1.4
リュテイス国の首都カスタータは、鳥から見れば巨大な蜘蛛の巣に見えるだろう。山を背にした王宮を基点とし、放射状に伸びた主要道路と、それらを結ぶ細い路とが複雑に絡み合う街並みは、慣れた者でないと抜けられない。
王宮から馬車で三十分ほど走った先で、グランセは路傍に降り立った。ここは街の真東に位置する地区だ。ここから都壁を越えたさらなる東の先に、先の大戦による戦後遺物が残された一帯がある。そこから汚染物質が風にのって王都まで流れてくるのだが、その汚れた風をまともに浴びる、そんな場所にクロテミス人居住区はあった。
腐食した壁で仕切られた細道を抜け、ニルは一軒の住居に王女を案内した。レンガ造りで案外しっかりした家屋の玄関戸を叩くと、中から老婆が顔を出す。ベールで顔を隠していてもグランセが誰かを身なりで判断したようで、すぐ中へ通された。
「ようこそお越しくださった。王女殿下、こちらが患者です」
紹介されたのは、ベッドで苦しげにうなされている少年だった。エスカポ副所長と同じ色の髪をした、まだあどけない男の子だ。神妙に少年を観察していた王女の横で、おやぁ? と男の声があがる。
「これはこれは、次期女王陛下ではないか! おっと違うな、継承権が格下げになられて、次期の次期女王だ。まさかこんな場末のあばら屋でお会いするとは、意外や意外! おっと失礼、名乗り遅れました。わたしはジャンス。
千煉祈祷会。表向きは眷神プルトナを研究する有志の集まりだが、実体はリュテイスに出入りする武器商の組合である。王軍とも密接な繋がりを持っており、へたな地方領主より発言力があるため扱いにくい組織だ。
それにしても派手な身なりの男である。年はおよそ二十代後半と見られ、腰まで届く青みがかった黒髪がその長身の背中を優雅に流れ落ちていた。仕立てのいいコートは精悍な身体のラインによく合っていて、金縁眼鏡から伸びた鎖が彼の動きに合わせてじゃらじゃらゆれていた。
気圧されていた王女に、ニルが耳打ちした。
「こう見えて彼はローゼン派の主力といわれる人物です。今日面会の予定はございませんが、王女来訪の話がどこからか彼の耳に入り、探りを入れに参ったのでしょう」
わざわざ偶然を装っているわけか。王女は気を引き締めると、ジャンスに向けて軽く一礼してから少年のほうへ向き直る。
「そなたとは後日ゆっくり話をしよう。わらわは急用があるのでな」
「ここは盗難騒ぎを起こしたエスカポ副所長の家族の家ですが。王女ご自身が出向いてこられるとは、何用ですかな?」
「少年を診るためぞ。ああ……やはり神呪だな」
寝込む少年の首元に、裏返しの古代文字が焼きつけられているのを見つけた。王女が裏文字を解読しようと顔を寄せると、隣の部屋から駆けこんできた青年が「触るな!」と叫んで王女を突き飛ばす。病気の少年の兄だというその青年を、ニルや警護官が捕えようと動いたのを、王女は止めた。
「わらわは治癒に来たのだ。邪魔するでないわ」
「嘘だ! おまえはセブ派じゃないか」
王女ではなく、セブ派クロテミス人が警戒されているのだとわかり、グランセは眉をひそめる。そこへジャンスがうさんくさい笑みで顔を突っ込んできたが、助け船を出すかと思いきや、王女を試すような目を向けてきた。
「あからさまですなぁ殿下? とくに理由もなく治していただけるわけではございますまい。見返りに、我々の支持でもお望みで?」
ジャンスをつと一瞥し、欲しいな、と王女は肯定した。
「ジャンス会長。そなたにはそれだけの影響力があるとか。しかし、今回見返りに求めるのは別のものだ」
ふしぎそうな顔をしたジャンスに、エスカポが捕えられたときの話をした。あきらかに誰かに騙されて送り込まれたふしのあること。黒幕を探しているのだと説明すると、ジャンスもいささか興味を持ったようだった。
横で話を聞いていた青年が、「わかりきったことじゃないか」と吐き捨てる。
「そんなもの、セブ派のやつらに決まっている!」
「なぜ。このような攻撃を受ける心当たりがあるのか」
そこで青年はうぐっと黙ると、気まずそうに目を逸らす。ジャンスがクスクス笑いながら、ベッドのそばに立った。
「それでは殿下。まずは治癒を成功させてくださいませ。情報はそのあとで」
恭しくうながされ、王女は寝込む少年に顔を寄せる。裏文字を解読し、その記述を読みあげた。吐息を吹きかけるようにして唱えることで、逃げるように裏文字の痣が消えていく。これは高位の至近階級である王女の吐息だからこそ簡単に解呪できたのであって、下位階級の者はなすすべなく見ているしかできない。単純だがタチの悪い呪いであった。
「あとは数日寝ておれば治るだろう」
そう言ってベールを頭から被り直した王女に、ジャンスが近づく。やあすごい、だとか、お見事でございます! と大仰な太鼓持ちを一通りすませてから、ふと小声になった。
「さっき、攻撃を受ける心当たりがあるのかとお尋ねになったでしょう。お恥ずかしい話ですがね、あるんですよ。ついてきてくださいますか?」
