1.5
天紋賛会は、雲ひとつない晴天の日に執り行われる。
王宮の正面に位置する中央テラスは、三階の高さにあり、宮殿前広場に集まった民衆を一望できる場所だ。四本の豪奢な付け柱に囲まれたファサードテラスで、神吏長のマリオネストが杖を掲げた。すると杖から一条の光が天へと昇り、青い空に巨大な円模様を描き出す。大天紋である。
グランセは、正面テラス横の廊下の窓から、王宮真上に浮かぶ古代文字の模様を仰ぎ見ていた。隠し子の存在を初めて知った検問室での衝撃を思い出すため、天空に広がる王家の象徴を気持ちよく見ることができないでいる。
マーマレードブラウンの髪をルビーのかんざしで結いあげ、ワインレッドの生地を黒と白の刺繍で彩ったドレスをまとった王女グランセに、背後から遠慮がちな声がかかった。
「おお、ギルテではないか。ここで何をしておる」
振り返った王女の足元に片膝をついたギルテは、祭事用の華やかな軍服を着こんでいる。青色をベースに、いかついベルトや剣、鎖などの無骨な装飾がよく似合っていた。
「先日、王宮の外へお出かけになられたと聞きました。なぜお声をかけてくださらなかったのですか」
「そなたは兄上の側近。わらわが連れて出ることはできぬ」
「しかし」
食い下がるギルテに、王女はふわりとドレスを見せびらかした。
「どうだ。今日のために用意させた逸品ぞ。似合うか?」
「……よく、お似合いです」
心なしか頬を赤くしたギルテはそれ以上話せなくなり、まんまと彼を黙らせることに成功した王女は満足げに笑んだ。
「そうだギルテ。ニルが見あたらないのだが、なにか知っておるか」
「ニル宰相は今朝から王宮におりません。緊急で調べることがあるとか。……母は殿下に申しわけなく思っているようです。結局ローゼン派の掌握方法を考える時間が足りず、天紋賛会の勝利のための決定打を決められなかったと」
「よいのだ。ローゼン派の主力人物はこの目で見たが、あれは手ごわい。下手に小細工をすればそれだけ逆効果になっただろう」
窓の向こうに広がる大天紋の雄大さに、ギルテが目を細める。
「ここが勝負所でございますね」
「さよう」
これから王族は、正面テラスに順に出ていく。そのとき民衆は、支持する者の登場時にありったけの歓声をあげるのだ。それは大天紋を通して護神の耳にも届き、もっとも民衆に歓迎された王族の名を、次の王として護神が大天紋に刻み込む。
即位の儀ではないが、ここが事実上の即位式のようなものだ。
ふとギルテが、廊下の奥で立ちつくすネフェルメダに気づいた。彼女もまた祭事用の華美な刺繍入り官服に身を包み、宝石つきの髪紐で編みこんだ髪型をしている。いつものくたびれた身なりではないのに、窓の影で佇む横顔は死にかけた病人のようだ。
ギルテは厳しい声でネフェルメダを呼ぶ。
「主人の晴れ舞台を前に、何を呆けているのだ。手はずは確認したのか?」
はっとこちらを見た首席補佐官は、一気に表情を引き締めて、王女のもとへ駆け寄る。
「ネフ、先日から様子がおかしいぞ。どうかしたのか」
「いや……なんでもないよ。殿下、そろそろ心の準備を。神吏長が戻ったら、いよいよ王族がテラスに立ちます。まずお出になるのは、国王陛下」
ネフェルメダの説明に、国王への歓声が重なった。シャンデリア王、もといキャンデラ王は、装飾品をジャラジャラ鳴らしながらテラスの中央に堂々と立つ。
「次は、継承順位の低い方からお出になる。本来は末姫のディオネ王女が最初ですが、あいにくディオネさまはご欠席されています。よって――」
グランセ殿下がお出になられる番です。
数十人が余裕で並べる広い正面テラスは、中央に赤じゅうたんが敷かれている。国王はすでに下がっており、テラス後方に並んだ背もたれつきの椅子に腰かけていた。あいかわらずグランセには関心を示さないが、王女は毅然とした姿勢で赤じゅうたんを歩いていく。
王女の姿が見えてくると、広場の左奥でまず小さめな歓声があがる。そのあたりにはセブ派クロテミス人が集まっているからだ。そして広場前方の広い範囲を占めるリュテイス人からも、まばらな声を受ける。
グランセは優雅に手をふりながら、広場後方を注視する。右側から中央までを占めるローゼン派は依然として静かだ。やはりジャンス会長のお眼鏡には適わなかったということか。消沈しかけた王女の耳に、徐々に大きくなっていく歓声が届いた。それは広場後方からであり、つまりは――敵対するローゼン派の声援である。
目を丸くした王女に向けられたローゼン派の歓声は、すぐに少数派であるセブ派の声を掻き消すほど確かなものとなった。それはセブ派とローゼン派の融和を望むリュテイス人の驚きと喜びを誘い、結果的に広場であがった歓声は、王を越えるものとなった。
