聞きください、殿下。殺せなどとは命令していないのです。少しだけ脅しをかけるようにと」

 ネフェルメダの気を散らし、仕事に身が入っていないと難癖をつけて辞任させる理由を作ろうとしたのだ。しかしそれは、最悪の結果をもたらしてしまった。

 そう理解したとき、よせと命令する声が喉に詰まった。その一瞬間のあいだに、ネフェルメダの剣先がニルの身体を一気に貫く。

 鮮血を浴びて茫然となったディオネの前に、ニルの遺体が転がされた。そこに膝をついたネフェルメダは、ディオネの耳元に口を近づける。

「失礼いたしました、ディオネさま。お詫びにお教えしましょう。ニルの行った策謀には、命令した黒幕がいるのです」

 その言葉に目を見張ったのは、ディオネだけではなかった。グランセも初耳である。

 遠くで王女たちを探す声がする。ネフェルメダはそちらを気にかけながら、グランセに耳打ちをする。

「殿下。これよりあなたを、孤独という病に感染させる。そこには誰一人理解者はおらず、あなたの声に耳を傾ける者もいない場所だ。……殿下、わたしだけだ。わたしだけが、あなたの声を聞きつける。覚えておくことだよ」

 悪意なのか、睦言なのか、判じがたいことを吹き込んだあと、最後にネフェルメダは忠告を置いていく――「ジャンスという男に気をつけよ」

 ネフェルメダは悠々と温室を出て行き、グランセはあとに残される。ひとまずディオネの様子を確認しようとしたが、どうも妹の様子がおかしい。

 ディオネは、ゆっくりと立ちあがろうとしていた。ドレスの裾がガサっとあたり、数輪のハエトリグサから紐が外れたことで、二枚葉が開きはじめる。

 長らく閉じていた口が、ゆっくりと、ゆっくりと。

 ディオネは、まばたき一つしない。鋭利なまつげを並べたディオネの豊かな目元は、捕食の性を剥き出しにしていた。

 これは敵意だ。強い敵意をディオネから向けられてようやく、グランセは気がついた。ニルの策謀に黒幕などいなかった。ネフェルメダは嘘の情報を置いていったのだ。それにより何が起きたか――ディオネは、策謀の黒幕を、グランセだと思い込んだ。

 ネフェルメダは、妹の敵愾心という病を、ここに置いていったのだ。



 使用人たちによって、ニルの遺体は温室から運び出された。花壇のあいだを運ばれていくあいだ、花はみなこうべを垂れ、色も匂いも放つことはない。

 従者の持つ灯籠に導かれ、屋敷の裏口からニルの客室まで運び込むと、ゆっくりとベッドの上に安置される。すでに話を聞かされていたギルテが急ぎ足で入室してきたため、周囲の者はみな一歩下がり、遺族に道を開けた。

 母の白い顔を見おろしながら、ギルテが「何があったのです」と尋ねる。それに対し、ディオネがネフェルメダによる襲撃のことを説明した。無言でいるギルテに、「残念ですわ」と声をかける。

「聞けば襲撃者は、お姉さまの腹心だったとか。あのときひと言でもお姉さまが制止するよう働きかけていたら、あの者も思いとどまったかもしれませんのに」

 グランセは、胃がぐにゅ、と握り潰される思いがした。

 ギルテが、驚愕の面もちで王女を見る。

「殿下……? 母を、お見捨てになられたのですか」

「違う、そうではない」

 見捨てたのではない、と言いかけた口を、ディオネの声が締めつけた。

「お姉さま……差し出がましいことですが、そのような苦しい言い訳をなさるのは、この局面では逆効果になりますわ。ここでごまかし、後々本当のことを話すよりは、いっそ今ここですべて認めてしまったほうがきっとお姉さまのためになります」

 気遣わしげにグランセを見る妹の目が、ハエトリグサのごとき捕食性を剥き出しにしていることに気がついているのは、グランセのみだ。疲れたのか、怯えたのか、グランセは何も言わずに目を閉じる。まぶたの裏で、紐で結ばれたハエトリグサがゆれている。うめき声が聞こえてくるようだった。

 ギルテが、じれたように身を乗り出す。

「では、これだけお伺いします。ネフェルメダを、制止なさったか」

 していない。衝撃のあまり、やめろという声が出なかった。首を横に振った王女の答えに、ギルテは打ちのめされたように顔を伏せる。彼はニルの枕元に付き添うと、それきりグランセを見ようとしなかった。

