革命の申し子
1.1
朝霧に霞む山々の峰は、陽に照らし出され、明瞭な頂きを露わにしつつあった。中でもひときわ目立つ中央の小高い山の山頂近くには、『巨人の口』と呼ばれる大きな崖がある。その崖はスダジイの群生地に隠されているため、登頂してきた者たちはよくそこで足を滑らせるという。
この日もまた、運の悪い登山者が『巨人の口』に食われそうになったが、結果として彼女は無事だった。登山慣れした同行者が命綱を仕込んでおいたため、崖にぶらさがった彼女を引きあげることができたのだ。
助けられた女はシイの幹に背中を預け、苦悶の表情を見せている。滑落したとき、岩にぶつけて左足を痛めたせいだ。すかさず同行者が傷の手当をしようとしたが、怪我人はその手を押し返す。
「よしなさい、殿下。お手が汚れる」
すると王女は、こましゃくれた仕草で小さな鼻をつんとあげてみせた。
「ネフ、ネフェルメダよ。補佐官の分際でこの偉大なる第一王女グランセに物申すつもりか? その舌引っこ抜いてやろうぞ」
王女のわりには、その身なりは小汚い。山登りにおける機能性のためと、いらぬ野盗の目を引かないため、高貴な身の上を薄汚れた庶民服で隠しているつもりだ。だが甘く香るようなマーマレードブラウンの髪は朝陽の中で艶やかに輝き、高慢ちきな言葉と一緒にきらめく快活なまなこは、王宮育ちならではの華があり、ごまかしきれていなかった。
「舌でもなんでも引っこ抜けばよろしい。とにかく、その手をどけて」
そう言われても王女は意に介することなく、傷口の洗浄、消毒、止血と手際よくこなし、ぴしっと包帯を巻き終えてから尊大な腕組みをしてみせた。
「そなたの舌などいらぬわ。見よ! わらわの手当は完璧ぞ」
満足げに臣下を見下してくる主人に、ネフェルメダ首席補佐官はため息を返す。ネフェルメダは、猜疑心に満ちた三白眼の目が印象的な女である。
「グランセ殿下……臣下を助けるために主人が崖を這うなど、本来ならありえないのですよ。助けられた身で言うことじゃないが、そのご判断は間違っておられる」
「いや、わらわではない。間違っておるのは母上だ」
言ってしまってから、グランセは慌てて口を押える。なんの前触れもなく王妃のことを持ち出され、意表を突かれたネフェルメダが質問を返そうとしたが、その前に王女は荷物をかたづけて立ちあがった。
「見よ、ネフ。目的地はもう近いのだ。さっさと立つがよい」
王女が指し示すほうには、古い山小屋があった。怪我人に肩を貸しながら、グランセは不規則に広がるスダジイの葉や枝を避けつつ小屋まで直行する。たてつけの悪い木戸を力任せにこじ開けた王女は、中に入るやいなや盛大なくしゃみをした。ネフェルメダが、窓際の机に腰を預けつつ、苦笑する。
「王妃殿下が亡くなられてから、誰も出入りしていませんからね。埃がすごい」
「まあ、よい。それより見よ、こんなに手紙や本が残っておる」
壁際の本棚を物色しながら、グランセは感心のため息をついた。
「そうでしょうね。登山趣味をお持ちだった王妃殿下は、あちこちの山荘に私物を残しておいでです。これじゃあ何年たっても遺品整理が終わりませんよ」
「母上の遺品はわらわが整理するから、よい」
手紙の束を机に広げ、差出人や受取人を確認していく。生前、王妃がグランセ宛にしたためたらしき一通が目に留まった。封はしたが、投函するまでにはいたらなかったのであろう手紙の封を、グランセの手は迷いなく開く。
床に荷物を置いたネフェルメダが、ぶるっと身震いした。
「しかし、冷えますな……ああ、暖炉がある」
暖炉の前で屈んだネフェルメダは、そばに積まれた薪を放り込み、火を入れている。ほどなくして室内には、あたたかさと、古い埃が焼けるような独特の香りが満ちた。
