1.3

 大階段踊り場の端で、ネフェルメダは使者を問い詰めていた。

「ウトラだ。妹の名だよ。ウトラからの手紙はまだ来ていないのか?」

「申しわけございません。お伝えいただいたお名前の郵便物には細心の注意を払っておりますが、あの、まだ……」

 ネフェルメダの暗い目元に険が走り、ますます凶悪になる。妹のウトラは筆まめで、新しい場所に着いたら必ず手紙をよこすはずだった。それが一週間も遅れている。あのとき喧嘩同然の別れ方をしたとはいえ、それで連絡を絶つような娘ではない。

 苛立つネフェルメダを、階上から神吏が呼ぶ。ウトラの件を再度念入りに使者に頼みこんだあと、ネフェルメダは主人のもとへ駆けつけた。


 午後の陽が差し込む『狂騒の間』で、王女グランセは憤慨していた。部屋の隅にある人型彫刻のバイオリン奏者に凭れていたら、髪がバイオリンに絡みついてしまい、動けなくなったのである。ネフを呼べ! としきりにわめく王女を、数人の若い神吏がしどろもどろになだめすかせていたのだが。

 扉が開き、慌てた様子でネフェルメダが飛び込んできた。至急だと呼びつけられた彼女は、主人に何かあったのかと焦燥感を隠せぬ様子だったのだが。

「遅いぞ、ネフ! 見よ、わらわの髪が絡んでおるのだ、ほどいてたもれ!」

「……冗談でしょう。まさか、こんなくだらない用事で」

「くだらぬだと? その舌、引っこ抜いてやろうぞ」

「ああほら、おとなしくなさい。暴れると御髪が抜けますよ」

 ネフェルメダは、絡んだ髪をバイオリンから丁寧に外してやる。ついでに女官を呼んで髪を梳くよう指示を出すと、ようやく王女はおとなしくなった。

 狂騒の間には、楽器を持つ七人組の彫刻がある。これは眷神ベライヤの盟志、『狂騒楽団』を彫ったものだ。

 奥には『至獄しごくの間』があり、王女は検査のため毎月一度はここに連れてこられる。

 至獄の間の扉が開き、マリオネスト神吏長が顔を出した。王女を見つけるや否や手を伸ばし、梳かしたばかりの髪を鷲掴みにしようとしたので、さほど広くない狂騒の間は王女の悲鳴とネフェルメダの「おやめください、神吏長!」という怒号で騒然となる。

 マリオネストの手から逃れ、グランセは半泣きでネフェルメダの後ろへ退避した。

 神吏長は心外といったふうに首をかしげる。

「どうされた、殿下。準備が済みましたゆえ、中へどうぞ」

「口で言えばよかろう! そなたは乱暴すぎるのだ!」

 苛々しながら王女は至極の間に入った。

 至獄の間は、十メートル四方の広い部屋だ。奥に青い祭火があるのみで、かなり薄暗い。しかし中央の通路を歩いていく王女の足取りは慣れたものだ。通路で区切られた左右は深い人工池になっているため、構造を知らないと足を滑らせて水びたしになる。

 通路の奥には、天井から鎖で吊るされた石板がある。ブランコに乗る要領でグランセは石板に座った。神吏が、王女の足の裏が地面から浮いているのを確認すると、後ろに向かって合図を送る。

 マリオネストが通路上で膝をつき、「検査を執行いたします」と宣言した。すると、どこかで装置がガラガラ動く音がする。やがて左右の人工池が騒がしくなってきた。

 左の池では、白い魚がわらわらと餌にたかるような動きを見せている。右の池は逆に、黒い魚が数匹ほど姿を見せただけだ。神吏長は満足そうにうなずいた。

「至獄の秤にかけた結果、殿下の『比重』は問題ないでしょう。詳しい数値が出るのは今晩となりますので、のちほどご確認をお願いします」

 王女が了承すると、至獄の間からの退室許可が出る。

 外で待っていたネフェルメダに問題ないと告げたあと、グランセは彫像に寄りかかった。

「殿下……また御髪が絡まりますよ」

「絡まぬわ。しかし毎度、比重の検査は面倒なこと。あんな装置で何がわかる?」

「文字通り、比重がわかるのです。もちろん殿下もご存じのことですが、我々人間は生きているだけで大気中の『至素』が身体を通過している。この至素は、胎内世界を守る『至素帯』という膜を形成しておりますね、ご存じのように。至素帯が破損すると、胎外の有害物質が染み込んでくるようになる。そうなれば、かつて獄災と呼ばれていた天災がこの時代によみがえるわけです」