 ふと廊下のほうが騒がしくなり、グランセとディオネが扉のほうを見たとき、ちょうどジャンスがノックもせずに飛び込んできた。

「おお、殿下! 我らが緑の女王よ! ようやく見つかりましたなぁ!」

 グランセは思わず身を引いたが、ぐいぐい腕を引っ張られ、思わず叫ぶ。

「なんだ、会長! 無礼ぞ!」

「失礼、失礼。急ぎ組合長が殿下にお会いしたいそうなんですよ。ほら殿下、あさってにはここを発つご予定でしょう? ですから、ほら、お早く!」

 抗えぬ力で連れて行かれ、グランセは戸惑う。あからさまにディオネに傾倒していたはずのジャンスが、なぜ今になってグランセを引っぱり出そうとするのか。

「あの、会長さん? これは何の騒ぎかしら」

 戸惑いがちに声をかけたディオネに、ジャンスは恭しく礼をする。

「これは失礼、ディオネ殿下。これより姉君にはちょっとしたお仕事をこなしていただく所存にございます。あ、ディオネ殿下もぜひご同行いただければ幸い」

 ジャンスは壊れものを扱うように丁寧にディオネの手を引き、廊下へうながした。腕づくで連れ出されたグランセとは大違いである。

 そのまま神専衛兵らと一緒に屋敷の前に停まった馬車に詰め込まれ、暗い林道を行くこと数十分。窓から見える暗闇はどんどん薄くなっていく。夜明けが近いのだ。

 森の奥地の小屋の前で、馬車から降ろされる。音を聞きつけて小屋から出てきた組合長は、恰幅のいい腹を揺らしながら「おお殿下、ようこそいらしてくださった!」と笑顔で駆け寄ってきた。

「わしはスコグ、森林組合の長を任されておる者です。実は至急ご相談したいことがございましてなあ、本来ならもちろんこちらからお屋敷に出向かうべきなのは重々……」

 口上が間延びしてきた頃合いで、ジャンスが「組合長、時間が」と横から口を挟み、本題を急かす。このとき、ジャンスが妙に仄暗い笑みでグランセを一瞥したことで、嫌な予感が胸をざわめかせた。

 組合長のまわりに、小屋から出てきた仲間が集まっていた。体格がよく、肉体労働職の服装をしている。スコグによって林業従事者だと紹介された彼らは、王族の二人がめずらしいのか、神専衛兵のあいだを縫って王女たちをじろじろ見ていた。

 スコグが笑いながら本題に入る。

「実はご相談がございましてな。殿下は以前、原木価値と経済性を兼ね合わせてご検討の上、ヒノキを導入されました。しかしながら複数の区で成長が思わしくないとのこと。至急査察をお願いできませんか? 伐期齢の見直しとなりました場合、組合の頭たちとの再調整が急がれますゆえ」

 組合長は何の疑いもない笑顔で、緑の女王とされるグランセに頼み込む。

 金縁眼鏡の鎖をゆらしたジャンスが、グランセの青ざめつつある顔を覗き込んだ。

「さあ、緑の女王。いかがなさる?」

 グランセのくちびるは、ぴくりとも動かない。組合長が話す内容の半分も理解できないのに、解決策など出ようはずもなかった。朝闇の中、森を見渡してみるも、緑一辺倒の景色としかグランセの目には映らない。

 組合長が沈黙に困惑しはじめた。

「……わらわは、その」

 緑の女王ではない。そう説明しようとしたとき、ジャンスが勢いよく頭上を指さす。

「ねえ殿下、あの小高い木はなんという種で? あいにく林業になじみのない我が目には、どれもこれも同じ木に見えてしまうもので!」

 ははは! と響くジャンスの笑い声に、グランセは歯ぎしりした。しかし、どれほど悔しくても「知らぬ」としか答えられず、苦しい。組合長が、えっと驚きの声をあげた。ジャンスがさらに畳みかける。

