1.2
王宮の二階を、中心ホールから西へ、グランセ王女は駆け抜けた。第二衛兵の間、第一衛兵の間、控えの間へと次々抜けていき、広々とした王座の間まで足を止めることなく突き進んだグランセは、そこから右にある王の居室へ飛び込もうとしたところで、近衛兵たちに止められてしまった。
「どかぬか! わらわは第一王女グランセぞ!」
兵の前線で王女の癇癪を受けて立つのは、王の主治医団の中堅にいる医師である。まだ若い男だが、王女のちらつかせる権力に物怖じせず「恐縮ですが、おさがりください」とまったく恐縮していない態度で盾になっている。
いきり立つ王女の肩を、後ろから追いついてきたギルテ警護官がなだめるように軽く押さえた。
「殿下、お留まりください。いまは医師たちに任せたほうがよろしいかと存じます」
「ひと目だけでも父上に拝謁することが、なぜかなわぬか!」
口ごもるギルテの代わりに、王付きの医師が応じる。
「いま殿下に入室していただくと、王のお体に障るおそれがございます。予断を許さぬ状況ゆえ、騒ぎは禁物ですので」
「わらわがうるさいと申すのか? そなた、舌を引っこ抜くぞ!」
「ご随意にどうぞ。しかし王の治療が終わりましたあとにお願いいたします」
深々と頭をさげる医師の前で、王女がぷるぷると肩を震わせたとき。ギルテの後ろから駆け足で現れたネフェルメダが、グランセの腕をぐいと強く引っ張った。
「痛いぞネフ。離さぬか」
「あなたは本当に、もう! ここで医師団ともめている場合ですか」
いきなり説教されたことにグランセはわかりやすい不満を示し、ふてくされた。だがネフェルメダは主人の子どもじみた反抗も意に介さず、顔を近づけて言い含める。
「王の容態など医師団に任せればよろしい。殿下、心してご深慮ください。ついにこのときが来たのですよ」
腑に落ちていない王女の横で、ギルテが瞠目した。
「そうか。殿下、そういうことです。いま、王座は」
――空位。やっと理解が及び、グランセは息を呑む。
沈黙する三人の後ろから、一人の
「――痛い痛い! マリオネスト、首ねっこを掴むでない!」
ギルテに助けられたグランセは、すかさず彼の背後に逃げ込んだ。払われた手をそのままに、ふしぎそうに首をかしげるマリオネストに、ネフェルメダが進言する。
「神吏長。仮にも王女殿下に対し、無体なまねはやめていただきたい」
「案内してさしあげるだけだ」
「ですから案内するにしても、許可なく殿下のお体を掴むことはやめてほしいと、何度申しあげればご理解いただけるのですか。犬猫じゃあるまいし」
このように、マリオネストは昔から少々他人の扱いが雑なきらいがある。王族のグランセに対しても、「祈祷のお時間です」と言いながら力任せに担いで連れて行ったり、「拝霊の日です」と言いながら腕を掴み、転倒してもかまわず引きずっていく彼女は、幼少期のグランセにとってそれはそれは恐ろしい存在だった。
しかし歴代最高と目される実力を持つ神吏長としての名声が、彼女の暴挙をもみ消す要因となってしまっている。
黒いフードの下、薄いくちびるが機械的に告げた。
「グランセ殿下、急ぎ『検問室』までお越しいただきたい」
検問室は、継承者の血統を精査する場所である。そして王に何かあったとき、一時的に王の代行者を決めるときにも使用される場だった。
グランセの胸が、動悸で満ちる。ついに、このときが。
神吏長について中央ホールまで戻ると、東に向かった。図書館を抜けた先に神教の間があり、王女一行にここで待つように言い置いたマリオネストは、さらに奥の部屋に入っていく。ここより先は神吏たちの聖域であり、普段は王族といえどむやみに立ち入れぬ場所だ。
神教の間に置かれた椅子に座ったはいいが、グランセは落ち着かず、そわそわしている。見かねたネフェルメダが紅茶を用意させると、王女の挙動は多少ましになった。だが待つこと二時間が経つころには紅茶の鎮静作用はすっかり失われ、しびれを切らしたグランセは奥の間に続く扉へ勝手に手を伸ばそうとして――ギルテに止められている。
