2.2

 カスタータ宮殿の裏手には、長い水路が伸びている。人工水路は毎日たくさんの水をカスタータ山の大滝から受け、王宮の下を通って下町まで運んでいた。

 グランセ王女は、晴れた日にはよく水路を辿って滝つぼまで散歩に行く。水しぶきをたてる滝つぼの中には『涙乞い』バドの彫刻が立っている。眷神バドはもともと貴族で、信頼していた家臣を謀反の罪で処刑したのだが、後々濡れ衣だとわかり、絶望のあまり滝つぼに身を投げたという逸話がある。

 この国では、身分ある者の居住区には、何かしら眷神バドにまつわるものを置く風習があった。眷神バドは民衆にとって、王族貴族に下の者をないがしろにするなと物申すための大事な教科書なのだ。これがないと、統治者は民衆の信用を得られない。

 家臣を失ったバド神は、暗い目で滝つぼを見おろしていた。グランセもまた、彼の目を辿って滝つぼに視線を落とす。轟音の中で、意識がだんだん茫洋としてくる。立場も何もかも投げ捨ててしまいたい気持ちが心の中で溢れそうになったとき。

「――崖の手前で立ち止まれる。それが叡智だ」

 背後からかけられた声を振り返ると、暗青色の長髪をゆらしてお辞儀をするジャンス会長の姿があった。ローゼン派クロテミス人の中心人物と目される有力者である。

「ほう? いまのは引用か」

「さよう。古い政治家の言で、わたしが気に入っている言葉です」

 上品なコートを着こなしたジャンスに、王女は少し遅れて礼を返した。

「ひさしいな。ここで何をしておる」

 王女の口調はそっけなく、ジャンスが苦笑した。

「おやおや? わたしを恨むのはお角違いじゃあございません?」

 それでも王女の中には、天紋賛会のことで苦い感情が沸いてしまうのである。

「わたしはね、ローゼン派の支配者ではないのですよ。あくまで発言力があるというだけ。いくらわたしでも、シュヴァイン陛下に関するうわさ話を遮断する力はございませんし、シュヴァイン陛下を支持すると決めた者を、王女派にひっくり返すこともできません。トランプじゃあるまいし、ね?」

 茶化す物言いをされ、疲れてきた王女は、「用件を話すがよい」と別の話題に差し替える。

「ああ、これです。今日は殿下に、このようなものをお持ちいたしました」

 ジャンスが手にした箱の中には、青い宝石を埋め込んだネックレスが収められていた。少々細工は古いが、その精巧さにグランセは舌を巻く。

「見事な装飾だ。しかし、青はよくない。妹の色だからな。わらわには赤を持ち寄れ」

 つんと横を向く王女に、ははは! とジャンスが軽快に笑った。

「よい性格をしてらっしゃるなあ! まことに失礼いたした、と言いたいところだが、これは殿下に献上するための品ではございません」

「では、何のためか」

「よくご覧を。特徴のある細工です。王妃殿下から何かお聞きしていません?」

 試すように問われたが、王女は首を横に振ることしかできない。

「これはね、クロテミスがまだ国であった時代、地方で栄えたゾラタの街の工芸品です。ゾラタは特にこのような細工品を得意とし、他の追随を許さぬ精巧さを誇った」

 グランセはあらためて箱の中のネックレスをよく見てみた。青い宝石を食らうように蛇が大口を開け、とぐろを巻いている。たしかに蛇の牙は一つ一つ迫力があるし、蛇柄のうろこ筋も生きているようになまめかしい。

 魅入る王女の頭上で、ジャンスが声を低めにして言った。

「実はね、最近この手のゾラタの遺物が大量に闇市場に流れ出したのです。遺物保管所に連絡したが、どこも盗難の被害はない」

「ゾラタ。思い出したぞ。長らく所在がわからぬままの、クロテミスの重要都市の一つだ」

「はい。遺物保管所などで確認されているゾラタの遺物は、過去に買い取った者が所持していたもの。ゾラタ自体から掘り出したものではなかったのですが……」

 盗難品ではないのなら、いま闇市場で流れているものとは。

 王女が顔色を変えると、ジャンスは満足げに笑む。

「お察しの通り。おそらく見つかったんでしょうな。ゾラタの遺跡が」

 もっとも先に見つけたのは盗掘者だったようだが。そう言って頭を掻くジャンスを、王女は見あげた。

「なぜわらわにこの話を持ってきたのだ?」

「殿下なら、急ぎゾラタの保護に動いてくださるとふんでのこと。女王になれなかった分、お暇でしょ?」

「舌を引っこ抜くぞ!」

「まあまあ。ゾラタの位置は盗掘品を洗うことですでに目星はつけてあります。が、わたしのような一般人が個人で行ったところで、なんの威力もございません」

「わかっておるわ。わらわに調査団を出せというのだろう」

 やぶさかではない、という態度をとった王女に、ジャンスがぐいと上体を近づけた。

「ねえ殿下? もう一つお願いが」

「……なんだ。離れて物申せ」

「わたしを調査団に加えていただきたい」

 なぜだと問うグランセに、ジャンスは驚くべき回答を渡す――エスカポ副所長を嵌めた黒幕を追うため、と。

「まだ憶測の憶測ってところですがね。最近密告が入りました。エスカポが神器盗難騒ぎを起こす三日前のことです。エスカポが手がける麻薬取引があって、運び屋が麻薬を受け取りに来たんです。でもね、ふしぎなことに運び屋が空の荷車をかついで帰ろうとしていたので、エスカポの仲間――今回の密告者なんですが、こいつが運び屋に声をかけたんですね。するとエスカポの家に先客がいて、自分たちは追い払われたと。その直後、真っ青になったエスカポが医者を掻き集めていたので、何事かと見に行ったら、息子が原因不明の病で寝込んでいたというわけです」

「つまり麻薬の運び屋は……エスカポの家で見たということか」

 エスカポの息子に病を感染させ、人質にして神器を盗ませようとした黒幕を。

「おそらくはね。そして先日、麻薬の運び屋とゾラタの盗掘集団が同じ輩じゃないかとの情報が入りまして」

 盗掘集団を追えば、麻薬の運び屋に行きつく。そしてエスカポのもとを訪れた人物の顔を見ていれば、黒幕がわかる。おそらくそれは、神器をすり替えた者でもあるのだ。ネフェルメダの件で忘れていたが、国家存亡に関わるこの難題があったことを王女はこの場で思い出させられた。

「よかろう。そなたの同行を許す」

 ジャンスは、金縁眼鏡から伸びる鎖を鳴らしながら優雅に一礼した。

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