1.7
即位式の日も、グランセ王女は上の空だった。
女官に身支度をすませてもらい、二階最奥にある『
マーマレードブラウンの髪をハーフアップにまとめ、琥珀色のドレスにハチミツのような宝石をちりばめた姿はとても見目麗しい仕あがりなのだが、王女本人は自分がどんな服を着ているのかすらわかっていない。
気づいたとき、王女は巨大な扉の前に立っていた。観音開きの大扉は、左右で繋がった絵柄のレリーフが施されている。獅子や象、虎を従えながら優雅に舞う踊り子のなまめかしい姿態が、金箔で輝く。リュテイスの護神ベライヤを模した浮き彫り模様だ。
神吏長マリオネストが、祭儀用の華美なローブ姿で現れた。顔半分をフードで隠した神吏長は、王族と側近、そして神吏を神儀の間にうながす。
シュヴァイン王子は、神吏見習いヨモと警護官ギルテを引き連れて行く。片や王女は、ちらっとニルのほうを見るも、残念そうな顔を返されてしまった。宰相は中には入れないのだ。そうなると、ネフェルメダがいない今、王女はたった一人で進まなければならない。
王女が入室すると、背後で大扉が閉まった。内部は円柱形の空間である。
扉の前に狭い足場があり、部屋の奥は中空だ。上は四階まで吹き抜けで、丸天井にはステンドグラスが嵌まっている。ステンドグラスを囲うようにして数個の滑車が設置され、そこから鎖で吊るされた大皿がいくつか中空で静止していた。足場の下を覗きこむと、一階よりさらに深い底に、直系二メートルほどの鉄球がゴロゴロと積み重なっている。落ちれば怪我ではすまないだろう。
「両殿下。
神吏がレバーを操作すると、天井の滑車が音をたてて鎖を伸ばしていく。そして大皿が二枚、足場と同じ高さまで下げられて、王子と王女はそれぞれ皿に乗るよう指示された。右の皿にはシュヴァインとヨモ、ギルテ。左の皿には王女一人になるはずだったが、便宜を図ってマリオネストが一緒に乗ることになった。神吏長の大きな手に頭を鷲掴みにされたが、グランセに暴れる気力はなく、なすがまま大皿に放り乗せられた。
今度は別の滑車が動き出し、大皿を横から引っ張る鎖が引かれていく。二つの貴賓皿が奥まで近づいたところで、神吏はレバーを固定した。
「それでは、神器を送ります」
宣言した神吏は、足場の上で神器の本を掲げ持つ。別の神吏がレバーを動かし、もっとも高い場所にあった大皿をその神吏の前にくるよう操作した。白紙の本がちょこんと乗せられると、大皿はふたたび元の高い位置まで戻される。
その後、ふしぎな現象が起こった。
神器を乗せた大皿が、音をたて、徐々に降下しはじめたのだ。そして底に転がる巨大な鉄球が、ごとり、ごとりと持ちあがっていく。よく見ると、神器を乗せた大皿を吊るした鎖は、滑車を通り、はるか下方の鉄球まで繋がっていた。本一冊で何十トンもあろう鉄球が持ちあがるはずもない。大皿には今、別の――すさまじい質量がのしかかっている。
目には見えない『それ』が載ることで、神儀の間の秤は動く。
では、何が載っているのか――眷神であると、神吏は言う。
これが神重計。神の重量でのみ動く秤。一説では大皿に乗せられているのは眷神の指一本だとも言われるが、詳しいことはわかっていない。
すべての鉄球が底から浮いたころ、貴賓皿にも変化が起きた。シュヴァインの乗る皿が上へと持ちあがっていくにつれ、グランセの乗る皿が下へ降りていく。バラバラの高さで静止した数十個もの鉄球のすき間から、グランセは上に目を凝らした。
はるか上空の貴賓皿に乗るシュヴァインの姿が、かろうじて見える。彼のもとにはちょうど陽光が差し込んでいるが、グランセのところまでは一本も光が降りてこない。ステンドグラスの色を浴びて、シュヴァインの白い衣装が鮮やかに染めあげられる。
神が、彼に彩色している。
天紋賛会で彼に対して感じた畏怖が、胸裏によみがえった。畏ろしいほど、震えがくるほど、あれは尊い。