そう言って、ジャンスは王女一行を家の外に連れ出した。
居住区の外れに小さな森があり、王女一行はその中へ案内される。舗装されていない小道を奥へ進むと、木々の開けた場所へ出た。そこに広がる花畑を一望した瞬間、王女は息を呑む。一瞬『火岸花』が咲き乱れていると勘違いしたからだ。すぐに盟志ではなく植物の花だと気づいたが、それでもグランセの顔は引きつったままだ。
「ジャンス会長。わらわの見間違いでなくば、これは
名の由来は、真っ赤な花弁の先端がチリチリと尖っている様子が、燃え盛る炎によく似ていることからきている。
「見間違いじゃありませんとも! まさしくここは炎晶華の群生地でございます」
ジャンスは長い両手を広げ、上手に育っておりますでしょう? と笑った。グランセは、ニルの困惑する顔と見つめ合い、またジャンスを見る。
「わかっておるのか? 炎晶華の栽培は、違法ぞ」
「もちろん! ここはね、エスカポ副所長が仲間たちと管理している麻薬畑なのです」
赤い花を一輪摘んだジャンスは、気障な仕草で王女に献上した。
「二年前ね、違法栽培で区警の捜査が入りました。エスカポは賄賂で区警を買収し、違法栽培の罪をセブ派のライバルになすりつけたのです。もちろんこの畑は賄賂で守られ、ほとぼりが冷めたころに無傷で返されたわけさ!」
受け取った花は、手のひらで燃えているみたいだ。炎晶華をながめながら、王女はジャンスの言わんとする内容を頭の中で整理する。要するにエスカポに罪をなすりつけられたセブ派の誰かが、エスカポの息子を病に沈め、神器を盗むよう脅したということだ。だがグランセは、この推論に納得がいかなかった。エスカポの息子に付与された神呪はかなり高度で、一般層の胎世序列では扱えない。セブ派が高位の神吏と繋がっているのか?
思案するグランセに、ジャンスの顔が近づく。
「ねえ殿下、こんな取引はいかが? もしこの麻薬畑を黙認していただけるなら、密売の収益からいくらかお納めいたします。そして我らローゼン派の支持をお約束する」
グランセを見おろす会長の目は、あまりにも鋭く、刃を振りおろす寸前といった風情だ。寒気のする密談の中で、グランセは冷や汗を服の下に隠し、不敵に笑ってみせた。
「邪魔したな。わらわはこれより帰還する。それとこの麻薬畑だが、明日には焼き払われると思え」
手にした炎晶華を、これ見よがしに手放す。ちょうど吹き抜けた風にさらわれた一輪の花は、森の向こうへ消えていった。
王女は背を向けるとき、ジャンスの様子を盗み見た。あてが外れたような彼の無表情は読みにくかったが、おそらくジャンスの白刃からは逃れたはずだ。――そう、ジャンスが密談でやりたかったことは、おそらく王女を買収することではない。
森の外で待っていた馬車に乗りこむと、同乗するニルが後ろ髪を引かれるように密談のことを持ち出した。
「よろしかったのですか。あれしきの不正は日常茶飯事。ローゼン派の支持を買えるなら応じるのも手であったと思われますが」
「ニル。そなたは王宮内での政敵相手には慧眼を発揮するのに、庶民相手ではさっぱりだな。いくらなんでもあの男をなめすぎている」
「……正義感で、断ったのではないと?」
「二つの引っかかりがあった。一つ目は、わらわを麻薬畑に案内したこと。口外するなと釘をさすなら、そもそも教える必要がない。二つ目は、あの強い憎悪の目。区警が買収された話をしたとき、射殺すような目をしおったわ。あれは麻薬畑でうまい汁を吸う輩がする目ではない」
「……つまり、あの男は殿下を試しておられた、ということですか」
「おそらくそうだ。しかし買収に応じなかったくらいで素直にわらわに傾倒してくれるほど、甘い男にも見えぬ。エスカポ副所長の息子を無償で治癒したことを、彼らがどう判断するのか。結果は天紋賛会の日にならねばわからぬ」
天紋賛会でどれだけローゼン派クロテミス人の声援を獲得できるか。これがシュヴァインとの王権争いの正念場となる。
王女を乗せた馬車が細道を抜け、第六主要道路に出たとき。
ちょうど入れ違いで、ネフェルメダがその小道に入った。非番の彼女はいま、首席補佐官としてではなく、姉として走っている。なぜネフェルメダが主人の馬車とすれ違ったことにも気づかないほど切羽詰っていたかというと、今朝がた妹の名を騙る妙な手紙を受け取ったからだ。妹に何かあったのか。嫌な予感を振り払いながら、手紙で指定された肉屋に顔を出す。店主が見知らぬ人間から預かったという手紙を受け取ると、焦った手つきで封を破る。
苛立った彼女の様子は、手紙を読み進めるうちに静まっていくが。代わりに、どんどん青ざめていく。
手紙の内容は、身の毛もよだつものであった――妹の誘拐である。
話し合いの場はおって指示するので、それまで待て。そう結ばれた手紙を、ネフェルメダはしわだらけになるまで握り締めた。
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