「ほう。もちろん知っておるが」

「至素帯が破損する原因には、獄化至素があげられます。これは至素が変化した物質。変化の原因は――ご存じのとおり、人の絶望や罪悪感などの負の感情。至獄の秤は体内環境を調べ、その人がどれだけ獄化至素を作るかを検査します。まったく獄化至素を作らない人はいませんが、規定値を越えて大量発生させる人は至素帯の守りを脅かす存在であるため、適切な処置が施されるのです」

「すべて知っておったが、なるほどなあ。それで我ら王族の検査は細かいのか」

「おや……胎世序列たいせいじょれつのことはご存じで? いえ、全部ご存じとは承知しておりますが」

「もちろん。我ら王族は最上級の至近しきん階級に属し、臣民はその下に位置するのだ」

「……その下、が何かはご興味がないようで」

 あきれ返ったネフェルメダが「ご自身の権威に関わる情報には耳ざとい」とつぶやくも、グランセは気づかず鼻高々に続けた。

「わらわは至近二階ぞ。上には至近一階の国王しかおらぬ」

 はっとネフェルメダが息を呑み、おそるおそる訂正を挟む。

「殿下は、あの、至近三階です。至近二階は第一王位継承者だけなので、いまは……」

 グランセが絶句したとき、間の悪いことに――狂騒の間の扉が開き、シュヴァイン王子一行が姿を現した。兄の眠たげな顔を見るやいなや、グランセは掴みかからん勢いで前に出ようとして、シュヴァインの後ろにいたヨモを驚かせたのみならず。グランセのことを、王子に害をなすくせ者と勘違いしたギルテに剣を向けられそうになり、真っ青になったギルテは元主人に睨まれながら武器を収めるはめになった。

 結果として、彫刻のフルートに髪を絡めとられて前に出そびれた王女は、「ネフ! 髪が絡まったぞ!」と怒鳴り散らして側近をあきれさせる。

 ネフェルメダに髪をほどかせながら、グランセは若干のけぞった姿勢で偉ぶり、シュヴァインに「何しに来たのだ」と凄む。

 シュヴァインは、震える子羊にへばりつかれながら、無気力な目をきょとんとさせた。

「何って……検査に」

 来いと言われたから……と至極まっとうな存在理由を返されて、グランセはぐうの音も出ない。あれが至近二階。自分をさしおいて、栄えある階級に立つだと?

 腹立ちを収められずにいたが、そのとき、横にいたネフェルメダが緊張感でぴりついた。彼女の手にある匿号器が、三点続きの単調な音を鳴らしている。

「これは警報音です。緊急事態を知らせるもので、内容は」

 王宮内に、侵入者あり。

 周囲の警備兵が一様に緊張した面持ちになり、王族をかばって立った。グランセ王女のまわりは、ネフェルメダを筆頭に四人で四方を固めている。対してシュヴァイン王子を守る壁は、八人は下らない。そこに加わるギルテはちらりとも王女を見ることはなく、グランセの胸がチクリと痛んだ。

 扉が慌ただしく開き、神専衛兵長が姿を見せた。三貴神教体系の関連施設や部屋の警護を一任された、神専衛兵団の長である。齢七十は越える老兵だが、かくしゃくと王子の前でひざまずく。

「拝謁いたします、シュヴァイン王子殿下。たった今、無事侵入者を捕縛いたしましたことをご報告させていただきます」

 本来なら王のもとに届けられる報告だが、まだ国王の体調は優れず、執務は第一王位継承者に一任されている。そのため彼はここに駆けこんできたが、肝心の次期王はあいかわらずの眠たげな顔。ゆるくうなずくだけの王子に、神専衛兵長は困ったようだった。