「いつまでわらわを待たせるつもりか! 神吏長、戻れ!」
「どうかお気を鎮めてください。どこの世界に神域に向かって怒鳴る王族がおられますか」
二人が押し問答をしていると、あいだに見知らぬ青年が入り込んできた。いぶかしむグランセに向かって、その青年は恐れ多くも――
「ちょっとそこ、どいてくれるかな?」
という、気安い友人のような物の言い方した。長身を少しかがめるようにして王女を覗きこむ青年は、くしゃくしゃの黒髪で目元が隠れているため、表情がわかりにくい。
「……わらわに言うたのか?」
「そうだよ。僕ら、この先に用事があるから」
グランセ王女。リュテイス奏朱国第一王女。継承権第一位であり、次期女王と目されるグランセに対し、尊敬語を使わない立場の者は現在一人しかおらず、その一人は寝台に臥している。ため口で話しかけられることに慣れていない王女は、彼の不敬さをとっさに理解することができず、茫然としてしまったのだった。
だが青年は、王女の反応をなにか別の意味に取ったらしい。
「あ、あいさつしてないや! えーと、僕はヨモっていうよ。神吏見習いになって、もうすぐ十三年だったかな。それで、あなたはだあれ?」
ひょいっとヨモが手を差し出した。それが握手の意だと知らない王女が首をかしげていると、横からネフェルメダが青年の手を払い落す。
「きさま、殿下に向かってなんという口の利き方をするのか」
首席補佐官に射殺すような目で睨まれただけでなく、警護官から剣を鼻先につきつけられ、ヨモは震えあがった。鋭利な目をしたギルテが、「このお方をどなたと心得る」と低い声でヨモに脅しをかける。
二人の側近に叱られたヨモは、次の瞬間。なんと大粒の涙を流し、情けない嗚咽をこぼしながら室内を右往左往しはじめたのだ。この人たち怖い! と叫んで逃げまどう様子はまさしく三歳児のそれだが、彼の外見年齢はどう見ても十八、九。男性といえば百戦錬磨の狡猾な政治家か、精悍な軍人肌の者と接することの多いグランセにとって、ヨモという青年の生態はまったくの未知であり、奇妙にして異常、もはや不気味であった。
びえええん! と泣きながら壁にすがりついたヨモを、ギルテとネフェルメダもまた、王女と似たような顔で見つめるしかない。
そこへ警備兵が数人なだれこんできた。どうやらヨモを追ってきたらしく、王女の無事を見てとるやいなや「殿下、ご無事でよかった」と安堵の息をつく。
上官のギルテが兵の一人に事情を尋ねるが、返答が要領をえない。いわくヨモは許可証を持って王宮に立ち入ったらしいが、入ると同時に「わー広い! 探検だー」と走り去ってしまい、すったもんだの追走の末、ようやくここで発見したとのことだった。
ギルテは疲れた目でヨモを見ると、さっさと連行しろと兵に命令した。しかし兵は青ざめた顔で首を横にふる。
「連行したいのはやまやまですが、非常にむずかしいのです。とにかくギルテ隊長、一刻も早く殿下を安全な場所にお連れください。あれの近くは危険だ」
そのとき、一人の兵がヨモの隙をつき、捕獲をこころみた。壁にぴたりと張りつき、逃げ場のないヨモは、いかつい兵士の接近に恐れおののき、ぷるぷると震え出す。
「やだ――こないで」
泣きじゃくるヨモは、子羊よりも弱々しい。反面、彼の周辺で――異様な現象が起きていた。空間が、あたかも絵画をつまんで捩じったかのごとく歪んだのだ。通常なら歪むはずのない壁の模様や支柱、窓枠が、少なくともグランセの目にはひしゃげて見えている。
側近らにかばわれながら、グランセはヨモを観察した。おそらくこれは、盟志召喚だ。聞いた話では、呼び出そうとしている種があまりにも強大だと、神々の空間に繋げた穴が不安定になり、この世の事物がありえない歪み方をするという。
だが、あの泣き虫はどこにも盟承斗計を持っていない。盟承斗計なしに盟志を召喚することが可能なのか?