手紙を黙読するグランセの眉間に、しわが寄っている。ネフェルメダがいぶかしげな目を向けると、彼女から隠すかのように――手紙を暖炉に投げ入れてしまった。
「何をなさっておいでです」
答えない王女に、臣下は苛立ちをあらわにして詰め寄った。
「申しあげます、殿下。首席補佐官であるわたしに情報を隠すな。絶対に」
「……わかった、次から気をつける」
うるさげに手を振り、ネフェルメダから逃げると、グランセは手早く手紙類を包んで荷物にくくりつけた。
「もう出るぞ。夜になったら下山がむずかしくなる」
不満そうな臣下を連れて戸を開けた王女だったが、すぐに足を止めるはめになった。
小屋の前に、異様な光景が広がっている。火花を散らす炎の花が、小さな建屋を囲むようにして一面に咲き乱れていたのだ。
ネフェルメダが慌ててグランセの前に出る。
「火の花――『
もちろん自然に咲く花ではない。神々の世界に根づくこれらの花を、召喚術によってここに呼んだ者がいる。
「近くにくせ者がいます。ご用心ください」
「しかし、悠長にもしていられぬぞ。『火岸花』の火の粉が小屋に燃え移りそうになっておる」
荷物を置いた王女は、ふところから懐中時計のようなものを取り出した。
グランセの意図に気づいたネフェルメダは、難色を示した。
「ここで盟志を召喚なさるおつもりですか。殿下は今朝、すでに一体の盟志を召喚しています。盟志の召喚時には、大量の召喚性獄素が術者に降りかかる。お忘れですか? 術者が一日のうちに浴びても平気な召喚性獄素の量は、決まっているのですよ。この
「ほう。では焼け死ぬほうがよいか?」
グランセは、文字盤の針で約承、三式、六番、と三つの文字を示したあと、背中を気にしながら膝をついた。背中には
グランセがつらそうに顔を伏せたとき、それは生まれた。彼女の背中から、白銀に光る盟志が狭そうに這い出してくる。それは豊かな翼を広げ、何度かはばたいたあと、白銀の鷹『氷雨の鷹』はグランセの後ろから瞬時に飛び立った。
大きな翼は冷たい雨を降らせ、あっという間に火の花を鎮火していく。すべての火花が消えると、大量の蒸気の中で白銀の鷹は静かに消滅した。
蒸気が真っ白くたちこめる中、ネフェルメダは疲労したグランセのそばに膝をつく。王女を気遣いつつ、彼女は厳しい目で蒸気の奥を睨みつけていた。
火事は防ぐことができたが、今度は召喚者本人が姿を現した。布で顔形を隠した細身の女が、唯一見える目元を愉悦に染めた。
「これはこれは、まさか『氷雨の鷹』を披露していただけるとは。やはり王家の者で間違いなさそうだね」
ネフェルメダは舌打ちする。
荒い息を吐いていたグランセが、怪訝そうに言った。
「なぜ王女だとばれたのだ? この通り、ちゃんと粗末で粗悪な庶民服を着ておるというのに。わらわの変装は完璧であるはずだ」
「推測できる理由は二つあります。一つ目はその傲岸さ。二つ目は、『氷雨の鷹』という王家の者しか召喚できない盟志を呼んだこと」
「ふむ。二つ目だな。わらわとしたことが、うかつであった」
尊大にうなずいた王女に、賊が刃の先を向けた。
「盟志召喚はご立派なものだが、体術はどうかな? わたしなら、おまえが二体目の盟志を召喚し終わる前にその首根っこ捕まえられるよ」
賊の言うとおり、単純な接近戦となると王女の召喚術は役に立たない。そもそもグランセの獄耐値はすでに限界近く、実は二体目の盟志など呼べない状態なのだ。ネフェルメダが戦闘用の盟志を呼べればよかったが、彼女はある事情により盟紋封鎖手術を受けているため、盟志召喚ができない。