 仕方なくグランセは「ご苦労であった。被害はないか?」と助け船を出す。

「は。人員に被害はございません。ただ、神器が」

「神器が、どうかしたのか」

「一度盗まれましたが、奪還済みです。宝物庫への移送途中を狙われたようでした」

 驚いた王女の後ろで、至獄の間の扉が開く。黒衣のマリオネストがつかつかと神専衛兵長の前まで歩み寄り、神器は無事ですかと威圧的に尋ねた。

「こちらにお持ちいたしました。ご確認ください」

 布で包まれた四角いものを、神専衛兵長が掲げ持つ。布の中から出てきた古い書物を、神吏長は慎重な手つきで拾いあげた。それはまぎれもなく、リュテイス王家に伝わる神器だ。そこへ、神専衛兵長を呼ぶ声が扉の向こうから届く。

「失礼します、衛兵長。侵入者を連れてまいりました」

「よし、入れ」

 神専衛兵に両腕を掴まれながら入室してきたのは、壮年の男だ。何より王女を驚かせたのは、彼が神吏服を着ていたことだ。神専衛兵長が苦々しげに説明する。

「彼はエスカポという人物で、至制監視所の副所長を務めています。どうしてこんなことをしたのか、我々には……」

 エスカポ副所長は、疲れきったようにうなだれていたが、ここが代理王の御前であると理解した途端、らんらんと目を輝かせた。

「おお、王子。シュヴァイン王子殿下。恐れながら申しあげる。殿下、どうかその本を拝借させていただきたい。いえ、ここで中を拝読させていただくだけで充分なのだ」

 なにとぞ、と床に頭をすりつけるエスカポに、グランセは困惑した。何も言わない王子に代わり、尋ねる。

「そなた、なぜそこまでして神器が見たいのだ?」

「息子を救うためでございます。王族の方からすればつまらぬ命と存じあげておりますが、わたしにとって唯一の生きがいです。その書物の記述が、息子の命を救うのでございます」

 言葉をなくしたグランセの横で、シュヴァインが静かに言った。

「いいよ。読めばいい」

 狂喜するエスカポに反して、グランセとマリオネストは渋い顔をシュヴァインに向けた。神器を大事そうに抱えたマリオネストに、本を渡すよう王の代理がうながす。

「本の内容を読むくらい、かまわない。神器が破損するわけでもないでしょ」

「兄上、違うのだ。そういうことでは」

 なおもためらうグランセを無視し、代理の王は神器をマリオネストから受け取ると、そのままエスカポに渡してしまった。エスカポは涙を流して古い革本を開いたが――しばらくページをめくったのち、ふるふると肩を震わせる。

 突如わめき出したエスカポは、神器の本を力任せにシュヴァインへと投げつけた。慌てて神専衛兵が彼を抑えつけるが、怒り狂った父親は暴れ続ける。

「王子、これはなんの冗談か! 我が息子の命がかかっているときに、このようないたずらをしかけるなど……それが次期王のすることか、この外道め!」

 ヨモに支えられながらシュヴァインは姿勢を直す。エスカポを凝視する彼の目は、さすがに眠気が吹き飛んでいた。

 泣き叫ぶエスカポの前に、グランセは膝をつく。

「エスカポ副所長、よく聞くのだ。兄上はそなたをからかってなどおらぬ。我らリュテイス王家が護神より賜った神器は、この本で間違いない」

 幾度か式典で神器を使用したさい、グランセは自ら神器を目にしている。いつも神器に触れるたび、ふしぎに思っていたものだった。

「神器の本は、もとより白紙本なのだ」

 愕然とするエスカポを見つめながら、グランセは勘ぐった。このエスカポという男、誰かに謀られたのではないのか。神器に記述があると吹き込み盗ませようとした黒幕の存在について、じっと考えこんでいたとき。

 視界のはしで、開きっぱなしの白紙本を拾う手が見えた。神器に手を伸ばしたヨモをマリオネストが見咎め、厳しく注意したのだが。驚くべきことに、あの虚弱な子羊が、神吏長のドスの効いた叱責を無視したのだ。まるで何も聞こえていないかのように本を腕に抱え、ぱらぱらと白紙をめくっている。

 しかし、再度叱責を受けると、ヨモは途端に「ごっ、ごめんなさい……!」と飛びあがり、神器をマリオネストに返却した。そして避難場所としてなじみのシュヴァインの背後に逃げこむ。

 グランセは、シュヴァインの頭上からはみ出す子羊の顔をまじまじと見た。

 神器を見おろしていた彼の目。つらつらと規則的に流れる視線だった。……さながら記述を読むかのごとく。

 考えすぎだろうか?

