偉大なる第二王女殿下

神無月香奈

鉄槌

1

 長い夜雨であった。それは木々を濡らし、地面に染み込み、地下牢の石壁にまでしたたり落ちている。地下独房の雨しずくは牢のよどみを吸い、泥水となって床に広がって――収監された生き物の白い羽根をどす黒く汚していた。

 それは一見白い鳥だが、人ひとり軽く越える大きさと、額に細い角を持つ。稀少中の稀少種、一角鳥――聖獣である。

 その純白があえなく泥水と鎖に汚されるさまを、鉄格子ごしに見る目があった。暗闇に沈む中、牢の前で腕組みをした男は、冷徹な声で問う。

「どうして裏切った」

 突き刺されたように、一角鳥はびくっと体を震わせた。

「僕が獄災ごくさいに対抗するため、あの研究にすべてを賭けていたことは知っていただろうに。それを一番近くで見ていたあなたが、あんな裏切り方をするのか」

 牢の奥に溜まった暗闇に隠れんとするかのように、一角鳥は身をちぢこまらせている。男がなおも詰め寄ろうとしたとき、回廊の奥から響く足音が場を仲裁した。長髪をゆらしながら、痩躯の男が目を丸くしつつ牢の前まで駆け寄る。

「アグニマ、いったいどうしたんだよ? あんなにかわいがっていた聖獣を、こんな檻に閉じ込めたりしてさ」

「僕の研究書を盗もうとした」

「そんなの……ただのいたずらなんじゃないのか」

「いや、元飼い主の命令に違いない。僕の研究書を盗んでくるよう言われたんだ。……僕の過ちだ。所詮あのような獄卒に飼われていたペットなのに、信用したのが間違いだった」

「言葉を解さぬ聖獣相手に、そこまで目くじらたてるのかい?」

「用件はなに?」

「……匿号とくごう転送で通話が入ってる。王都にいるおまえの教え子からだ」

 同僚の簡潔な報告を聞き、反応したのは、アグニマではなかった。それまで身を丸くして怯えていた一角鳥が、突如として羽根を広げ、鳴き声をあげたのだ。しかしアグニマはうとましげに背を向けると、ネックレス型の匿号受話器を服から引っ張り出す。同僚から匿号番号を教えてもらい、自らの匿号受話器で通話を繋げると、去っていく同僚を見送りながら通話相手に応じた。

「マリビア、うるさくてすまない」

『お久しぶりです、先生。お返事をうかがいたくてお電話をさせていただきました』

 教え子の明朗な声に、アグニマは目を細める。

『ヒスピア研究所の件ですわ。合同研究の申し入れについて。やはり先生のお考えは変わりませんか』

「変わらない。僕の研究を軍事機関に渡す気はないよ」

『そうですか……そうおっしゃると思いました』

 仕方ありませんね、と応じたマリビアの声はちっとも残念そうではない。どこか浮き立つような軽さが、妙にアグニマの不審感を煽った。

『アグニマ先生、そこに窓はございます? 空を見てほしいの』

 廊下の先にある階段の踊り場まで向かい、格子窓を見あげた。

 曇天の夜空が広がっているが、ふとアグニマは違和感を覚える。すでに陽は沈んで久しいのに、分厚い雨雲に覆われた夜空が、不可解な明るさを帯びていたのだ。夜明けはまだ遠いはずだ。

『ご覧になられているかしら。ついに完成しましたの。獄災型爆弾『太陽の鉄槌』です』

 ぶわっと全身が総毛立つ。

 すぐさま階段を三階まで駆けあがると、自分の研究室に飛び込んだ。積み重なった本の山を崩しながら机まで辿りつくと、鍵つきの引き出しを開け放つ。中に収められていた研究書をパラパラとめくり、絶句した。

「これは……僕の研究書じゃない」

 はい、と受話器の向こうでマリビアが応じる。

『先生の研究書はいま、わたしの手元にございますわ。すり替えたのは先月、ペットの聖獣が研究書を盗もうとしたと先生が激怒されていた日です。……もうお察しですね?』

 アグニマの背中を、嫌な汗が伝い落ちた。

 あの聖獣は、研究書を盗もうとしたのではなく。すり替えようとしたマリビアから研究書を守ろうとしていたのだ。

『でも先生は、聖獣が盗んだというわたしの言い分を信じてくださって。研究書は、先生が聖獣を檻に閉じ込めていたときにすり替えました。あれが言葉を持たぬ生き物で助かりましたわ、本当に』