苦渋の表情になったネフェルメダが、グランセの耳元に作戦を吹き込む――自分が囮となって時間を稼ぐから、その隙に逃げるように――しかし王女は眉間に見事な縦じわを作ると、ならぬわ! と一蹴してしまった。
――グランセが補佐官の囮作戦を一蹴した、まさにそのとき。わずか数秒間のことだった。
圧倒的有利な立場にいた賊が、突如として地面から突き出た植物の束に身を拘束され、そのまま何十本もの枝や幹に飲みこまれてしまったのだ。
まるで蛇のように柔軟に動く植物は、賊を捕えたあと、打って変わって植物らしく沈黙した。賊は手だけしか見えず、ぴくりとも動かない。
ネフェルメダがつぶやいた。
「植物の盟志『狂園の遊戯』か。たぶんあいつのしわざだね」
賊を食べた植物の束の後ろから、二人が予想していた通りの人物が姿を見せた。鍛え抜かれた四肢をきびきびと動かし、頑健な印象を与える武人。名をサイデン=ギルテ。王女付きの警護官である。
へたりこむ王女の前で、ギルテ警護官は片膝をつき、頭をさげた。
「ご無事で何よりです。殿下」
「うむ……助力ご苦労であった、ギルテ」
応じつつ、グランセは狂える植物に締めあげられた賊をちらりと見る。
「ところで、あれは生きておるのか」
「生かしておく必要がおありでしょうか」
ギルテは総じてやりすぎるきらいがある。そのため今回は彼に内緒で遺品整理の登山に出発したのだが、お見通しだったようで、しっかり居場所を把握されていたらしい。
「怒っておるか。その、黙って王宮を出たこと」
「いいえ?」
そう言うギルテの生真面目な顔つきは、本当に気にしていなさそうだった。王女の奔放さなど簡単に支配できるがゆえの余裕か、はたまた王女の自由意志を尊重するふところの深さか。そこそこ長い付き合いだが、どちらが正解かまだよくわからない。
「王妃殿下の遺品は見つかりましたか」
何気ない問いかけに、グランセは内心でぎくりとさせられた。暖炉で燃やした手紙の中にあった一文が、ふいに脳裏によみがえったからだ。……『滑落する者をその都度助けに降りる者は、永劫頂上には辿り着けぬのです』という、王妃の文章。思い出すのは、一度も振り返らなかった母の背中。
山登りを趣味とした王妃は、ほとんど王宮にいない人であった。幼少のころ、さみしさのあまり無理を言ってついて行ったグランセは、不慣れな山道で滑落事故を起こした。
あの日。滑落したグランセを決して振り返らなかった母の背中が、目に焼きついている。
ここへ来る前、滑落した部下に、助けるのは間違っていると批判されたとき、思わず反論したことを思い出した。間違っているのは自分ではない。
わらわは、あなたのようにはならぬ。
王女の代わりに、ネフェルメダが彼の質問に首肯したあと、逆に質問した。
「それで、ギルテ警護官。あんたが出てきたのは、賊の始末のためだけかい?」
「いや、さっき使いが来た」
ギルテはあらためてグランセの足元に膝をついた。
「急ぎお戻りください。ヘルバタさまがお見えになられるとのことです」
おや、と王女は首をかしげる。
「彼の来訪は来週だったはずだが」
王女の横でネフェルメダが「こざかしい領主め」と毒づいた。
「要は、不意打ちに来るってことだよ。継承権第一位の殿下には、こうした政治がついてまわる」
「おお……たしかに面談はまだだと油断しておったが。大丈夫だろうか」
「返り討ちにしておやりなさい」
そう切り返したネフェルメダは、クマの滲む三白眼に薄暗い笑みを浮かべた。
※
リュテイス奏朱国の王都の北には、古くから国の象徴とされてきた霊峰、カスタータ山がある。そのふもとには、初代国王が建てたカスタータ王宮がどんと居を構える。この王宮は背後のカスタータ山の大滝から流れる川をまたいで建造されており、市街地から見るとまるで滝つぼに宮殿が建っているかのように見えることから、『滝つぼの花』との異称を持つ、歴史的建造物であった。
