緑の女王
2.1
長らく使われていなかった地下牢は、しめった埃のにおいが満ちている。狭い石牢の片隅で、ネフェルメダはうずくまっていた。拷問で焼かれた頬がじくじくと痛み、一睡もできていない。たった四日で体重がごっそり落ちたネフェルメダは、落ちくぼんだ目で鉄格子越しに立つギルテを睨みつける。
ギルテ警護官は、元同僚のやつあたりを冷ややかに受け流して言った。
「殿下に手をかけたと聞いた。母ではなく俺がその場にいたら、おまえを切り捨てていただろうな」
「あんたと話はしたくないんだよ。消えろ」
「用があるから顔を出したのだ。これより殿下をここにお連れする」
疲れきっていたネフェルメダの双眸が、ぎらりと息を吹き返す。
去り際にギルテは言い置いていった。
「おまえの望みが聞き届けられたわけではない。殿下がお望みだからだ。ついでにおまえの妹に何があったかもご説明しておく。面会時間は長くはないからな」
ギルテが去ると、ふたたび地下牢は孤独な静けさに沈む。じっくり思考するにはよい沈黙だ。痛む身体を壁にもたれさせ、目を閉じた。まぶたの裏に、ウトラの顔が浮かぶ。失ったのだ、と再度思うと、吐き気がこみあげ、側溝に胃液をぶちまけた。
身体を丸めたネフェルメダは、病の根源であるエンデム家の汚名のことを思った。エンデム家は元々、リュテイスではなく、隣国アストロペの貴族であった。三国戦争時、リュテイスを内側からゆさぶるため、セブ派クロテミス人に協力する過程で一時的にリュテイス国内に潜伏することになったのだ。
だが戦後、祖国がセブ派との約束を破って分割統治に出たときが、エンデム家にとっての波乱の幕開けだ。約束が反故にされたことで、当然セブ派に反アストロペ感情が蔓延する。そんな中、リュテイス国内に取り残されたエンデム家ができたことと言えば、自分たちもまた反アストロペ側だと主張することくらいだった。すぐには信じてもらえず、エンデム家の者数人が引きまわされ、処刑された。それほどセブ派の怒りはすさまじかったという。
自分の身を守るため、エンデム家は仕える主人を変えた。ここで誇りは汚れ、一族は『病』に感染したのだ。
我が身かわいさに立ち位置を変える――約束破りの血という汚名がつきまとっていた家の命運を変えたのが、父の名誉の戦死だ。忠義は本物だったのだとみなが口々に言う。エンデム家の病が治るきざしを見せた、その矢先であったのに。
ネフェルメダは、ただれた頬ごと顔を両手で覆った。
「殿下。あなたにお会いしたい」
わたしにはもう、何もない。あなたしかいない。
聞きたかった。妹の言うとおり、自分は無駄なあがきをしていたのか。所詮は治せぬ病であったのか。
長きにわたり、王女こそが薬なのだと信じてきた自分は――間違っていたのか?
※
王宮の片隅にある地下への階段を、グランセは初めて降りた。ギルテの後ろについて地下牢の並ぶ廊下を歩いていくと、奥の独房まで通される。ドアは開けてもらえず、王女は鉄格子越しにネフェルメダと対面した。
ネフェルメダは奥の壁に背中を預けた姿勢で、ゆっくりと王女を見あげた。傷が痛むのか、息が荒いようだった。顔に巻きつけられた包帯はゆるんでおり、すき間から痛々しい火傷のあとが見えている。
王女は、震える声を独房内に差し入れた。
「……傷の具合は、どうか」
「さほど痛みませぬ」
見え透いた嘘だが、グランセは何も言えなかった。本当はこんな話ではなく、問い詰めたいことがある――なぜ突然、わらわを殺そうとした?
尋ねたい。尋ねたいのに、なかなか口から言葉が出ようとしない。あまりにも質問が重すぎるのだ。覚悟が必要だった。もっとも信頼していた人間に、殺すほど憎まれる理由を聞くという行為には。
言いあぐねる王女を黙って見ていたネフェルメダが、意外にも笑みをこぼす。
「殿下のそのお顔。お仕えしはじめて間もないころを思い出すな」
グランセは自然と、まだ九歳だったときの自分を思い出した。ネフェルメダとの初対面で、自分は大失態をしでかしたのだ。
「戦死した父の葬儀でした。あなたはまだ幼く、剣術指導の師であったわたしの父の死をとても悼んでおられたね」
問題は行動であった。王女は当時、ネフェルメダの父ジフトが死んだことをうまく受け入れられず、どうしてなのか――怒り狂った。みなが神妙に見送る中、わめきながら葬儀に乱入した九歳の王女は、遺族の目の前で棺をひっくり返したのだ。この記憶については、さすがの王女も自己弁護できず、後味の悪い失態として過去にこびりついている。
その後、ネフェルメダが王女の首席補佐官として配属され、しばらくぎこちない態度でネフェルメダの顔色をうかがっていたことは覚えている。
「父の棺を倒され、怒鳴ったわたしに、あなたもまた怒鳴り返した。あんな葬儀は人生で二度と経験すまいよ」
笑いながら過去の古傷を抉られ、グランセは気まずい思いでくちびるをすぼめていたが、ふとネフェルメダが立ちあがるそぶりを見せたので、思わず鉄格子にとりついた。
「動いて平気なのか?」
「殿下、そうではない。わたしが聞きたいのは、もっと別の言葉です」
よろめきながら鉄格子に近づいたネフェルメダは、すがるように王女を見た。グランセは戸惑い、何度かまばたきを繰り返す。