 そしてマリビアは、アグニマの研究書を持って軍事研究所で兵器開発に手を貸した。

 研究室の窓から、異様な光が差し込んでいた。静かだった研究棟がにわかに騒がしくなる。廊下に出ると、異変を察した研究仲間がバルコニーに集まっているのが見えた。

 アグニマは、ふらっと壁に寄りかかる。

 ――神々の闊歩する時代であった。彼らはいたずらに獄災をふりまきながら、鼻歌まじりに天頂を散歩する。そんな邪悪な散歩者たちから地上を守るための研究だった。度重なる獄災を無力化するため、一心に自分は。

『先生は、ご自分の研究実績をもっと柔軟にご活用なさるべきでした』

 軍事転用はこれほどたやすく成せる。そう言ったマリビアの声は軽く、犠牲や罪悪感の負荷がかかっていない。

『いまやアグニマ先生の名は、異国までとどろく。神に届きし天才、神抗者。その業績を、わたしにくださいな』

 通話を断ち切ると、アグニマは一目散に階段を駆け降り、暗い地下牢まで戻った。鉄格子を開き、中でちぢこまる一角鳥を鎖から解き放つ。戸惑う一角鳥をうながして一階まで連れていくと、出口の方向を示した。

「お行きなさい。あなたの翼なら、爆風から逃げきれるから」

 アグニマより高い位置で、聖獣の頭がいぶかしげに横に傾く。なめらかな曲線を描く一角鳥の顔を、アグニマの手がやさしくなでた。

「ごめんね。あなたを信じてあげられなくて」

 そのとき、窓の外でひときわ明るい閃光が走った。アグニマは一角鳥の羽根を掴み、なかば強引に研究棟の外まで引っ張り出す。行け、と安全な方を指さした。

 振りかえると、遠い空の頂きで、雨雲が渦を巻くのが見えた。その中心が竜巻のように下降してくるやいなや、中から光の柱が地上目がけて打ち下ろされる。

 『太陽の鉄槌』は、まず疾風を走らせた。

 その風を追いかけながら押し寄せるのは、ましろき炎。

 壮絶なまでに激しい白炎の波が、地表を食らうようにして広がっていく。

 家々を砕き、樹林が焦がされ、生きとし生けるすべての命をその悲鳴ごと飲みこんでいく情け容赦のない殺意。ついにこの研究棟にもそれは押し寄せ、アグニマは視界が真っ白になるのを感じた。

 鈍器のような疾風に吹き飛ばされ、壁に頭を打ちつけたアグニマは、もうろう状態となる。薄れゆく意識の中、石壁が崩壊する音、紙の焼ける音やガラスが砕ける音、そして逃げ惑う同僚たちの叫びと荒れ狂う炎の狂騒を、アグニマはずっと感じていた。


 粉塵まじりの風にむせかえりながら、アグニマは目を覚ました。ぼやけていた視界がはっきりすると、自分の上に何か覆い被さっていることに気づく。

 やせ細った、黒いかたまり――木の枝だろうか。身じろぎしたアグニマは、のしかかるものを避けつつ、立ちあがる。

 あたりは、終末のような光景であった。研究棟はあとかたもなく崩壊し、まわりを囲っていた森は焼け野原になっている。そこかしこで揺れる白い残り火をよけながら、アグニマはしばし歩いた。

 だが、すぐに足元がおぼつかなくなり、ついに膝をついたアグニマの上に、あざけりの言葉が降りかかった。

「いいざまだのぅ、神抗者」

 踊り子姿の女が、重力を嗤うように空中でくるっと身をひるがえす。くすくす笑気をこぼす浮遊女を一瞥したアグニマは、「……ベライヤ神か」と力なく応じた。あらゆるものを滅ぼした白炎の中、自分だけが助かった理由を、この悪趣味な神の出現によってアグニマは察知した。

「見てみぃよ。おまえのせいで、ほら――魂の墓神『肥えゆく墓守』が大喜びさ。あいつの好物を知ってるかえ? 恐怖に震え、苦しみながら死んだ魂だ。ちょうどさっき、おまえの大量殺戮兵器でざっと数千ほど、そんな感じで死んだ魂が大量発生したものだから、やつもはしゃぎっぱなし」

 額の宝石飾りをシャランと鳴らしながら、ベライヤ神は「あれ? おまえの爆弾ではないんだったかなぁ」とわざとらしく訂正している。

「でもね、わたしのかわいい一角鳥を死なせたことは気に入らん。おまえのせいで、あの子の魂まで『肥えゆく墓守』の舌の上だ」

 それまで無反応だったアグニマが、ぴくっと肩をゆらした。そんな――逃げきれなかったのか?

