2.5

 屋敷の三階はしっこにある小さな部屋にて。夜に閉ざされた窓の前に、グランセは佇んでいた。

 同席するのは、神吏長に長く仕える古至制管理部長である。簡素なテーブルと二脚の椅子しかない部屋は王族にはおよそ似つかわしくなかったが、グランセは何も言わずに部屋の扉を見つめていた。

 ノックのあと、扉が開く。不機嫌そうな顔をしたアヴァリが入室してきて、神専衛兵に椅子に座らされた。衛兵が去ったあと、林檎頭の盗掘者は縄で縛られた身体を窮屈そうによじり、ため息をつく。

「いったい何の用? 仲間の居場所とか聞きたいんなら、無駄だけど」

 アヴァリの正面に椅子を置き、王女も座った。

「教えてほしいのは別の情報だ。そなた、エスカポ副所長を知っておるか」

「知ってるわよ。お取引相手ってやつだしね」

「我々は、エスカポ副所長が麻薬取引に手を染めていたことは知っている。知りたいのは、エスカポ副所長が最後に関わった取引のことだ。そなた、彼の家に麻薬を受け取りに行って、追い返されたのではないか」

 そのときエスカポの家にいた人物について教えてほしい。そう話すと、アヴァリは面倒くさそうに「教えるわけないでしょうが」と吐き捨てた。

「協力するなら、そなたを特別に釈放するぞ」

「信じると思う? 王族の口約束なんてさあ」

 それまで黙って見ていた古至制管理部長が、皺だらけの顔をしかめ、しゃがれ声で言う。

「娘。口の利き方には気をつけろい」

「うっさいわ。王族に危害を加えたあたしを逃がすかわりに、エスカポの家にいたやつの情報を教えろって、どういう取引なのよ、それ。たかが副所長の麻薬取引現場の情報でしょ」

 少し迷ったが、グランセは本当のことを話すことにした。真意をぼかしたままだと、アヴァリを納得させられない。

「国家の存亡に関わる情報ぞ」

 さすがにアヴァリは驚いたようだった。まだ疑いは残したまま、試すように王女を見る。

「この縄、ほどきな。そうしたら教えてやるわ」

 王女は立ちあがると、アヴァリの背中に回って縄をほどいた。意外そうにグランセを見つつ、アヴァリは椅子を立つ。

 窓際に寄ったアヴァリが、肩越しに王女を振り返った。

「本気で逃がす気?」

「……必要な情報なのだ」

 腰に手をあて、アヴァリはくちびるをすぼめている。しばし考え込んだあと、窓を開け、夜風を室内に送り込んだ。窓桟に座った赤髪の女は、グランセの問いに答える。

「あたしを追い返したやつ、忘れもしないわ。名前は知らないけど、先代王の側近であることはたしか」

「どんな風貌をしておる」

「神吏の偉い立場のやつよ。いつもフードで顔を隠した不気味な女」

 息を止めた王女に手を振ると、アヴァリは窓からひらりと飛び降りた。警備には追わぬよう声をかけてあるので、おそらく彼女は逃げおおせるだろう。

 彼女が置いていった情報は、衝撃だった。マリオネストだ。エスカポの家で神呪をほどこし、エスカポに神器盗難をさせた張本人。しかし、なぜだ?

 古至制管理部長が、不満そうにアヴァリの出ていった窓を睨んでいる。

「あやつ、嘘を言ったのではなかろうねえ」

「もしマリオネストなら……機会はたくさんあったはず。それこそ神器を封印する前に偽物とすり替えることも可能だ」

 初老の古至制管理部長が、垂れたまぶたの下で双眸を光らせた。

「いくら殿下でも、聞き捨てなりませんな。神器の封印は、五人の神吏による反承封印術。その前にすり替えたとなると、五人の神吏が偽物の神器に気づかなかったということになる。そんなことはありえません」

「……しかし、可能性は」

「ございませんな。このわしも、五人のうちの一人じゃからな」

 気後れしたグランセを、古至制管理部長がねっとりと睨む。

「殿下としては、封印前にすり替えられたと思いたいでしょうねえ。なんせ封印後となれば、容疑者が殿下を含めた三人に絞られてしまうのですから」

 嫌味ったらしい言葉を残し、古至制管理部長が退室するあいだも、グランセは何も言い返せなかった。くちびるを噛み、痛みで悔しさをごまかす。

 アヴァリの情報が本当なら、マリオネストは重要な何かを知っている。そもそも彼女がどこから来たのか、どういう人間なのかを知る者が、王宮にはひどく少ない。彼女のことを一番よく知る人物となれば、側近として起用していた先代王、キャンデラである。