こめかみに鈍い痛みを覚え、グランセは目を伏せた。
終末炉よ。今こそ開け。圧倒的な尊さごと、あれを飲み干してしまえ。
「――恨み言は神に聞こえる。殿下、お気をつけるように」
神吏長の忠告に、背筋がひやっとした。フード頭を見あげると、薄いくちびるが湾曲しており、いつもながら不気味である。王女はごまかすように腕を組む。
「ふん。聞こえたところで何ができるのだ。眷神がこの世界に干渉するのは簡単なことではないだろう」
「眷神も姿を変えてこの世に存在することはできます。当然、接触も可能」
グランセはぎょっとして「存在するだと?」と返した。
「神託がよい例です。あれは一瞬だが、『尚書官』ビブリエ神が胎内世界に降りて、神吏と対話をする」
「……他の眷神も対話できるのか?」
「ビブリエ神のように、無害である眷神ほど簡単に呼び出せる。代わりに一度の接触時間が短く、二分間だけです。より有害であるほど呼び出す方法が至難の業だが、一度成功してしまえば接触時間が長い。呼び出せるのは比較的新しい神にかぎりますがね」
「もっとも長く接触できる眷神は?」
「アグニマ神。あれが胎内世界に降りると、人の平均寿命を与えられる」
王女は、さほど深く考えずに尋ねた。どうやって呼び出すのかと。マリオネストは、めずらしく笑い声を漏らしながら言う。
「妊婦を殺せ。その胎児のなきがらに、アグニマ神は宿る」
ぞわ、と腹の底が震えた。
――ああ、水子よ。
王女はふたたび貴賓皿を見あげたが、凝視したのはシュヴァインではない。ふわっと広がる黒い癖毛頭が、不安定な皿の上でおどおど周囲を見渡していた。動悸が激しく胸に響く中で、グランセは目をすがめる。
「マリオネスト。胎内世界にいる眷神を識別する方法はあるか」
「眷神と疑わしき人物がこの場にいるのであれば、その者を見つめてください。そしてまばたきをせずに名を呼ぶのです。もしその者が真に眷神なら、必ず振り返る」
グランセは、子羊を見つめ、ささやく。となりにいるマリオネストにすら聞こえないであろう小声で、アグニマ神、と。
貴賓皿の上で、ヨモの肩がびくっと跳ねた。そしてすぐに下方の皿にいる王女のほうへ、身を乗り出す。
『終末炉の管理者』に見据えられて、王女は底冷えを感じた。
そのとき、まったく想定していなかった事態が起きて、アグニマ神と王女のあいだに走った緊張は妨げられる。神吏の一人が叫んだ。
「ベライヤ神よりお達しを賜った! この儀式は、失敗であると――」
どよ、と扉前の足場に残る数人の神吏がざわめく。
神重計から、神の重量が失われていった。神器の乗せられた大皿が上へと戻っていくにつれ、鉄球はゴトゴトと底に積まれていく。神吏がレバーを操作し、二つの貴賓皿と神器の乗る大皿を引き戻した。
足場に帰還したシュヴァインを神吏らが取り囲み、背中の盟紋を精査している。一人の神吏が苦々しげに結果を報告した。
「だめです。護神の承認は得られなかった」
女の神吏が不安そうに「現状、王座はどういう扱いに?」と尋ねた。
「キャンデラ王の退位はすでに承認されています。そしてシュヴァイン殿下は、天紋賛会で護神の指名を受けたので、事実上の王といえるだろう。だが……」
正確に言うならば、王座は空である。
レバー操作をしていた神吏が、蒼白な顔で「僕のせいでしょうか」とつぶやいた。
「僕が何か不手際を?」
「いや、あなたのせいではないです。神器の乗った大皿は、本来ならシュヴァイン殿下の目の前まで下がってくるはずが、かなり上で止まっていた。あれは操作の問題ではなく、神器のほうに問題があったのです」
厳格な顔つきの神吏が、神重計を睨みつけながら言った。
「あの神器は偽物ですよ」
周囲がどよめく。貴賓皿から足場に移った王女の耳にもその話は漏れ聞こえてきた。
一人の神吏がすがるようにマリオネストを見る。