まずはヨモが何を呼び出そうとしているのかを探らなければ。グランセは盟承斗計を取り出すと、眼前の歪んだ景色に文字盤を掲げた。盟承斗計は、三つの針で三貴神と眷神と盟志を示す。文字盤には三重の文字列が並んでおり、まず長針が一番外側の文字列で『約承』を示した。これは三貴神の一柱、約神ナラカに属することを意味している。
続いて中針が『二式』を、短針が『一番』を示したとき、グランセは混乱した。同じく盟承斗計で盟志の種類を調べていたギルテが、何かの間違いか? とつぶやく。
王女の盟承斗計を読んだネフェルメダは、どこか高揚して言った。
「約承の二式。この眷神、あの有名なやつだろう」
グランセは、ヨモをとりまく時空のゆがみに飲み込まれるような錯覚を覚えた。召喚に用いられる盟志にもさまざまな種がいるが、中でも約承二式一番の盟志は知られている――誰もその召喚に成功したことがない、という事実によって。
だが畏ろしきは盟志ではなく、これが仕える眷神のほうだ。彼は終焉。世界球の果てにて、終末炉を管理する者である。
グランセは祈りのように唱えた――「眷神、アグニマ」
彼の管理する終末炉は、万物あらゆるものを消滅させるという。
ヨモの頭上で、ゆがみの中心が黒い穴を開けようとしていた。まだ小さなそこから、ヒラヒラと何かが舞い散る。白い羽根であった。険しい顔のギルテが、グランセを後ろにかばいながら羽根を警戒する。
「聞いたことがあります。アグニマ神の盟志は『終焉の鳥』という名だと。歴代神吏長たちでも無理だったのに、本当に召喚するというのか?」
ネフェルメダが冷淡な表情で言った。
「ギルテ警護官。あいつを処刑する用意をしてほしい。術の暴発も怖いし、殿下のおそばで未知の盟志召喚を成功させても困るからね」
ギルテは一瞬戸惑うが、すぐに覚悟を決めた様子で剣を構えた。
しかし、ヨモの暴走を止めたのはギルテの白刃ではなく。
神教の間に入室してきた、ヨモと似た年代の見知らぬ青年であった。
「およしなさい。ヨモ」
青年の眠たげな顔貌がヨモを一瞥すると、ヨモの周囲に生じていた空間の歪みは、あやされるように安定感を取り戻していく。
「うわああ遅いよシュヴァイン!」
一目散にシュヴァインの背中に身を隠したヨモだったが、その長身はシュヴァインを悠に越えているため、王女たちから丸見えである。片や青年の方はというと、一瞬見せた緊迫感はすでに眠たげなまぶたの下に埋もれたらしく、ヨモの盾は立ったまま眠りこけそうだ。
奇妙な二人組の登場に王女らがあっけに取られていると、奥の扉がようやく開き、マリオネストが顔を見せる。そして神吏長は、驚くべきことに、王女よりも先に眠りかけのシュヴァインを検問室へ案内した。
憤慨したグランセは黙っていられず、のろのろと歩くシュヴァインに追いつき、ほぼ同時に検問室へなだれこむ。
真っ暗な室内に戸惑い、王女の勇み足が止まった。そばで動いた人影が心配そうにグランセの背中に触れ、無事をたしかめる。おそらくギルテであろう。ネフェルメダは王女の横に張りつき、大丈夫ですかとうかがった。
「わらわは大事ない。これが検問室というやつなのか?」
「わたしもよくは知りません。神吏以外は入室を禁じられておりますゆえ」
頭上で鎖が動く音がした。すると上から光が差し込む。見あげると、丸天井の中心で、天窓が開いていた。まさにいま、仕掛けで開いたようだ。天窓の周りには初代リュテイス国王やその実弟、側近などが描かれている。史実の通り、実弟を殺して生贄とし、代わりに神を乞う様子が記録されたものだ。初代国王がひれ伏す先にある天窓は『
部屋の中央に丸く落ちた陽ざしの中で、神吏長がグランセを呼び寄せた。
「ここに立たれよ。神鈴が鳴れば、検問がはじまります」
丸い陽光をとり囲むようにして、床設置型の鈴が等間隔に並べられている。鈴を蹴らぬよう用心しながら足を踏み入れた。
横にシュヴァインも並んだことで、王女は不満をあらわにする。
「そなた、ここで何をしておる」
「……立てと言われたから」
眠そうに応じたシュヴァインはグランセのほうを見もしないので、不快感はますます強くなった。しかしグランセは、ひとりでに鳴った神鈴の音に驚き、不機嫌さを忘れた。となりの神鈴がリン、と鳴ると、そのまたとなりも音を鳴らす。なにかがゆっくりと円のまわりを歩いているようで、王女は若干寒気を覚えた。