 ふとグランセは、頭を抱えたエスカポを、マリオネスト神吏長をはじめとした神吏たちがぐるりと囲っていることに気がついた。彼らは何かを警戒している。

 エスカポが、目の前に立つマリオネストを見あげた。助けを求めるように手を伸ばし、何か言おうとしたが――ごほっ、と激しく咳き込んだエスカポは、喉を押さえた。口から黒い煙が吐き出される。まるで、喉の奥で何かが燃えたかのような。

 神吏の一人が緊張した声で言う。

「これは、誓約の罰……? 呪いの一種だ。副所長、いったいあなたに何が」

 エスカポは何も言えないまま、喉を押さえてうずくまる。

 横からネフェルメダに手をとられ、王女はエスカポから遠ざけられた。

「さがって、殿下。危険です。彼はいま、すさまじい負の感情にさいなまれている」

 そうした人間が至素帯に及ぼす影響をお忘れか。そう言い含められ、グランセは獄化至素の発生条件を思い出した。

「しかし、一人が作り出す獄化至素などたかが知れているだろうに」

「至素帯への影響力は、胎世序列によって違いがあるのはご存じでしょう。序列が高いほど、高純度の獄化至素を大量に発生させることになる。その差は殿下が考えているより深刻なのです。神吏でもあるエスカポ副所長の盟流階級は、比重が狂ったとき、無視できぬ数値の獄化至素を作り出す。そうなったとき、至素帯を守るため、ある現象が起こると言われています」

 神吏たちは副所長に必死に声かけし、励ましているようだった。このまま負の感情が加速すれば、彼は『汚染者』になってしまう。

 神吏長は、フードの下で冷徹な宣告をくだす。

「副所長に、盟紋の封鎖手術を施す。準備を急げ」

 若い神吏が悲痛な声で応じた。

「そんな……本気ですか、神吏長? もし盟紋を封鎖したら、副所長の盟流階級は閉ざされ、一気に『階外』にまで転落してしまうのですよ? この方に、胎世序列の最下層まで堕ちろというのですか!」

「エスカポの持つ高い胎世序列は、常人とは桁違いの速度で至素を獄化反応させる。我々のように序列の高い者は、もしも精神が負に転じたとき、及ぼす悪影響も膨大であることをよもや知らぬとはいわせん。盟紋を閉じねば、副所長はさらに過酷な――ああ、すでに」

 マリオネストが見つめた先を、その場にいた全員が注視した。

 うずくまったエスカポの背中――盟紋がある場所――が、ぐにゃりとひずんでいく。やがて渦巻く中心に底知れぬ穴が生じるさまを目撃し、ぎょっとなったグランセはネフェルメダの腕にとりすがった。

 これは時空の穴だ。胎外世界にいる神が、一時的にこちらに干渉しようとしている。

 エスカポの様子を見るに、痛みを感じている様子はない。事態を危険視した神吏たちが、王族二人の盾になる位置についた。

 若い神吏がエスカポを落ち着けようとねばっている。

「副所長、どうかお気をたしかに持ってください。比重が乱れています。盟流階級のあなたがこのまま汚染者になると、神々による排除の対象となってしまう」

 ――世の果てに、終末を司る眷神がおわすという。この世に生じた不要なものを消滅させる炉の管理者である。

「エスカポ副所長、『彼』があなたを見つけたら終わりなのですよ!」

 もう遅い、とマリオネストがつぶやく。

 グランセは、穴の向こうに羽音を聞いた。鳥のはばたきがどんどん近づき、やがて穴から飛び出したのは、立派な三対の翼であった。胴体を穴の中に隠したまま、白い翼は優美にはためく。さながらエスカポが翼を生やしたようにも見え、ある種、神秘的な光景であるが。