「神吏長! あれはあなたが管理されていたはずだ。なにがあったのですか?」
マリオネストは感情の滲まぬ声で応じた。
「盗難騒ぎのあと、神器は地下倉庫に保管した。その際、高位の神吏が五人がかりで反承封印術を張り巡らせ、今日まで誰も神器に近づけないよう手配した。反承封印術は知っての通り、神吏長のわたしですら一人では破れぬ、非常に強固な封印だ。五人の術者に悟られずに封印を通れるのは、至近階級の者だけ」
つまり、王と王子、そして王女。
神吏たちが一斉に王女を注視する。グランセは、少し反応が遅れたあと。自分が神器を偽物とすり替えたのだと疑われたことに気づき、激高した。
「不届き者め! わらわを愚弄する気か!」
おやめなさい、とマリオネスト神吏長が王女と神吏の双方をいさめる。まだ若い神吏が、隅のほうで遠慮がちに発言した。
「あの……それで、シュヴァイン殿下、いえ、陛下の正式な即位は、どうなるので……?」
年配の神吏が顎をさすりつつ言った。
「延期ということですねぇ。次の月が満ちるまでに、本物の神器を用意して儀式をやり直す必要があります」
「その、もし……本物の神器が見つからなかったら?」
「廃位ですよ。シュヴァイン陛下の継承権は永久に失われることになります。当然ですが、神器がなければグランセ殿下も、ディオネ殿下も、誰も王座にはつけませんわなぁ」
それはつまり、リュテイス奏朱国の滅亡。
厳しい目をした神吏が、グランセを一瞥しながら言った。
「シュヴァイン陛下の継承権が消失したあと、『偶然』本物の神器が見つかった場合、どうなるかね?」
「無論、グランセ殿下が女王となられるだろうなぁ」
みなの目は、針のように王女を突き刺す。怒りで顔を真っ赤にしたグランセは、いたたまれなくなり、神儀の間を飛び出した。何も言えない。誰よりも強い動機を持つことは、痛いほど理解している。
廊下で待っていたニルが、驚いた顔で王女を迎える。
「いかがなさいました? あの、殿下、どちらへ」
王女は全速力で廊下を駆け抜けると、角を曲がり、階段ホールに続く回廊へ出た。左右の壁際に、いかめしい黒鎧の兵隊が微動だにせず陳列している。ベライヤ神の盟志『黒い騎死団』を模したものだ。子どものころは無言で威圧する黒鎧が怖かったものだ、とどうでもいいことを思い出していたとき、ふと背後に気配を感じ、足を止めた。
真綿のようにやわらかい声が、グランセの背中をなでる。
「ひさしぶりだったよ。人に呼ばれるのは」
振り返った王女は、回廊の曲がり角にいる人物を見据えた。赤い祭事服をひらめかせながら、長い足が一歩、また一歩、グランセのほうへ近づいてくる。仕立てのいい靴が奏でる足音はじゅうたんに消されるはずだが、王女の耳には重苦しく響くのだ。この世のものではない重量を帯びた足音が、また一歩。
ああ。水子よ。亡き産声に宿った存在よ。
「くるな――」
終焉の神よ。
どうか、来たもうな。
されどグランセの望みむなしく、神の足音はどんどん近づいてくるのだ。
「殿下、ごめんね? こわがらないでほしいな」
ちょっと場所を変えるだけだから。そう言って気遣わしげに笑んだ神は、曲がり角の向こうから聞こえるニルの声を気にするようなそぶりを見せると。ニルから王女を隠すように――掲げられた手から突如、白い炎が溢れ出たと思ったら、またたく間に津波のような規模となって廊下に押し寄せ、王女を飲みこんでしまった。
焼き尽くされたのか? グランセが青ざめたとき、なんの痛みも火傷も与えることなく炎の波が引けていく。幻覚だったのかと戸惑った王女は、しかし、あたりの光景に息を呑んだ。
グランセのいる回廊は、朽ちかけの廃墟になっていた。ところどころに白い火が残る床は焼けただれ、壁はひび割れて穴が開き、天井は崩れかけている。まるで戦時下である。
「そなた、王宮に、リュテイスに何をしたのだ!」