マリオネスト神吏長が、陽ざしの中心でひときわ大きい鈴を鳴らす。すると、差し込む天窓の光が生き物のようにうごめきはじめた。円形なのは変わらないが、何も影になるものがない場所に勝手に影ができる。天窓の光は、あたかも影絵のごとく、床上で光の図柄へと変容していったのだ。
「ご覧になられよ、殿下。これが
マリオネストに説明を受け、王女はまじまじと足元を観察する。複雑な線模様と、意味のわからぬ古代文字が円盤のように並ぶ一部に、マリオネストが杖の先をトンと乗せた。
「こちらが王統の至柱、いわゆる王位継承者を示したもの。こたび、国王陛下の大事にあたり、第一王位継承者の方に王の代理を務めていただくため、こうして護神のお導きによる血統の確認をする所存にございます」
中央に、大文字で刻まれたもの。これが現国王の名であるという。その下に並んだ三つの名が、王位継承者。継承順位の高さに応じて並ぶという。……三つ? 引っかかったグランセは、紋から顔をあげた。
「神吏長。わらわの妹は一人ぞ。継承者は二人だ」
「こちらがグランセ殿下のお名前にございます」
問いには答えず、マリオネストは上から二番目の文字列を杖で示した。
次にマリオネストは、円の中央を軽く杖で叩いた。すると継承者の名が強めの光を帯び、やがて一番上にあった名が、ふしぎなことに、床から剥がれて宙に浮く。それは何者かに導かれ、現国王の名前の真上でぴたりと止まった。
「これが護神による代理者の指名。いまはまだ名が浮いておりますが、正式に王となったあかつきには名も入れ替わります」
「ちょっと、待て。そなた、わらわの名はこれだと言うたな。まだここに残っておる」
「はい。継承権第一位はグランセ殿下ではなく、シュヴァイン殿下ですから」
――シュヴァイン『殿下』、だと。
身を乗り出し、大天紋を凝視していたギルテが、鈍重な声で言った。
隠し子だ、と。
そして横にいたネフェルメダを、厳しい目で射抜く。
「首席補佐官があの存在に気づかなかったことは、失態だぞ」
ネフェルメダも大天紋を見つめているが、まばたき一つしないその顔は、蒼白だ。
グランセは、トンと腑に落ちた。国王がグランセに妙に冷たかった理由。父は、王座を継ぐのがグランセではないことを知っていたからだ。
マリオネストはシュヴァインの手を無遠慮に掴むと、ぐいっと引っ張った。彼女お得意の雑な扱いに対し、シュヴァインは抗うことなくヨロヨロ歩き、大天紋の中心に立たされる。
神吏の一人が、黄金の大皿を持ってきた。神吏長はそれをシュヴァインの前に掲げて持つと、「血をここに」と指示する。神吏からシュヴァインに宝飾刀が渡されると、王子はなんの迷いもなく手の端を切って大皿に血を落とした。すると皿の中で血がうごめき、血の模様がひとりでに描かれる。
「これは受け皿。数日待つことで、護神がここに『神器』をお与えくださいます」
神吏長の説明を後ろで聞いていたグランセは、神器、という単語に息を止めた。それはリュテイス王家の至宝であり、継承の儀に不可欠なものである。それを、あの男の血で呼び出すというのか。グランセではなく。
つと伏目がちなシュヴァインが、誰ともなく尋ねた。
「ここは王宮なの?」
さよう、とマリオネストが応じる。
「殿下はたったいま、王の代理となることが決定した」
「ふうん……わかった」
シュヴァインは気もそぞろに答える。グランセが、物心つく前からずっと待ち焦がれてきた王の代理者という晴れ舞台を、突如現れた兄はなんの気なしに掠めとっていった。眠りこけそうな目をしながら。
※
蝋燭が並んだ細長い食卓の上に、給仕がディナーの皿を置いていく。レンズ豆と鶏肉の煮込みは、ニンニクの香を含んだ湯気をほかほか立ちのぼらせ、食欲をくすぐろうとしていたが、グランセの手はまだナイフに届いていない。
右隣に座る兄のことが気にかかっていた。そこは上座のすぐ近く――第一王位継承者が座る場所だ。生まれて二十一年と数ヶ月、グランセがそこに座らなかったのはこの日が初めてである。
