1.6

 暗い朝だ。王女は重い頭をのっそりと持ちあげ、ベッドの上で上体を起こした。やけに薄暗いのは、この寝室が陽のあたりにくい場所にあるせいだけではないだろう。閉ざされたカーテンの向こうで、雨が窓ガラスにあたる音がしている。

 ベッドを出て、薄い寝間着のまま窓のほうへ近づいた。カーテンを開け、ガラス越しに見えるカスタータ山の大滝に目をすがめる。すべてを俯瞰する大滝はゆらがぬ権威を示すようで、好きだった。自室からこれを見たいがため、わざわざ日当たりの悪い部屋を所望したくらいだ。

 今朝の大滝は、朝霧と雨もやで淡く霞んでおり、捉えがたい。いつもならその幻想的な美しさに見とれているが、いまのグランセにはその幽遠さが胸に痛く、すぐに窓に背を向けてしまう。

 即位の日だ。兄の晴れ舞台だ。グランセはどすっとベッドに倒れこんだ。

 トントン、と控えめなノックの音にうつぶせのまま応じると、ニルが入室してきた。まだろうそく一つ灯していない室内に眉をひそめたニルは、杖を打ち鳴らしながら手早くベッドサイドの燭台に火を入れる。ほのかな明かりに照らし出された彼女は、大きな丸眼鏡にひっつめた髪、いつも通りの裾が引き締まったシンプルなドレス姿。

「……? ニル、やけに普段通りの服だな。今日は兄上の儀式があるというのに」

 ニルは、しばらく黙っていたが。おもむろに、その薄いくちびるが開く。

「本日は、行われません」

「うん? 延期になったのか」

「もとより本日は予定しておりませんでした。王子殿下方もご了承ずみです」

 意味がわからず、王女はベッドから身を起こした。ニルの横顔がナイフのように冷たい。嫌な予感を覚えたあと、ようやく策略の香りに気づき。

「……誰だ。誰を謀るための嘘だったのだ」

 自分にはいま知らされた。王子側、つまりギルテやヨモも知っている。残るは。

「――ネフか! そなた、この期に及んでまだネフのことを」

「殿下。ご理解ください。必要な措置なのです」

 ネフェルメダは以前、王女に言った。自分に情報を隠すな、と。

「わらわはネフを裏切りたくはない」

「あちらが裏切り者の可能性がございます」

「口を慎め!」

 グランセのわめき声が聞こえたのか、短いノックのあとにギルテが入室してきた。寝間着姿の王女にショールをかけながら、抑えた声で告げる。

「ある情報筋によると、セブ派の過激派武装集団が王都入りしたそうです。ローゼン派との融和を否定する集団なので、機会を得ればシュヴァイン殿下の即位を邪魔しにくる可能性が高い。いま即位の日取りを彼らに知られるのは、非常に危険です」

「わらわはそういう話をしているのではない! ネフを裏切り者と決めつけるやり方に物を申しておるのだ」

 そう言ってニルを睨むが、それでも宰相は考えを変える様子がない。苛立ちに任せ、グランセはまくしたてる。

「ならニルよ、即位式の情報をくれてやればよいわ。やつらが兄上を暗殺すれば、そなたの望みが叶うぞ」

 王女のあてつけに、ニルは笑った。

「そうしたいのはやまやまですが、準備なしに敵を引き入れても逆効果です。第二王女派と周知されるわたくしが王子暗殺の手引きをしたことが立証されれば、危うくなるのはグランセ殿下。それだけは絶対避けねばならない」

 ニルの言いざまは、まるで自分は失脚しようが処刑されようがどうでもいい、といった、ある種の底知れぬものを帯びていて、王女は圧倒される。ニルは静かに言った。

「優先すべきは、身内に裏切り者がいるのか否かを調べることです。先日、あれの妹が王宮を訪ねてきていた。あそこの家系は何を企んでいるのか知れない」

 前科があるゆえ。そう言ったニルの語調には断罪の厳しさがあった。

「……結局そなたは、ネフの動向ではなく、あの家の出身者だという理由でネフを排斥したいだけなのだ」

 寝間着の裾を握りしめる王女のそばで、ギルテがやわらかく進言する。

「実は、ネフェルメダの妹ウトラが、過激派集団と一緒に歩いているのを見た者がおります」

 グランセは息を呑んだ。目の回るようなショックで頭がぐるぐるする中、それでもなんとか否定意見をひねり出す。

「そんなもの……仲間とはかぎらぬぞ。誘拐、かもしれぬ」

 ふっとニルが鼻で笑った。

「まず疑われるのは、ウトラが過激派の一員だということでしょう。妹がそうなら、姉もそうだと考えるのは無理やりな考え方ではありますまい」

 王女は何も言えなかった。

 そのとき、ノックの音と一緒にネフェルメダが朝のあいさつに来た。ネフェルメダと入れ違いでギルテが出ていったとき、なぜ彼がここにいるのかいぶかしむ顔つきになったが、ニルの姿を見た途端、緊張で固まる。