昼さがりの王宮一階、西の中庭は、ひと気がなく静かだった。庭の中央では大樹がどっしりと根を張り、その下で噴水がサラサラと音をたてている。二人の人物が噴水のふちに並んで腰かけ、ひそやかに話をしていた。
紫生地にひかえめな青糸模様をちりばめたドレスをまとうのは、リュテイス王家の第一王女グランセ。ゆるく結いあげたマーマレードブラウンの髪をゆらし、王女は同席する人物に軽く頭をさげた。
「これはこれは、ヘルバタ領主。わらわはいたく感服した」
「恐れ入ります。隣国アストロペは昨年、三度の遠征で軍事費用がかさんだことは事実です。ゆえに紛争事には腰が重いとにらんだ上での旧街道の奪還作戦という殿下の案、なかなかおもしろく、軍部の戦略家が言い出してもおかしくない」
「さて、どうか。三度の遠征費用を細かく算出し、なおかつアストロペ国が旧街道の守備戦でこうむる損害とを照らし合わせ、作戦の有効性を否定したそなたの話、実に興味深かった。わらわは算用は苦手なのでな……しかし、不安なものよ」
枯れ葉を手持ちぶさたにいじりつつ、グランセは小さく言った。
「わらわはまだ不勉強だと痛み入る。こんなことで次の女王が務まるのか」
「まあ、そのようなことを……お会いするたび、磨きのかかった殿下の知略をお楽しみさせていただいております。我々は殿下を支持しておりますゆえ」
ヘルバタ領主の後押しに、グランセはひかえめな笑みを返す。
そこへ静かに差し挟まれたのは、ネフェルメダ首席補佐官の「お時間でございます」という知らせであった。会談を終えたヘルバタは、満足げにグランセに頭をさげたあと、使いの者に案内されて中庭を去る。
彼の背中が見えなくなるころには、王女は仁王立ちでふんぞりがえっていた。
「わらわに女王が務まるか? 愚問だ。次の王座に座るのはわらわ以外におらぬわ」
あきれ顔のネフェルメダが、シッと口元に指をあてる。
「おっしゃる通りですがね、もう少しお声をさげていただきたい。どこで誰が聞いているか知れませんから」
「ネフ、会談におけるわらわの返答を評価せよ」
「おおむねよろしいです。ヘルバタ領主は謙虚を美徳とするシスユ地方の出身、勤勉もまた愛される方なので、不勉強だと自省を示す単語は効果的でした」
にかっと王女らしからぬ笑みを満面に浮かべ、グランセは機嫌よさげに頭上を仰いだ。その小さな鼻先を、ポツンと一滴のしずくが濡らす。
「雨か」
のんきに手をかざした王女は、中庭を囲う側廊の屋根彫刻を見渡した。そこにはさまざまな姿形をした眷神が居並び、中庭を見おろしている。この造りは三貴神教体系の王宮ではなじみのある、『プラセンタの懐胎』を彫ったものだった。
神託によれば、世界球は
昔はこの世が世界球だと思われていたようだが、現在は修正されている。悠神アプサラシアの配下に『懐胎神』プラセンタがおり、この眷神の胎内世界こそが――この世であるそうだ。つまり自分たちはプラセンタの母胎の中にいて、胎外には神々の領域がある。それら全体を世界球という。
グランセはいま、小雨でざわめく中庭に立っている。この中庭はいわばプラセンタの胎を模しており、ここをぐるりと囲んで配置された眷神たちの彫刻とは、プラセンタの胎内世界を外から興味深げに覗きこむ神々の様子なのだ。
居並ぶ眷神を挑発するように見渡していた王女を、慌てた様子のネフェルメダが側廊の下に押し込む。ハンカチでドレスについた水滴を払われながら、グランセは「紅茶が飲みたい」とこぼした。