グランセは、肌の下で血が躍るのを感じた。
護神よ。この声が聴こえるか。
支持の声を堪能しきったあと、グランセは大変満足した様子で後ろへ戻った。王とは離れた場所に用意された椅子に座ると、後ろからそっとギルテが声をかける。
「お見事です。殿下」
王女は機嫌よくうなずいた。歓声が肌から染み込んで、充足しているのを感じる。自分はまだ戦える。力強く拳を握ったとき、宰相が急いだ様子ではせ参じた。
「殿下、お耳に届いておられますか」
「なにがだ」
「シュヴァイン殿下のご家系のことです。二日ほど前から市民層で急速に広まったうわさのようで……すみません、確認が遅れてこのような場でお話しすることに」
王女の横に膝をついたニルは、椅子の後ろに控えていたネフェルメダに気づくと、厳格な目で睨みつけた。
「殿下がご存じないということは、あなたも知らぬというのですか。仮にも首席補佐官が、この情報をいまだに掴んでいないとは、どういう了見です」
後ろで絶句しているネフェルメダの困惑を感じながら、王女はニルに話をうながす。
「三国戦争のとき、クロテミス人が二つに分断された理由はご存じですね」
「ああ。祖国復興の機会を狙うため、敵国連合の支援を受け入れたセブ派と、跳ね除けたローゼン派で対立したのだったな」
「セブ派は、戦後の独立と国家承認を敵国連合より約束されました。しかし約束は破られ、敗戦後、リュテイス領クロテミス州は分割統治の憂き目にあいます。セブ派は抵抗軍へと転身し、進軍する連合両国に攻撃を仕掛け、次々と殲滅されていきました」
このとき戦死したセブ派の戦士たちは『セブの英雄』として各地で語り継がれている。グランセの母方クロト家もまた、祖父にあたる人物が当時の抵抗戦で亡くなっており、セブの英雄に名を連ねていた。
ニルは不穏な表情で続ける。
「このころ、ローゼン派とセブ派の秘密会議が行われておりました。参加したセブ派はすでに数少なかったのですが、若く有能な抵抗軍のリーダーがおりました。この人物に、ローゼン派の有力者である女当主がある提案をしたそうです」
――あなたは勇猛であるがゆえに死んでいく。我々は賢しく、ゆえにこの時代を生き延びるだろう。だが我々だけ生き延びても、賢しさだけしか残らない。
――あなたの勇猛さを、わたしの胎を通してここに遺していってはくれないだろうか。
「我らクロテミスを分断するわだちを、その子どもが埋めてくれるだろう――このときローゼン派の有力者が身ごもった子こそ、シュヴァイン殿下の母君です」
グランセ王女の強みは、リュテイスの血と、クロテミス人の血を引くこと。しかしセブ派のみであり、ローゼン派を率いることはむずかしい。だがシュヴァインは。
「つまりシュヴァイン殿下は、セブ派とローゼン派の争いを永久に終わらせうるかもしれない、唯一の――」
大歓声が、ニルの声を掻き消した。
セブ派とローゼン派が惜しみなく声援を注ぐ先にいたのは、ファサードテラスの先に立つ第一王子、シュヴァインである。グランセのときには探るような間のあった声援が、彼にはなんの迷いもなく送られていた。そしてクロテミス人の内輪もめにうんざりしていたリュテイス人も、仲裁の希望である王子を心から歓迎する。
グランセを圧倒的に上回る大歓声の渦の底で、王女はぽつりと思った。
勝てぬ。
太刀打ちできぬ。あの血の尊さに。
争いを鎮める宿命を宿したあの血が、畏ろしい。
肘おきに体重を預け、王女は疲れたように手のひらで目元を覆った。ギルテが焦った様子で王女に声をかける。
「殿下、お気をたしかに。あなたさまのご家系もまた、尊い血筋でございます」
「気休めはいらぬわ」
「気休めなど申しておりませぬ。王妃殿下のご生家であるクロト家は、我らクロテミス人の中でもっとも古い血。その血を御身に宿しておられる殿下こそ、クロテミス人の礎にふさわしきお方なのです」
グランセは手のひらの下で目を丸くした。
「初耳だ。クロト家はそんなに古い家系だったのか?」
なにげなく返した言葉に、ギルテが凍りつく。その後ろに立つニルまでもが愕然とした目で王女を見たため、グランセは何事かと椅子の上で座り直した。
まばたきを忘れた目で、ギルテが王女を凝視している。
「……クロテミス建国者の血筋であらせられます。本当に、ご存じないのですか」
王女がうなずくと、ギルテは深い喪失に心痛めた様子で顔をしかめた。
「ではあなたは、なんのために――」
そこまで言ってしまってから、ギルテは青ざめた顔を急いで背けた。かろうじて彼が言い留まった言葉は、しかし、王女の鼓膜を射抜いた。
なんのために、女王になるというのだ?