 ニルは「早く殿下の御仕度をすませなさい」と彼女を急き立てた。

 グランセの着替えを手伝いながら、ネフェルメダが何か言いたげにしている。グランセがうながしてやると、その重い口を開いた。

「実は……急用が、できまして。昼頃まで外出を許可していただきたいのです」

 ネフェルメダはまだ今日が即位の日だと思っている。そのための王女の準備も昼にははじまるので、首席補佐官の自分が不在になるのはまずいと考えての悩ましげな態度だろう。

 王女は、なるべく自然に「急用とはなんだ?」と尋ねる。

「妹に呼び出しを受けたのです。両親共すでに亡きいま、あの子にとってわたしが唯一の肉親ですから、応じないわけにはいかず……」

 ニルが、どのような内容の呼び出しなのかを問い詰めた。

「……すみません。戻ってからお話しいたします」

 ネフェルメダの曖昧な返事に、王女はしばし黙ったあと。

「かまわぬ。行くがよい」

「ありがとうございます」

 そう返したネフェルメダは、何かよそごとに気を取られているようで、グランセのため息には気づかなかった。

 『滑落する者をその都度助けに降りる者は、永劫頂上には辿り着けぬのです』――母の一文が、嫌なときに脳裏によみがえる。



 夜明け前に、その手紙はネフェルメダのもとへ舞い込んだ。いわく、妹を助けたくば一人で指定する場所に来い、という内容だ。王女の許可をもらって王宮を出たネフェルメダは、雨の中、約束の路地裏まで急いだ。

 酒場の裏手にある小道は、雨しぶきで見通しが悪い。一応警戒はしていたが、待ち伏せていた数人に寄ってたかって殴りかかられ、ネフェルメダはあえなく昏倒する。次に目を覚ましたとき、彼女はどことも知れぬ狭い倉庫で柱に縛りつけられていた。

 いま、何時だろう。

 木箱が雑多に積まれたすき間で、ネフェルメダは身じろぎする。だが縄は新しく、まったくほどけそうな気配がない。ふと誰かの足音が聞こえ、ネフェルメダは身を固くした。

 古い木戸から入ってきたのは、マスクで顔を隠した女だ。服装も、両手に嵌めた赤い革手袋以外はよくある目立たぬ庶民服で、身元どころか身分もよく測れない。ネフェルメダは、慎重に言葉を選んで発言した。

「わたしに何の用だ」

「情報が欲しい。シュヴァイン王子の即位式に関する日取りや場所のな」

 王の退位に関する話はすでに漏れているということだ。ネフェルメダは一瞬、危うい考えが頭に浮かんだ――ここで情報を渡してしまえば、王子を失脚させられるのではないか? しかしすぐに案を打ち消す。おそらく王の退位の件とは違い、王子の即位式に関する情報はかなり少人数に絞られているはずだ。その情報が外部に漏れれば、高確率で出所を突き止められてしまう。王女の側近という立場がある以上、自分がその出所になるわけにはいかない。

 一連の思考をまるで覗かれたかのように、ネフェルメダは唐突に腹部を殴られた。容赦のない殴打で、痛みに慣れていない身体がすぐに悲鳴をあげる。拉致されたとき受けた暴力もあいまって、鈍い痛みが全身を駆け抜けた。

「あまり時間がない。妹を助けたければ情報を渡しな」

 痛みで霞みかけていた頭が、一気に明瞭になった。

「妹は、どこだ、あの子は無事なのか?」

「情報を吐け。ここから先は拷問になるよ」

 赤い革手袋の女は、不吉な笑みを見せた。


 ――二時間が経った。しかしネフェルメダにとっては二時間どころではなく、何十日にも感じられる時間であった。あばらが数本折れるほど殴られ、足がガクガク震えている。血がしみたことで、右の奥歯が欠けているのがわかった。口の中に充満する錆びた味で気分が悪くなり、ネフェルメダが嘔吐していると、赤い革手袋の女が嫌そうにため息をつく。

「強情だなぁ。あんまり時間がないんだってば」

 足を適当に蹴られたが、いまのネフェルメダの状態ではたったそれだけの刺激ですら全身に激震が走る痛みだった。うめく彼女に、赤い革手袋の女が詰め寄った。

「右手の爪は、すでに三枚剥がれてるけど。残りの二枚も剥がそうか? それとも情報を渡すかい?」

 ネフェルメダは歯ぎしりする。何も言えない。へたに口を開けばうっかり情報を吐いてしまいそうだったから。痛みにはそれだけの効果がある。柱の後ろにきつく縛りつけられた手からとめどなく血が垂れ、床に血だまりを作っていた。