とっさに王女が肩を怒らせると、ヨモの身体が子羊のようにびくっと跳ねた。
「ああ、違うんだよ。誤解しちゃうよね。これはまやかしなの。現実世界の上に被せて一時的に作られた、僕の箱庭世界。もっと平和な箱庭にしてあげたかったんだけど、僕の好みで決められる法則じゃないから」
ごめんね。そう言って困ったように笑うさまは、まさにヨモだ。だが、目が違う。おどおどしていた子羊の目はいま、底知れない闇を抱いて王女を見つめていた。
そこにおわすのか。
終焉を司る神、アグニマよ。
リュテイス奏朱国の正統なる系譜を継ぐ、第二王女グランセ。彼女の地位ともなれば、膝をつく機会は少ない。非常に少なかった。
いま、グランセは、神の重みに耐えかねたように膝をついていた。焼け跡から黒い粉塵が巻き起こされて、視界を曇らせる。
「殿下、教えてほしい。神器をすり替えたのは、あなたなのかな」
問いかけるヨモは哀しげだ。
「あのね、僕はどうしても神器を手に入れなくちゃいけない。あなたが神器を持っているなら渡してほしいんだ」
王女は思い出した。神器の盗難騒ぎのとき、神器を拾ったヨモの様子を。彼はあたかも記述を読むかのごとく、白紙のページをめくっていた。神々にとってあの本は、白紙ではないのだ。何か重要なことが書かれているのだろうか?
王女は意を決して提案を持ちかける。
「アグニマ神。わらわは神器の行方を知らぬ。だが、あてはあるのだ。だから捜索を任せてほしい」
エスカポ副所長を操った黒幕。神器を盗もうとした張本人を見つける必要がある。神器のすり替えが王でも王子でもないなら、それより前にすり替えを成功させたということだ。あの盗難騒ぎのときが一番怪しかった。
ふいにヨモが笑う。無邪気だが、畏れを呼び起こす不穏さがあった。
「殿下はすごいよね。僕をアグニマだと看破した。……たしかにあなたなら、神器を見つけられるのかもしれない。任せてもいいかな」
アグニマが呼んだ白い炎の残り火が、王女の足元でゆれている。
たかが人の子。アグニマの前にいると、そんな気分になった。たとえそれが、争いを鎮める宿命を託された、悲願の子であろうとも。そうだ、たかが人の子なのだ。
焼け跡から、黒い粉塵が巻き起こされて、視界を曇らせる。
神よ。アグニマ神よ。暗雲を連ねて降りたまえ。あなたの暗雲が頭上を遮るおかげで、悲願の子に降り注ぐ陽光が阻まれる。目を眩まされることなく彼の姿を捉えることができる――兄上、あなたの弱点が見えたぞ。
我らクロテミスを分断するわだちを、この子が埋めてくれますように――セブ派とローゼン派の合いの子を宿したクロテミス人の言葉には、おそらく隠された結びの部分がある。
こう続いたはずだ――その勇猛さと、この賢しさを、よみがえった我らが祖国へ、ともに継ごう。
王女の伏せられた顔に、不遜な笑みが滲み出た。つまりシュヴァインとは、クロテミス国の再建という確約を宿した子。リュテイスからの独立を先導する、革命と叛逆の申し子であるのだ。そしてそれは、リュテイス人にとっては決して支持するわけにはいかない、禁忌の子でもある。
王女は思考を読まれぬよう、頭を深くさげながら言った。
「アグニマ神。神器の捜索、たしかに承った」
アグニマは短い無言のあと、「期限は一ヶ月だよ」と遠慮がちに釘を刺す。そのころには回廊が元通りに戻っていて、王女はふかふかのじゅうたんに座りこんでいた。駆け寄ってきたニルが心配そうに顔を覗きこむが、王女がすっきりとした顔をしていたため、予想を裏切られたように目を丸くしている。
曲がり角に立つヨモの横に、シュヴァインが並び立った。神の彩色を受けて神々しく映えていた白服の彼を、もうまぶしく思わず、まっすぐ見ることができる。
革命の申し子よ。建国の祖たるこの血でもって迎え撃とうぞ。
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