 神吏の一人が、「終焉の鳥だ」とこぼす。

「彼の盟志だ――そこにおわすのか、アグニマ神」

 打ち震えるように名を呼ぶと、神吏たちが一斉に膝をついた。

 グランセもまた、大気が変化したのを感じる。風だ。神々の世界を流れる風が、ここに吹き込んでいる。たしかにそこには、『終末炉の管理者』アグニマがいる。

 室内に羽根をばらまきながら、白い翼は徐々に閉じていく。茫然とするエスカポの顔を、腕を、足を絡めとると、なだめるように抱きしめた。汚染者を捕えた六枚の翼は、そのまま穴へと帰還しはじめる。翼の中からエスカポのくぐもった声がして、グランセは思わず耳を塞いだ。狭い穴に無理やり引きずりこむため、骨は折れ、皮膚も破れ、内臓を潰されながら、犠牲者は終焉の鳥に連れ去られるのだ。

 血だまりだけを残し、エスカポと一緒に消失した穴のあとを、グランセは見つめた。

「マリオネスト。彼はどこへ行く?」

「胎外世界のどこかに。確実に言えるのは、二度と戻ってはこられないということです」

 終末炉の管理者は――世を破損させる異物を、許しはしない。



 朝食のあと、グランセは王宮四階の図書館へ向かった。ネフェルメダは今日一日王宮を空けているので、グランセは重い本を自ら抱えて『ビブリエの間』に入る。窓際を細長く占めるビブリエの間は、王族専用の読書部屋だ。窓側一面がガラス戸なので、解放感がある造りとなっている。

 薄いカーテンのあいだを通り、バルコニーに出た。チェアセットに腰かけ、本をめくりはじめる。

 一冊目は、歴史の書物。三十二年前の三国戦争について解説している。リュテイス奏朱国が、近隣のアストロペ、リパラ連合国軍と戦ったときの記録だ。

 三国戦争でこの国は負けている。理由は、内部紛争の激化。リュテイス国内で、クロテミス人による民族自決運動が高まり、戦乱に乗じて独立への働きかけが行われたのだ。リュテイス国内を内側からゆさぶるこの絶好の機会を、連合両国は見逃さなかった。

 連合両国の支援を受けて動いたのが、セブ派。

 この支援をはねのけたのが、ローゼン派。

 結局セブ派の暗躍により、リュテイスは敗戦した。そのためリュテイス人にとって、同じクロテミス人でもローゼン派は友であり、セブ派は裏切者である。

 読みふけっていたグランセは、ふと風に頬をなでられ、顔をあげた。手にした歴史書をいったんテーブルに置き、別の本を手にする。もとより王女がめずらしくも読書にふけることになったのは、あることを調べるためだ。

 終焉の鳥に連れていかれた者は、どこへ行くのか?

 至制学の書物を開き、関係ありそうな項目を探してみるも、なかなか見つからない。たまに関心をくすぐる記述があって、それを読みふけるが、目的の情報ではないため意味をなさない。たとえば眷神がその昔、獄卒と呼ばれていたことなどだ。なんでも至素帯の保護膜ができる前は眷神が我がもの顔で地上を闊歩しており、好き勝手に災厄を振りまいていたせいで、ひどい嫌われようであったらしい。そもそも至制学などグランセはまともに学んだこともなく、早くも集中力が落ちてきた。

 獄化至素と至素の度数。両者を比べた数値が比重であり、〇.三が望ましい。計算式も並んでいるが、すでに王女は読む気をなくしている。背もたれに体重を乗せ、大きく伸びをしたグランセだったが、予想外の声を聞きつけて目を丸くした。

「来ないでっ、この人こわいよおおお!」

 情けなく響く声の主は、なんとバルコニーの手すりの向こうから姿を現した。

「何をしておるのだ、そなた! ここは王族専用の間で、そもそも四階ぞ」

 身軽に手すりを越えたヨモは、王女に気づくと両手を伸ばして駆け寄ってきた。ぎょっとするグランセの背後に回りこむと、恐れ多くも第二王女殿下その人を盾にしてしまう。

 手すりの向こうから、もう一人、ヨモを追ってきた男がバルコニーに着地した。老体を老体と思わせぬ神専衛兵長は、王女の後ろで頭一つ以上飛び出ているくせ者を睨みつける。

「きさま、そのお方を誰と心得るか。この軟弱者めが」

「殿下っ、僕を隠して!」

 この状況で、ヨモは無理千万を言い出した。グランセは嫌そうな顔をしたが、すがるように両肩を掴まれ、どきっとする。女官に軽く触られたくらいしか接触の経験がない王女にとって、大きく、骨っぽい指が食い込む感覚は、内心がざわめき立つものだった。猛禽類の爪にしがみつかれたようで、不安や恐怖がないまぜになった気分に陥る。しかし、こんな情けない子羊に怯えを悟られるのは死んでも嫌だった王女は、動揺をおくびにも出さず神専衛兵長に向けて言った。