シュヴァインの斜め向かい、食卓の上座には、国王陛下が坐している。容態が持ち直したとはいえ、王が食堂に姿を現したときグランセはたいそう驚いた。倒れる前の王はグランセと同じ食卓についたことはない。王が夕食をともにとるのは、シュヴァインがいるからだ。
グランセはナイフとフォークを手にとると、噛み締めたくちびるを隠すかのように食べ物を口元に運ぶ。まともに味がわからぬ中、ふと廊下の騒がしさに気づいて顔をあげた王女は、ノックもなしに飛び込んできたヨモに心臓を抜かれそうなほど驚愕した。
「見て見てシュヴァイン! 新しい洋服着せてもらったよ」
「そう。よかったね、似合っているよ」
シュヴァインの言うとおり、見違えるほどこぎれいになった。下位の神吏がよく着る赤い長衣に、黒い腰布を巻いた姿は、ヨモの長身を美しく見せ、長い手足がよく映える。くしゃくしゃだった黒髪も整えられ、羊のように丸く波打つ癖毛がおしゃれに見えなくもない。ヨモは何も悪くないが、王女は勝手に生意気だと感じた。
ヨモを連れ戻そうとした衛兵を、王が止める。大柄な体躯を狭そうに椅子におさめたキャンデラ王は、ヨモを興味深げに見回した。
「これが、シュヴァインが村から連れてきたという側近か? 見たところ神吏見習いのようだが、本当にこれを王座の横に置くつもりなのか」
「はい。幼なじみであり、信頼のおける友です」
王を見ずに答えたシュヴァインの態度に、王はにやっと笑った。
キャンデラ王は自他ともに認める派手好きの男だ。宝石がじゃらじゃらぶらさがる額飾りをはじめ、黄金の首飾り、何重もの金糸刺繍が施されたマントなど、彼の衣装は贅のかぎりが尽くされている。その風貌を揶揄する『ある言葉』が民衆のあいだでよく使われるのだが、よもやこんな席で出るわけが――「もしかして、あなたが『シャンデリア王』なの?」というヨモの無邪気な質問で、グランセはがしゃんとナイフを落とした。
(居眠り中のシュヴァインを除き)王女と、忙しく動いていた給仕ら数人の精神が惨殺された中、ヨモだけが無傷でニコニコと王の正面に立っている。
「ふん。臣民がわしをそう呼んでおるのは知っていたが、直接わしにそれを言ったのはおまえが初めてだな」
ディナーの皿をわきにどけた王は、テーブルに肘をついてヨモを見た。鋭い目をまともに受けながら、ヨモはふわふわと質問を続ける。
「じゃあ、王宮にあるシャンデリアはすべて王さまが設計したというのも本当?」
「さよう」
「同じデザインのシャンデリアを貴族に売った職人が、追放されたのも?」
否、と国王は首を横にふった。
「追放ではない。処刑さ。その貴族ともどもな」
「どうして?」
「聞くまでもないこと。一点物でなければならぬから」
グランセは、ナイフで鶏肉をおさえ、フォークで切りながら二人の会話に聞き耳をたてている。それにしても固い鶏肉で、いくら切っても切れず、ひらすら王女はフォークをギコギコ滑らせ続けた。
「この国は五百年の歴史を持つが、前半の歴史は情けないもので、周辺国に気がねして生き延びる小国であった。だが二百五十年前、グラム王がクロテミス国を滅ぼしたとき、リュテイスは雄々しく生まれ変わったのだ」
王は両腕を鷹のように広げ、頭上のシャンデリアを振り仰ぐ。
「この美しい造形を見よ。まるで王統のようではないかね? 天井との接続部であるフランジはグラム王であり、その下を我々後継がアームとなり、灯を掲げるのだ」
シャンデリアを陶然と見あげる王を見ていて、グランセは思い出したことがある。六歳のとき、誤って二階中央ホールのシャンデリアを破損させてしまったこと。王は怒らなかったが、こう言った――「シャンデリアの中に、おまえのアームはない。だからこの造形の価値に無理解なのも仕方がなかろうて」と。
食卓を、シャンデリアがきらびやかに照らしている。そこにシュヴァインのアームはあるだろう。だがグランセは、そこに加わることを許されなかった。
数十分後。食堂から出てきた王女は、王の同席とヨモのはちゃめちゃな言動ですっかり疲れ切っていた。しかし、廊下で待ちかまえていたネフェルメダ首席補佐官から、さらに疲れる報告を受けることとなる。
「王のご命令です。ギルテ警護官は、シュヴァイン殿下に仕えることになりました」