「そうですか! では殿下、あちらの細長い木はいかがです? ほら、殿下のすぐ右手にも生えているでしょ」

「だから、わからぬと言っておる」

 組合長が、困りきった様子でグランセに近づく。

「殿下……? それはクヌギの木ですよ? 船舶財にいいからと、殿下ご自身が区の樹種に加えておられた」

 組合長の後ろで、林業従事者の仲間たちがざわめき立っている。羨望のまなざしが、一転して疑惑の視線に変わっていく中、ジャンスが話の矛先をたくみに操った。

「グランセ殿下。そろそろ白状しちゃったらどうです? これ以上組合のみなさんを混乱させるのは、ねえ?」

 そう言うと、ジャンスは組合長と仲間たちを振り返った。そして舞台上の演者を紹介するように華々しい口調で「ご紹介しましょう!」とディオネを示す。

「我らが緑の女王、ディオネ殿下でございます!」

 みなの視線が向かう先で、ディオネは森を注視していた。朝ぼらけの中、周辺の木々を順繰りに見あげていく。それは緑色の光景をただながめる者のそれではない。一本一本を識別し、精査できる専門家の目だった。

 針のように細かい葉が特徴的なヒノキのそばに立ち、緑の女王は組合長を見た。

「伐期齢の見直しの前に、予備伐を試してみましょう」

「して、予備伐とはどういった……?」

「ご覧くださいな。林冠が閉じて、陽光を遮っておりますでしょう? 樹木の一部を調整的に伐採し、必要な光を行き渡らせることを、予備伐といいますわ。五区の管理官を呼んでいただけるかしら。すぐに区全域を調査し、伐採場所を選ぶ必要があります。それから組合長さん、樹種の一覧表もご用意していただけるかしら」

 矢継ぎ早に指示が出る。緑の女王が見せる機知を前に、グランセは呆然と突っ立っているのみだ。

 組合長や林業従事者が、チラチラとグランセを盗み見る。自分のせいじゃない、と叫べたらどんなに楽だろう。だがここでニルの所業を暴露したところで、死人のせいにする最低の王女としか受け取られない。

 紐が、口に巻きついて、言葉を殺す。

 まだ王座奪還の望みはある――ついさっきまでそう思っていた。しかし今となっては、手中にある神器は奥の手ではなく、諸刃の剣となったのだ。シュヴァインの廃位後、うまく民衆をそそのかして王座につくはずだった。だがここにきてディオネという緑の女王が復活したことで、シュヴァインの廃位を待っても、次の天紋賛会で民衆が選ぶのは確実に――栄誉を強奪したグランセではなく、ゆるぎない実績を持つディオネだ。まだシュヴァイン一人ならともかく、ディオネの廃位まで待ったあと、グランセが本物の神器と一緒に王座についたところで、誰が支持するというのだろう。間違いなく国は傾く。

 もはや神器をこの手に隠しておくことに、なんの意味もない。

 組合長とその仲間たちが、ディオネの指示を受けて一斉に散らばった。残されたグランセに、ジャンスがささやく。

「賢く政治をすれば、クロテミスは滅びなかった」

「なんの、話ぞ」

「戦をするへまが、国を滅亡に導いたのです。将軍たちの勇み足が命取りだったのさ」

 ローゼン派の束ね役は、攻撃的な光を金縁眼鏡の奥で光らせた。

 ネフェルメダの忠告が耳元にひるがえる。ジャンスに気をつけろ。思えばここに来たこと自体が彼の策略だったのではないか。もっと言えば、遺跡で王族殺しの片棒を担いだのも彼である可能性だってある。ディオネを送り込むと約束しておきながら、実際はグランセを暗殺者の罠に放り込んだ。少なくともジャンスにとってもっとも重要な目的は、緑の女王の座をグランセからディオネに返還させることだったに違いない。

 ジャンスは、グランセの動揺を舐めるように一瞥する。

「セブ派の勇み足はいらぬよ。崖の手前で立ち止まれる、それが叡智だ」

 絶句するグランセから離れたジャンスは、ディオネの足元に優雅にひざまずくと、その手に恭しいくちづけを落とした。

「あなたこそが女王になるべきお方でございます。ディオネ殿下」

 ディオネは少し驚いたあと、ジャンスを興味深げに見おろす。

「母も父も、ニルも、姉も、わたくしを王座に望んでくださらなかったのに……あなたがはじめてだわ。わたくしにそのようなことを言ったのは」

 ローゼン派の束ね役は、うっとりとした目でディオネを見あげる。もとよりジャンスにとって、グランセもシュヴァインも濁った血なのだ。ローゼン派の母を持つディオネ以外に、彼が王座に望む者などいやしない。

 紐から解き放たれた緑の女王は、一途な支持を養分にして、華麗に笑んだ。

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