ヒヤリと背筋に冷たい汗が落ちる。ただ女王になりたかった。そこに理由や意味を求めたことは、思えば一度もない。
宮殿の裏側にあたる三階の二部屋が、グランセの私室となっている。夕暮れの陽ざしが差し込む部屋で、グランセはソファに身を沈めていた。式典用のドレスをまだ脱いでもおらず、髪だけはかんざしが抜かれてソファの背凭れに散らばっている。
レリーフを凝らした暖炉の前で、ニルが立ちつくしている。彼女の息子はシュヴァインに呼ばれて出向いているが、式典で彼が見せた失望からかんがみるに、王女のそばを離れて次期王に付け、という命令はいまの彼にとってさほど不本意ではないかもしれぬな、と王女はやや卑屈な考え方に陥っていた。
豪奢なシャンデリアにはろうそくがたくさん立っているが、王女が希望しなかったため火が入っておらず、代わりにテーブルの燭台で灯火がゆれている。
薄暗い部屋に、ニルの静かな声が響いた。
「まだ望みはございます」
「……ニル。少し一人にしてくれぬか。頭を整理したい」
王女の指示を、ニルはめずらしく無視して続ける。
「謹んで申しあげます。殿下、あなたさまのご命令とあらば、わたくしはどのようなことでも遂げてごらんに入れましょう。たとえ極刑に値しようとも」
「では、しばし退室しておくれ」
「よくお考えください。あなたさまは、継承権第二位。継承権とは、上の者がいなくなれば繰りあがるものでございます」
天井の隅に染み込む夕闇をぼうっと見ていた王女の耳元で、ニルの言葉はしばらく停滞していたが。上の者がいなくなれば――その言葉の意味が頭に届いたと同時に、グランセは弾かれたようにソファから背を離してニルを見た。
「ニル! 冗談がすぎるぞ!」
「覚悟はございます。それともう一つ、ネフェルメダの適性について申しあげたい。最近はことに身が入っておらず、すべて後手に回っている始末。あの者を任務から解き、しかるべき者を代わりにつけることをお考えいただきたいのです」
「なにを、言うか……」
怒りと困惑でくちびるを震わせる。そのときノックの音がして、ネフェルメダが入室してきた。グランセは、ニルが彼女に余計なことを言うのではないかと危惧し、ニルを睨みつけた。だがニルはつんと横を向いて目を合わせない。
ネフェルメダは一瞬、怯えの滲んだ目をニルのほうへ向けた。しかしグランセに「どうかしたのか」と問われ、はっとしたように表情を改める。
「個人で調査したシュヴァイン殿下の情報について、ご報告にあがりました」
「そなたはわらわとずっと一緒だっただろう。いつ調べたのだ?」
「四日前、お休みをいただいた日です。実はその日、シュヴァイン殿下の生まれ故郷の村を訪ねてみたのです」
ニルと一緒にエスカポ副所長の生家へ向かった日だ。そういえばネフェルメダは一日休みだったな、とグランセは思い出す。
陶芸品が飾られたガラス棚に凭れながら、ニルが鼻で笑う。
「王子が育った村まで出向いておきながら、出生の秘密を暴けず帰ってきたということですね。頼りになる首席補佐官だこと」
ニル! とグランセが叫んだ。
「よさぬか! ネフ、気にせず続きを話せ」
「……実際、宰相のおっしゃる通りです。シュヴァイン殿下が預けられていたのは養豚家なのですが、口の堅い老夫婦で、王子に関する情報は何も聞けませんでしたから」
苦々しい顔のネフェルメダは、ぽつりとひと言「収穫はヨモのことだけでした」とこぼす。
「ヨモ? あれがどうかしたのか」
「王子とヨモが育った村には、ナラカ教会があります。確認すると、たしかにヨモの籍はありましたが、孤児であったようです。ここの上席神唱員がいい塩梅に口の軽い女で、ヨモのことを色々聞かせてくれました」
もともとヨモは赤子のとき、同市のアプサラシア教会に持ち込まれたらしい。だが保護してもらえず追い返された。理由は、不吉な子だから。
「ヨモは『水子返り』なんだとか」
その言葉を知らず、グランセが視線で尋ねると、ニルが教えてくれた。
「死んだ母親の胎から取り出された胎児のことでございます。そういう生まれの子はたいてい死産ですが、稀に一命をとりとめることもある。しかし地方ではまだ水子返りへの偏見が強く、引き取ってくれる教会といえばナラカ系くらいでしょう」