グランセは、崩れそうになる身体を壁に立てかけた。
「のう、ネフ。もう無理か。わらわが女王になるすべはもうないのだろうか」
「いえ、まだ機会は残されております。即位式の前に、まず『天紋賛会』がある。これは民衆の前で次期王をお披露目する場というのが建前だが、実際は王位継承者たちがどれだけ支持されているかを競う場なのです。ここで民衆の支持を多く得た者は、たとえ継承権が一位でなくとも、護神によって次の王に選出された例がいくつもある」
「だが……どうやって? わらわが圧倒的な支持を稼ぐ方法など、思いつかぬわ」
重い足取りで歩き出した王女に、ネフェルメダが遠慮がちに提案した。
「宰相どのにご相談されてみては? 今朝がた西部議会から戻られたようですし」
ネフェルメダと連れだって王宮三階まであがり、西側の執務室へ向かう。ネフェルメダが王女の来訪を告げると、執務室の扉はすぐ開かれた。王が設計したシャンデリアの下に、大理石の机がどんと置かれ、卓上にはこれまた重そうな書籍の山が築かれている。だがそこに宰相はおらず、横から呼ばれて顔を向けると、彼女はバルコニーに出ているようだった。
「ようこそお越しくださいました、王女殿下」
宰相ニルは、朝顔のグリーンカーテンに囲われたバルコニーで一礼した。ぴしっとまとめた白髪と、引き締まった地味なドレス、そして大きな丸眼鏡が印象的な宰相は、いつも通り冷徹な目でグランセを見る。片足を引きずっており、杖にもたれながら朝顔の手入れをしていたようだ。
「あいかわらず見事な朝顔よの」
色とりどりの朝顔がドレスのような花弁を広げる中、ニルに近づいたグランセは戸惑った。
「つぼみをむしってしまうのか」
「摘心と申します」
無駄な芽に養分をとらせないよう施す処置にございます、と説明したニルは、鋭い切れ目を王女に定めた。
「我が愚息は、殿下にご迷惑をおかけしておりませんか」
「ギルテはよく仕えてくれておる。……先日までの様子しか知らぬが」
「存じております。第一王子殿下のもとへ回されたとのこと」
まったく嘆かわしい、とニルが不快そうに言う。
「いまさら第一王子もなにもありますまい。長年国王陛下にお仕えしてきたのは他でもないグランセ王女だというのに」
王女を擁護するニルの姿勢は、グランセにとって心地のいいものだ。
「わらわは、兄上に対抗することを考えてもよいと思うか」
「もちろんでございます。なかば不意打ちで登場した第一王子といえど、聞けば庶民層の育ちとのこと。宮廷内の政治には不慣れかと存じます」
そこでニルは、ギロリとネフェルメダを睨む。事前に王子の存在を察知できなかったことを批判的なまなざしで責めたあと、宰相は王女に視線を戻した。
「よろしいですか。この国の大半はリュテイス人が占めている。彼らは、二百五十年前に滅ぼしたクロテミス国の末裔であるクロテミス人を警戒しております。現に三国戦争時、セブ派クロテミス人は、リュテイスの苦境を利用して独立を画策し、失敗している。そのときの軋轢により、同じクロテミス人であるローゼン派とも折り合いが悪い」
クロテミス人が多く住む界隈では、派閥間の争いが絶えないという。
「リュテイス人は、リュテイスの血だけしか持たぬ王に、クロテミス人の掌握は無理だと考えています。しかし殿下は、リュテイス人の父とクロテミス人の母をお持ちなので、この点が強みとなります。しかし弱みをあげるとすれば、少数派であるセブ派クロテミス人の流れをくむ血統であられること」
ニルの言わんとするところを察し、王女は発言した。
「つまりわらわに、ローゼン派クロテミス人を掌握せよ、ということか」
「さよう。ローゼン派さえ王女派に引き込んでしまえば、来たる天紋賛会の日、シュヴァイン王子を転覆させることも不可能ではない」
ぞく、と首の後ろがざわめいた。王座奪還の方法が具体的に見えてきたことで、グランセの傷ついた野心にふたたび火が灯る。
「王女殿下、わたくしにお任せを。このニルが、無駄な芽を摘心いたしましょう」
ニルは深々と頭をさげ、宣言してみせた。
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