 赤い革手袋の女がふたたび背後にまわり、親指の爪を剥がしにかかる。ネフェルメダは、枯れたと思っていた声を張りあげた。脳天まで突き刺さるような痛みに、意識が飛びそうになる。いっそ意識を手放してしまいたいが、気絶したところで起きるまで暴力を加えられるだけだった。

 だがその痛みも、たいまつを顔に押しあてられたときに比べたらまだましだった。すさまじい痛みの中で、自分の皮膚が溶け、肉の焼けるにおいを自分で嗅ぐということ。頭がおかしくなりそうだ。

 楽になりたい。そう願うネフェルメダを食い止める唯一の留め金は、父の死である。

 ――謀反の一族。それは彼女の生まれたエンデム家にずっとつきまとう汚名であった。一度仕える主人を裏切った家名は、以降誰にも信用してもらえない。まさしく不治の病である。

 それを変えたのは、父の死だった。キャンデラ王のため、ネフェルメダの父は戦地で死地へ飛び込み、戦局を覆した。命を犠牲にして、リュテイスに勝利をもたらしたのだ。それ以来、エンデム家を見る目が変わった。ネフェルメダが王女の側近になる栄誉を与えられたのも、父の名誉の死に報いる措置の一環だったといえる。

 ――わたしがここで情報を吐いたら、エンデム家はふたたび信用を失う。そして今度こそ、どんな犠牲を捧げても信頼回復は望めないだろう。

 父が開いた活路を、無駄にするわけにはいかないのだ。たとえ何を犠牲にしてもだ。

 赤い革手袋の女は、マスクの奥であきれたような声を出した。

「あんたねぇ。あたしのこと舐めてるのか? 妹がどうなってもいいのかよ」

 ふいにネフェルメダの脳裏で、妹の言葉がよみがえる――姉さんのしていることは無駄なんだよ。どう貢献したって、肝心なところで頼りにしてもらえない。

 寒気がした。

 そのとき、倉庫の戸が勢いよく叩かれ、赤い革手袋の女が「なんだよ!」と乱暴に応じる。外から仲間らしき男の怒鳴り声がした。

「やばいぞ! 神専衛兵団のやつらが来る! 早く逃げるぞ!」

「はあ? なんでばれたんだよ、もう!」

 苛立った手つきで、赤い革手袋の手がネフェルメダの髪を鷲掴みにした。

「よく聞きな。これが最後。王子の情報を渡せ。さもなくば妹の死体を転がすよ」

 ネフェルメダは、ガクガク震えていた。震えが止まらないのは、全身くまなく痛むせいなのか、もはや彼女にもわからない。混迷に満ちた頭で、かろうじて思考している状態だ。

 生前、父が言っていた。王家が最優先なのだと。

 全身の血がすべて流れ出てしまったのではないかと感じた。それでもネフェルメダは必死に意識を保つ。大丈夫、報われる。

「……ふうん。そう。それでいいんだな」

 赤い革手袋の女は、妙にやさしくネフェルメダの髪から手を離した。嘲笑が聞こえる。

 いったん戸の外に出て行ったあと、女はすぐ戻ってきた。マスクで半分以上隠れた顔を、ネフェルメダの鼻先まで近づける。

「あたしねぇ、痛めつけるの好きなのよ。だからあんたは生かす」

 意味深に笑うと、赤い革手袋の手をヒラヒラさせながら背を向け、部屋を出る。女がこれ見よがしに開け放っていった戸の向こうに、鮮血が広がっていた。その中に横たわる、見慣れた横顔が誰なのかを――姉の頭は、理解を止めた。

 代わりに脳裏に呪文が満ちていく。何よりも王家が最優先なのだ。

 大丈夫だ、報われる。

 この犠牲は、必ずや報われる。



 最上階まで吹き抜けになった玄関ホールのステンドグラスに、激しい雨が打ちつけていた。この王宮は構造上、一階中庭のあいだを三身廊のポルティコが通っており、ここを抜けていった突きあたりに玄関ホールがある。そこから伸びた大階段が踊り場で左右に分かれ、上層階へと続いていた。

 大理石の壁に手をつきながら、グランセは大階段を一階まで降りていく。一階ポルティコでうろつく王女の影が、左右に並ぶ燭台の火で幾重にも重なって、不安定な影を落としていた。