「ご用意させましょう。ですがヒュリオ紅茶以外です」
「なぜだ? ちょうど飲みたい気分だぞ」
「このあと面談予定のレイ隊長ですが、彼はアラシュ市の次期市長と目されております。このアラシュ市は近年、資源をめぐってヒュリオ市との軋轢を深めている」
「なるほど、わらわがヒュリオ名産の紅茶の香りをさせてはまずいのだな」
「はい。王家がヒュリオ市に肩入れしているという、いらぬ疑念を買いかねません」
そう言ったネフェルメダ首席補佐官を、グランセはあらためて観察した。味気ない官服ばかり着ている長身痩躯の背中は猫背ぎみで、艶のない黒髪を適当に流している。影のある三白眼は鋭く、猜疑心に満ちた隙のなさがうかがえるが、その奥に秘めた知性の泉の潤いをグランセ王女は幼いころから知っている。
ふと後ろから遠慮がちに声をかけられて、グランセは振り返った。見習いの少年警護官が、少し離れたところからおずおずと目線をよこす。
「あの……失礼いたします、王女殿下、首席補佐官。その、首席補佐官の方への伝言を承っておりますが」
いわく、ネフェルメダの妹が訪ねてきているらしい。
いぶかしげな顔をしたネフェルメダは、グランセに「しばし席を外します」と告げたあと、少年警護官と一緒に廊下を去っていった。
小雨のやわらかな音が、中庭に降り注いでいる。
噴水の音が雨粒と共鳴するその奥で、樹齢五百年の大木はじっと佇む。それは王宮が建つ前から存在し、歴代王族の権威の象徴にもたとえられる、不可触の大樹だ。立派な枝を視線でなぞりながら、グランセはささやいた。
「ギルテ。おるか」
「ここに」
すかさず回廊の奥から姿を現したギルテ警護官は、王女の横に膝をつく。
グランセが大樹に向けるまなざしは、鬱蒼とした暗いものだ。
「そなた、父上のご意向をどう推測する?」
突然問われた内容に、ギルテは多少の動揺を見せた。
「わらわが最後に父上と話をしたのは、およそ四年前。……国王陛下は、本当にわらわを次期王座につける気があると思うか」
「……もちろんでございます。殿下とお話しする機会がないのは、国王陛下はかねてより体調を崩されておられるからでしょう」
リュテイス王家の栄華を悠々と誇る大樹はいま、雨と霧のせいで霞んで見える。
「最近思うのだ。父上は、妹を女王にしたいのではないかと」
「まさか、そのようなことは」
ギルテの慰めの言葉を振り切って、王女はキッと臣下を見据える。
「わらわに足りないものを教えておくれ」
「突然、いかがされたのです。殿下らしくもない」
戸惑うギルテに、グランセは苦々しく吐き捨てた。王の側近から縁談の話が持ち込まれたことを。
「本当に? ……嫁げというお話ですか。王配を迎えるということではなく」
「父上にとって、王女は他国へ送り込む道具でしかない」
庭に根を張る権力の化身を睨みつけながら、グランセはふんと鼻で笑った。
「ギルテ。わらわの伴侶となるか」
「……あなたがお望みとあらば」
「ふふ。少し楽しくなってきたぞ。そなたが動揺するのはめったに見られぬ」
ほんのり赤くなった頬を隠すようにうつむき、ギルテは「からかわないでいただきたい」と厳しめに反発する。だが隠しきれなかった赤い耳が視界に入ると、グランセは高らかに笑い声をあげた。
気を取り直したように咳払いをしたあと、ギルテは真剣なまなざしで王女に言った。
「さきほどの殿下のご質問にお答えします。殿下に足りないものはございません。たとえ国王陛下のご命令であろうと、どうか屈することなく、殿下は殿下らしくあらせられませ」
はたと笑いを止め、グランセは心地よさそうに口元をゆるめる。
「そなたはわらわに、ああしろこうしろと要求しないな」