説明しながら、ニルは何かを思い出したらしい。にわかに顔色を変え、「ヨモが水子返りだと?」とネフェルメダに念押しした。
宰相はしばし思案したあと、グランセに説明を加える。
「うわさを聞いたあと、わたくしも王子の出生を調べました。国王陛下と王子の母君が出会ったときの事情を知る、数人の大臣に接触したのです」
おや、とグランセが疑問を挟んだ。
「父上のことだから、口止めされていただろうに。その大臣ら、よくそなたに話したな」
「何人か、弱みを握っておりますゆえ」
しれっと答えたあと、ニルは話を続ける。
「当時、まだ正妃を迎えていなかった国王陛下が、地方へ遠征したとき、王子の母君を見染めたというのがなれそめです。しかしこれは建前で、実際は王への献上品だったようです。国王陛下に気に入られ、ご懐妊なさったころに、王妃として迎える段取りが決定いたしました。ですが輿入れの直前、家臣の一人と一緒にご逃亡なさったそうです」
王子の母は、逃亡先でシュヴァインを生み、隠れながら育てた。
「ものの数年で見つかったのですが、問題は、母君が二人目の子を妊娠しておられたこと」
これ以上、王子の母に関する情報は追えなかったとニルは締めた。しかしグランセは、その先が予想できた。きっとこの場にいた全員が同じ推論を思い描いていただろう。
現国王キャンデラは、系譜の分散を非常に嫌う。王妃や王配が、王家の者以外とのあいだに作った子の存在を許しはしない。現に二人目の側室は、輿入れの際に連れ子を殺されている。
キャンデラ王が、出産をおとなしく待つだろうか。むしろ生まれぬようにと、胎児を、妊婦ごと。
ニルが注意深い語調で考察を話した。
「シュヴァイン殿下の母君は、おそらく国王陛下のお手にかかり亡くなられた。もしこのとき、陛下の目を盗んで母君のご遺体から胎児を取り出した者がいたとしたら? その子が息を吹き返し、教会に引き取られていたら。……荒唐無稽な話かもしれませんが、調べてみる価値はあります」
グランセは、その憶測の重さにめまいを覚える。
「そなたの想像通りだとしたら、ヨモは――兄上の実弟ということになるぞ」
しかし、とネフェルメダが顎に手をあてながら言った。
「もしヨモの出生が陛下に知れたら、間違いなく殺されます。なのになぜヨモは、自分にとってもっとも危険な場所である王宮までついてきたのでしょうか」
ヨモの情けない泣き顔を思い出し、王女は首をかしげる。本当に実弟だとしたら、何が目的でここにいるのか。
黙りこむ三人は、ふいに響いたノックの音に飛びあがりそうになった。ひと息ついてから、グランセが入室を許可する。シュヴァインが、ヨモとギルテを引き連れながら部屋に入ってきた。若干王女の目がきつくなる。
グランセの敵視に気づかぬ様子で、シュヴァインは手持ち無沙汰に立ちつくした。見かねたニルが一人掛けソファを勧め、次期王は言われたとおりに腰を落ち着ける。
「して、兄上。何用か」
「え? グランセさんが俺らを呼んだのではないの?」
戸惑う兄妹のあいだで、ニルが「わたくしがお呼びいたしました」と答えた。
「王と医師団が相談を重ねました結果、王には本格的な療養が必要とのこと。よって明日、護神によるシュヴァイン殿下の王位認定式を行うこととなりました。これより段取りをお伝えさせていただきます」
それはつまり、王の退位と、次期王の即位だ。
グランセの胸がずきっと痛む。すでに天紋賛会で結果が出たとはいえ、いざ目の前でその話を出されると、平静でいることがむずかしい。
シュヴァインの座るソファに寄りかかったヨモが、ぱあっと顔を喜色で染めた。
「わあ、シュヴァイン、やったね! ついに王さまになるみたいだよ!」
平静でいることがむずかしかったので、グランセはすかさず「わらわに許可なく発言するでないわ!」と怒鳴りつけ、気弱な子羊を泣かせたのだった。
シュヴァインは、上質な服をヨモの涙で汚されながらもすでに半分夢の中。苛立つグランセは、見かねたギルテになだめられながら隣の寝室へ引っ込んでしまった。そのため彼女は、気づき損ねたのだ。
部屋の暗がりで、宰相ニルが不穏な目をネフェルメダに向けていたことに。
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