「ご苦労、衛兵長。あの子羊なら西棟へ逃げていったぞ」

「……しかしながら殿下、後ろに」

「おらぬわ」

 腕を組み、ふんぞりがえった王女の態度を前に、神専衛兵長は負けを認めて頭を振った。バルコニーから室内へ退避しがてら、ふと衛兵長は振り返ると「みだりに殿下にお手を触れるでない」と叱ってから、カーテンの裏に姿を消す。

 ここにいないことになっているヨモが、彼の文言に「はいっ」と素直に返事を返した。頭の弱い子羊である。

 衛兵長が去ってから、王女は背後のヨモに語りかけた。

「して、ヨモよ。わらわが直々にそなたの望みをかなえたぞ。満足したなら手を」

 離せ、という言葉ごと背後から抱きしめられて、グランセは頭が真っ白になった。

「ありがとう、ありがとう殿下……!」

 ヨモの腕は見かけよりしっかりしていて、幹のように固く、びくともしない。王女の抵抗を腕づくでねじ伏せるヨモの抱擁に、グランセは強い感情を覚えた。複雑な衝動に突き動かされるまま、王女は「ええい、離さんか!」と思い切り頭を後ろへ打ちつける。

 狙いどおり頭頂部が顎に入り、ヨモはのけぞって後ろに倒れ込んだ。荒い息を吐きながら、王女はふんっと尊大に腕を組む。

「わらわの言うことを聞かぬからそうなる。よく反省せよ」

「えへへ、ごめんなさあい」

 ヨモはあっさり身を起こすと、少し赤くなった顎をさすりながらへらへら笑った。渾身の一撃がたいして堪えていないように見えて、王女は内心おもしろくない。つんと顔をそらし、チェアセットへ戻って身を落ち着けた。

 ヨモもまた立ちあがると、テーブルを挟んだ対面の椅子に勝手に収まっている。

「……ヨモよ。さっきも言ったが、ここは王族専用の間であるぞ。退室せぬか」

「まぁまぁ、いいじゃない。僕、もっと殿下と話してみたいな」

 そう言ったヨモの笑顔は、やわらかく、純朴にして透明感のある、それはそれは見事なものであった。うららかな日を浴びて伸びをする子羊のようで、追いやるのもしのびなく思えたグランセは、仕方なく不問にすることにした。

 本の山からあえて一番難解な書物を取り出すと、物知り顔でページをめくる。

「殿下、至制学のことを調べていたの? どうして?」

 一瞬迷ったあと、王女は「知識欲だ」と答えた。かっこいい! とキラキラ顔でもてはやされて、すぐに気分がよくなる。

「比重とはなかなか愉快な概念ぞ。望む心が至素を清め、絶望する心が獄化至素を生む。わらわは幾度となく至獄の秤で精神面を調べられてきたが、常によい数値を出す。今回も例外ではなかった」

 マリオネストから伝えられた王女の比重は、またもや〇.二を記録した。理想とされる数値とほぼ変わらない。隠し子シュヴァインの出現や、シャンデリア王による排斥を経験しても、女王になるという野望は無傷で胸に在るのだと勇気づけてくれる。

 ふとヨモを見ると、子羊は生意気にも複雑な表情をしていた。

「殿下は……あの、まだ女王さまになりたいの?」

 聞き方が気に入らず、王女は厳しい目つきでヨモを睨んだ。

「まるで不相応な野望だとでも言いたげだが。ヨモ、なにが言いたい」

「いやっ、そのね、単純に……順番が」

 怒りに任せて王女は椅子を立った。二言三言怒鳴りちらすつもりだったが、あまりにもヨモが、ひどく怯えたため。凶暴な狼に食われる寸前といった様相の子羊を前に、グランセの怒気が情けなく空気漏れしていく。