「それは、剪定と同じですから」
手入れされた庭先の植木を見つめながら、ギルテはめずらしく自分の家族のことを話す。
「母は、人を剪定する人間です。追い詰められた姉が自殺した日、俺は理解しました。どう枝を切り落としても、人は変わるものではない。俺は、サイデン家の跡継ぎとしてふさわしい枝を持って生まれ、姉はそうではなかった。それだけのことだったのに」
少し気になる言い方だと感じたグランセは、しかし、濡れた植木を睨むギルテのまばたきしない双眸に圧倒され、なにも言えなかった。
「殿下もまた、女王となるべくして生まれてきた。それだけのことでございます」
疑いのない声音でそう言うと、ギルテは王女の手をとった。少し汗ばんだ手の甲に、触れるか触れないかのくちづけを供える。
「大丈夫です。我々の命運は、血が保証してくれる」
※
にぎわう玄関ホールの壁際で、ネフェルメダとその妹は、そこそこ長い時間を無言で向き合っていた。同じように眉間をしかめているが、姉妹の風貌はまるで違う。どこか病人っぽいくたびれ感のある姉に対し、妹のウトラは長い黒髪をぴしっとまとめ、遅れ髪ひとつ落とさない手抜かりのなさがある。
ウトラは、その清潔な見た目に合った明瞭な語調で姉に訴えた。
「いいかげんにあきらめて。姉さんのしていることは無駄なんだよ。どう貢献したって、肝心なところで頼りにしてもらえない。そういう血筋なんだから」
「うるさいな。言ったでしょ、うまくいってる」
「所詮、約束破りの血……エンデム家につきまとう悪評は、どうやったってぬぐえない。だって姉さんが王女殿下付きになる条件、ひどかったじゃない。盟紋の封鎖手術だなんて、罪人と同じ処遇なんだよ? ……わたしが今回もらった仕事の口、姉さんも誘っていいって言ってくれたの。姉さんも王宮なんて針のむしろなんかにいないで、一緒に行こう」
行かない、とネフェルメダは即座に答える。
「わたしはここで、一族の汚名をすすぐ」
「そうやって父さんも家族をかえりみないで王家に仕えて、あっさり死んだじゃない」
じれったそうなウトラの口ぶりに、ネフェルメダの苛立ちが煽られていく。
「ほかにどう生きるというのだ」
物心つく前から家の中に掲げられていた唯一の目標、汚名返上。それに人生を賭ける父の背中を見て育ってきた。
「姉さんは、父さんの病気に感染させられちゃったのよ」
「病気か……母さんは、あんたにそう教えたんだな」
ネフェルメダは苦々しい笑みを口元に浮かべた。思えば自分は、母の手の感触を覚えていない。おそらくそれを知らないのだろう。母は妹だけを守ったのだ。ネフェルメダを父に差し出すことで。
ウトラは何も知らず、澄んだ目で姉を見た。
「もう二人だけの家族なんだよ。それを犠牲にするほど大事なこと?」
「……そこが安全なところなら、あんた一人で行きな。もう姉が必要な年でもあるまいし」
なおも食い下がろうとしたウトラの後ろから、見慣れた伝言係が姿を見せた。その表情が緊張しているのを見て取ったネフェルメダは、事態に備えてウトラに「すまないが、今日はここまでにしてほしい」と告げたあと、伝言係を呼び寄せたが。
「わたしの行く場所が安全だろうが危険だろうが、もう姉さんは興味ないでしょ」
去り際にそう残していったウトラの言葉に胸を抉られて、一瞬集中力が途切れそうになる。だが次に聞かされた伝言係の話によって、妹とのあいだに走った亀裂の音はものの見事に忘れ去られることとなる。
伝言係は周囲をはばかり、小声で言った。
「国王陛下が、倒れられたそうです」
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