「遅い。遅いわ」

 王女の低いつぶやきに、ポルティコの側廊に立つニルが応じた。

「殿下。どうぞ落ち着いてください」

「ネフが戻らぬ。昼には戻ると言っておったのに、もう夜だ」

 グランセはなかばやつあたりでニルを睨んだ。杖をついた宰相は、夜の中庭を背にした側廊の暗がりに溶けこんでいる。

「ニル。本日、即位式だと勘違いした輩の襲撃はあったか」

「ございませんでした」

「つまりネフは情報を漏らしていないということだな」

「さようでございます」

「では、ネフの在任を認めるか」

 間があいたあと、ニルは「認めましょう」と答えた。言質をとった王女は、にんまりと頬をゆるめる。そこへ使いの者が近づいた。

「申しあげます。ネフェルメダ首席補佐官が帰還いたしました」

「すぐ連れてまいれ!」

 上機嫌で命令した王女だったが、神専衛兵団が連れてきたネフェルメダは、あまりにも予想外な姿であった。まず、包帯だらけである。離れていても香る血のにおいに、グランセは寒気を覚えた。

 ぼうっとしているネフェルメダにとりすがりながら、王女は「何事だ!」と衛兵団を睨む。

「下町で違法盟志召喚を取り締まっておりました際、偶然、監禁されていた首席補佐官を発見した次第でございます。すぐ医務院へお連れしようとしたのですが、王宮へ連れて行けと言ってきかぬのです」

「ネフ! 何があったのだ。ネフ?」

 彼女の顔を両手で包んだグランセは、手のひらに違和感を覚えた。見ると、血の腐ったようなものが手に張り着いている。ぞわっと生理的なおぞましさが全身に走った。ネフェルメダの顔を確認すると、左頬が焼けただれている。

 茫然となった王女を、神専衛兵がそっと離れさせた。

「だいぶ痛めつけられております。手当がすむまでお手を触れぬほうがよいかと」

 彼がそう言った矢先、ネフェルメダの手がさまよいながら持ちあがった。グランセが包帯だらけの彼女の手を掴むと、安心したように「殿下……」と弱々しくささやく。ネフェルメダの顔を覗きこむと、意外にもその目ははっきりしていた。守り抜かれた信念が瞳の奥で光を放ち、王女を見据える。

「殿下、わたしは、犠牲に屈しなかった。褒めてくれ、わたしの女王よ」

 壮絶な気配をその目に感じて、グランセは身を引きかけた。だがネフェルメダの血まみれの手がぐっと王女を掴んで離さない。王女を掴むことで、必死になにかを繋ぎとめているようにも見える。

 ニルが見かねたように「手を離しなさい。殿下を汚す気ですか」といさめたが、肩で息をするネフェルメダは聞こえていないようだ。

「ですが、すみません……殿下。王子の即位式には間に合わなかった」

 ぎく、と王女の手が震えた。

「……大丈夫。大丈夫だぞ。それは、今日は行われなかった」

 いぶかしげな目をしたネフェルメダに、ニルが代わりに説明する。

「かねてよりあなたの適性が疑問視されていました。そのため情報を操作し、あなたの出方を探らせてもらった。結果は良好です。名誉に思いなさい」

「いみ、が――わからない」

「ですから本日、即位式は予定されていませんでした。その偽の情報を持っていたのはあなただけだということです」

「偽の、情報?」

 ネフェルメダが、切れたくちびるを震わせながら言った。

「偽の情報を、持たされていた? わたしが? 殿下……殿下は、ご存じだったのか」

「まあ、な……すべてはそなたの適性を示すためであった。しかと証明されたぞ。そなたは解任されずにすんだのだ」

 王女が言いわけのようにまくしたてていたのは、すでに感じとっていたからかもしれない。ネフェルメダの空気が、徐々に不穏なほうへ染まっていく気配を。

「じゃあ、わたしは」

 脂汗が、血と混ざってその頬を滑り降りていく。

「偽の情報を守るために、あの子を」

 王女は嫌な予感がした。滑落する。嫌な予兆。

 滑落する音が。

 見開かれたネフェルメダの両目から、ぶわっと滝のような涙があふれた。突然わめき声をあげた首席補佐官に、神専衛兵もとっさに反応できず。言葉にならぬ何かを叫びながら、ネフェルメダは重傷者と思えない動きで王女に飛びかかり、その首を。

 折れんばかりに、両手で締めつけた。

 ――投獄せよ! というニルの激高する声が聞こえたころには、首から手が離れ、王女は衛兵たちにがっちりと守られていた。衛兵の向こう側で、正気をなくした叫び声がまだ響いている。泣き声にも似たそれを、グランセは呆然としたまま聞いていた。

 あのネフが。

 わらわを殺そうと。

 首元に手を添えながら、グランセは足元の崩れるような気分に陥っていた。

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