 力が抜けた王女は、どすっと椅子に座り直す。いまだプルプル震えるヨモを横目で睨み、くだらんと鼻で笑った。

「政治も権威も知らぬくせして口を挟むでないわ。気楽なそなたと違い、わらわは別の次元で物事を考えておる」

 大げさな表現で虚勢を張ったが、王女の頭は常日頃から「女王になる!」という野望以外のことは何も考えていない。だが気を取り直したヨモが余計にも「たとえば何を考えているの? 聞かせて聞かせて」とはしゃぎだし、引っ込みがつかなくなった王女は、苦しまぎれに「至制学の祖について」と答えた。我ながら崇高そうな議題が出てきたな、と内心で自画自賛することも忘れない。

 実際それは、グランセが至制学の本をながめていたとき、眠気と戦う中で浮かんだ疑問であった。至素、獄化至素、比重、至素帯、至獄の秤などといった基礎的な情報はあちらこちらに散在するのに、肝心の、それらを発見発明した者の名がどこにもない。

「わらわは権威が好きだ。そして至制学は、これだけ世に浸透した学問。その創始者ともなれば、その権威は留まるところを知らぬ。名がわかればペットにでも名付けて愛でてやろうものを、肝心の名が残されておらぬのだ。ふしぎよの」

 適当に話していた王女は、ふと視線を感じて顔をあげる。ヨモが、探るようにグランセのことを注視している。ふいに王女は、ヨモが白紙本を読むようなそぶりを見せていたときのことを思い出して、居心地が悪くなった。不可能といわれるアグニマ神の盟志召喚もそうだが、ヨモにはどこか不気味な面がある。

 逆にグランセから猜疑の目を返されて、ふっとヨモは困ったように笑った。

「僕は、むずかしいことを考えるのが苦手だから」

 すべてを煙に巻くヨモの言葉尻に、王女ものっかることにする。

「ヨモよ。そなたも基礎的なことは知っておくとよい。至近階級には遠く及ばずとも、そなたら庶民の胎世序列でも獄化現象は引き起こされる。他人事ではないぞ」

「僕ね、対処法を知っているよ」

 ヨモの予想外の返事に、王女は驚く。

「人の絶望も、罪悪感も、もとは望んだことが原因なんだ。つまり代償なんだよ」

 望むことは恐ろしい。そう言って、ヨモは目元を陰らせる。王女は妙に苛立つものを感じつつ、ヨモの言葉に耳を傾けていたのだが。

「望みを口にしてはいけない。すごく怖いことだから」

「――望みを口にできぬほうが、よほど恐ろしいことではないか!」

 自分でも気づかぬうちに激高し、ヨモがびくっと震える。その後、こう着した二人を解放したのは、王女を訪ねてきた宰相ニルであった。

「いかがいたしましたか? 怒鳴り声を耳にいたしましたが」

「……なんでもないわ。なんの用か」

 グランセはどっと疲れて椅子に沈みこんだ。ヨモはニルに気づくと、ひえっと怯えた悲鳴をあげ、そそくさとビブリエの間を去っていく。ニルもまた王宮内では厳しい方に入る人間なので、精神的に虚弱なヨモは苦手としているのだろう。

 なぜ王族専用の間にヨモがいるのか、ニルの鋭い目はいぶかしんだようだったが、王女への用事を優先して話を進めた。シュヴァインの出生に関する調査はまだ難航していたが、代わりにローゼン派クロテミス人掌握の方法について、何か掴んだらしい。

「先日の神器盗難の犯人を覚えておいでですね」

「エスカポ副所長だな」

「はい。彼の息子が不治の病に侵されているのですが、どうも神呪しんじゅの疑いがございます」

 神呪とは、胎外世界の有害物質にあてられた状態をいう。

「性質によっては、殿下の持つ至近階級のお力で解呪できるかもしれません」

「ふむ。別にかまわぬが。そなた、ローゼン派クロテミス人の掌握について話をしていたのではないのか?」

「さようでございます。殿下、エスカポ副所長は、ローゼン派の有力者なのです」

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