「――ベライヤ神! あの子を救えないのか! 聖獣なのに」

「無理だなぁ。極度の恐怖や苦しみを経験した魂は、輪廻の中には戻せない。だから『肥えゆく墓守』の胃袋で隔離されてしまうわけだ。一度やつの胃袋に飲み込まれた魂は、永遠に苦しみ続ける」

 愕然となったアグニマを、神の目がなめるように辿った。

「救う方法はある。終焉の炉を作るのだ。死んだ魂に、消滅という安息を与えるために」

 浮遊するベライヤ神は、クッションに寄りかかるような姿勢をとると、アグニマを正面から見据えた。神のくちびるが、この世のものではない声で語り掛ける。

「アグニマよ。神に届きし天才よ。これは神からの提案だ。神の一柱となり、万物いかなるものでも消滅させることのできる炉を作るのだ。それが完成したあかつきには、あの下品な墓神をうっかり消滅させちゃっても咎めはしないがねぇ?」

 艶っぽく笑うベライヤ神の意図を、もちろんアグニマは理解した。だが。

「僕は、獄卒などにはならない」

 こぶしを強く握り、焼けつくように激しい目でベライヤを睨む。

「何が神だ。災厄をふりまくことしかしない獄卒め。『肥えゆく墓守』を消滅させる必要があるのなら、僕は人のままでそれを成し遂げてやる」

「……うぅん。なるほど」

 ベライヤは、ヒヒっと奇妙な笑気をこぼす。次の瞬間、ベライヤに蹴り飛ばされたアグニマの体は、少し離れた瓦礫の山に打ちつけられた。鉄筋であばらにヒビが入り、痛みのあまり悶絶する。

 踊り子の神は、すべらかな足を見せつけながら身をひるがえし、アグニマのそばに着地した。

「アグニマよ。この世の法則を知らぬわけではあるまいねぇ。比重のことだ。なんせこの法則を発見した最初の人間がおまえなんだから」

 比重とは、心の均衡を示したもの。

 望む心は浮力となり、絶望する心は重しとなる。過ぎた絶望を抱える心は、比重を狂わせ、その重さのあまり世界に穴を開けてしまう。ゆえに実存を許されず、この世の外へ連れ去られるのだ。

「のぅアグニマ。連れ去られた魂がどこへ行くか、知っているかね? これもまた墓神の胃袋行きなのさ。いらぬものは全部あいつが喰ってしまう」

 ベライヤは、起きあがろうとしていたアグニマの頭を強く踏みつけた。砂だらけの地面に頬をこすりつけられ、アグニマはうめくが、踊り子の足は押さえつけることをやめない。

「絶望の音色を、聴かせてほしいねぇ」

「……放せ」

「何が天才だ。おまえほど愚かな人間もそういないね。わたしが丁寧に教えてやろう。神に挑もうとしたおまえがどんな犠牲を払ったのかをな。……のぉ、アグニマ。わたしは『太陽の鉄槌』からおまえを助けなかった。では、どうしておまえは生き残ったのかねぇ?」

 足をどけたベライヤは、どこかを指先で示した。うながされ、アグニマが見たものは、さっきまで自分が倒れていた場所だ。瓦礫が斜めに重なり、そのすき間に覆い被さる木の枝みたいな黒い燃え残り。……やせ細った、黒い墨のかたまり。

「聴かせよ。絶望の音色を」

 ベライヤ神の笑みが、恐ろしい真実を匂わせる。

 やせ細った、黒い墨のかたまり。

 ――一角鳥だったもの。

 ふいにこみあげてきた吐き気を抑えきれず、アグニマはその場で嘔吐した。

 肩が震える。手が、麻痺したように感覚を失う。まさか、あの子が、僕を。

 うずくまるアグニマの横に膝をついた『堕楽だらくの奏者』ベライヤ神は、彼の身体をクッション代わりにして寄りかかった。

「心の堕ちる音は、愉快だのぉ。人の心で絶望を奏でるのが、わたしは大好きだ」

 そのとき、周囲に異様な風がたちこめた。アグニマの上に、いつの間にか時空のゆがみが生じており、風も粉塵もそこへ吸い込まれていく。

「見ぃよ。穴が開いた。絶望で比重を狂わせたおまえを片付けるための穴だ。軍事兵器による大量虐殺に手を貸した罪悪感に加え、聖獣がなぜ死んだのかを知ったその心は、看過できぬほど堕ちてしまったのさ。さてどうする? このまま何もしなければ、おまえも一角鳥と一緒に仲良く墓神の腹で苦しむことになる。しかし、もしおまえが唾棄すべき獄卒に堕ちるというのなら、まったく別の未来が待っているさ」

 一角鳥の美しい羽根が、アグニマの記憶の中ではためいた。

 アグニマは、意を決したように深い呼気を吐く。ベライヤ神をまっすぐ見つめ返し、低い声を絞り出して言った。

「ベライヤ神。どうか一つ、頼みがある」

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