「わたしに言うことはございませんか」
言うこと? 首をかしげた王女の横で、それまで黙っていたギルテが妙にやさしい声で「先ほどお話しした件ですよ」と、さも助言らしく言った。
「ほら、殿下。ネフェルメダ首席補佐官の妹、ウトラのことでございます。彼女について、ネフェルメダは一言いただきたいと」
王女のくちびるは、硬直したまま動かない。理解が及ばぬ様子でギルテを見るが、彼はそれ以上は何もする気がなさそうだった。では、どうすればいい。必死に頭を働かせるが、やはり状況が飲み込めない。
なぜなら――何も聞いていない。ギルテはここに来るまで終始無言だったのだ。
ネフェルメダの妹と言われたところで、グランセは会ったことすらない。妹は元気か? などと聞く雰囲気ではとてもなさそうだ。ああでもないこうでもないと悩み続け、沈黙が長引くうちに、ネフェルメダの目がどんどん光をなくしていく。
王女は焦っていた。滑落する。嫌な音が。
どうすれば滑落するその手を掴めるのか、ついぞわからぬまま。
「たったの一言も、いただけない……そうか、これが末路か」
ネフェルメダは、乾いた笑みを漏らした。
「無駄だったのだ。どう貢献したって、肝心なところで――あの子の言うとおりになったじゃないか」
王女には何一つ意味が理解できなかったが、そこに滲む怨嗟はわかった。これは恨み言だ。王女への深い深い憎悪で満ちたネフェルメダの声に、グランセは気圧される。横からギルテが腕を伸ばし、王女を鉄格子から引き離した。
暗い壁際に戻ったネフェルメダは、汚れた包帯の影でうつろな目をさまよわせる。
「不治の病だ。もっと早く気づくべきだった」
我々は永遠に、隔離されたまま。
どんどん病んでいくネフェルメダの声に、寄り添いたいと。そう思ったのに、王女はギルテによって牢から遠ざけられていく。そこに看守らも加わって、グランセは地下牢から追い出されてしまった。
階段に押しあげられながら、王女は「離せ!」と看守を叱りつけた。
「ご容赦ください、殿下。ギルテ警護官から囚人の暴走が報告されました以上、あなたさまを安全な場所へお連れせねばならぬのです!」
看守の後ろで、ギルテが王女にしかわからないかすかな笑みを浮かべる。グランセはますます憤慨し、看守たちを青ざめさせた。
「いつまでわらわを遠ざけるつもりか!」
「鎮圧と安全確保のため、本日は面会を終了させていただく所存にございます。なにとぞご理解くださいませ」
「ネフは暴走などしておらぬわ! わらわを牢に戻せ!」
看守はギルテの口車に乗せられている。しかし一度でも危険が報告された以上、このまま王族を牢に戻したら罪に問われるのは看守たちだ。まだ気持ちは収まらなかったが、しぶしぶ引き下がることにした王女は、明日の朝一番に再訪することを宣言してから立ち去る。
どすどす音をさせながら荒っぽく階段を上る王女は、後ろを見ずに言った。
「ギルテ、謀ったな」
背後に控えるはずの警護官は、何も答えない。
「ネフの言っていた妹のこととはなんだ」
「ああ、ご容赦を。報告するのを忘れていました。ネフェルメダがセブ派の過激派集団に捕まった経緯ですが、どうやら妹を人質にとられていたようです。ウトラが過激派集団と一緒にいたという目撃証言、殿下のおっしゃる通り、仲間ではなく誘拐だったようですね」
白々しいギルテの口ぶりに腹が立ったが、王女は黙って耐えている。
「ネフェルメダは情報を引き出すために拷問されていた。それでも耐えていると、ついに妹を殺すと脅されましたが……最後まで情報を守り抜いたのです」
「……その情報とは、まさか」
「ええ。王子の即位式に関する情報です」
偽の情報を守るために、ネフェルメダは――妹を。
胃がひっくり返るようだった。
あの夜、なぜネフェルメダが泣きながら王女に襲いかかったのか。その理由がわかったグランセは、階段の途中でめまいを覚え、よろけたところをギルテに支えられる。だが王女は、すぐに彼の腕を振り払った。
「ギルテ。そなた、なんてことをしてくれた」
ネフェルメダが妹について言葉をかけてほしいとすがったとき、ギルテは、話していないにも関わらず、この話をしたと嘘をついた。
「あれではまるで、わらわが……ネフの妹の死に方を知りながら、毛ほども悼んでおらぬと」
ネフェルメダはそう受け取った。だから心が病の底に沈んだのだ。
グランセがわなわなと拳を震わせていると、ギルテは悪びれた様子もなく言った。
「言いわけにはならぬのです。いかなる理由があろうと、我を失い、主人に危害を加えるような者は、殿下のおそばにいてはならない」
グランセの平手が、ギルテの頬を打つ。
「まるで剪定だな。そなた、母に似てきた」
捨て台詞を吐き、王女はギルテに背を向けた。頭の中にあるのは、明日必ずここへ戻り、ネフェルメダの誤解をとくのだという決意だ。話せばわかる。だてに何年も一緒にいたわけではないと息巻く王女の切望は、しかし――その晩、打ち砕かれる。
ネフェルメダは脱獄した。
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