 その一室は、屋敷内でもっとも広く、もっとも贅を尽くした部屋であった。

 両開きの扉を開いた目の前に、シャンデリアの光で彩られた大理石のテーブルが鎮座する。奥の壁にはヘラジカの頭蓋骨が飾られており、その下では豪奢なマントルピースに囲まれた暖炉が大口を開けて、パチパチと薪を鳴らしていた。ディオネが父のために用意した最上級の客室である。

 毛足の長いじゅうたんを踏み、グランセは父を問い詰めている。病で痩せた顔を酒気で染め、暖炉前の長椅子でくつろぐ先代王は、娘の緊迫した気配を受け流して言った。

「おまえがわしに何かを聞きにくるとは、よほど切羽詰っていると見える。おまえ、意地でもわしに頼らんというこだわりがあっただろう」

「ですから、マリオネストのことです。父上しかまともに知らぬゆえ」

「なんだ、恋仲かと疑っているのか? 女とは面倒な生き物よのお」

 酒で眩んだ先代王の目は、グランセの顔を見ようともしない。

「ふざけないでいただきたい! 国の行く末が関わる話ぞ! いくら王座を退かれたとて、神器の問題からは父上も逃げられはせぬ」

「逃げる……? わしが? 到底無理なことよ。わしにはもう逃げ場はない」

 父の様子が変わったのに気づき、グランセは渦巻く憤りに急停止をかけた。長椅子に四肢を投げ出したまま、元王はくしゃくしゃと髪を掻き混ぜる。

「おまえにはわからぬ。実存する神に、真横で見つめられながら息をする恐ろしさが」

 暖炉の火がパチッと鳴る中、キャンデラは長椅子にうつぶせになる。両手で顔を覆いながら、怯えたように言った。

「わしは、神と取引をした。眷神を、この世に降ろす手伝いをしたのだ。遠い昔だ。それ以来どこにも逃げ場がない」

 グランセは、こくりと生唾を飲む。

 まさか、先代王は。

「アグニマ神は、あなたが降ろしたのか」

「……シュヴァインを取り戻す条件が、妃とその胎児を殺すことだった。知らなかったのだ。それが眷神アグニマを降ろす方法だったとは」

「誰と、その取引をなさったのだ」

「……マリオネストだ」

 あれは、人ではない。

 その声に応じるように、暖炉の方で異音がした。ずる、ずる、と何かを引きずる音が続いたあと、暖炉でひと際激しい火花が散る。次の瞬間、燃え盛る薪のあいだから這い出してきたのは、黒い長衣に包まれた人らしきものである。

 先代王が暖炉に背を向け、身を丸めた。怯える父の姿に愕然としていると、暖炉から生まれたその人物が立ちあがった。フードで顔半分を隠したマリオネストは、服のはしに燃え残る火をくゆらせたまま、ゆっくりと何かを掲げ持つ。

「――神器ではないか!」

「はい。本物の神器です」

 馬鹿にしているのか? そう感じた王女を笑うように、マリオネストが神器をひらりと見せつける。

「返してほしいですか」

「……あたりまえだ」

「では、誓約に応じること。内容は『マリオネストが眷神であるという情報を、誰にも伝えることができない』というものです。いかがなさる?」

 頭が追いつかない。王女は必死に考えていた。マリオネストはアグニマと同じく、人の姿を借りて存在する眷神である。そして神器はマリオネストの手中にあり、取り戻すにはマリオネストの正体を誰にも明かさぬと誓わなければならない。

 迷ったところで、王女の選択は一つしかない。応じなければ国が滅びるのだから。

「わかった。誓約に応じよう」

 マリオネストが神器をテーブルに置く。それを取ろうと近づいたとき、腕を掴まれた。一瞬だけ首に触られたあと、マリオネストは王女から離れる。神器を抱えながら後ろにさがったグランセは、ためしに尋ねてみた。

「誓約を破ると、どうなるのだ?」

「破ってごらんなさい」

 マリオネストの笑うくちびるが見守る前で、グランセは話してみる――マリオネストは、眷神である――言えない。声に出そうとしても、喉の奥で焼けるような熱が生じて話せないのだ。

「誓約は、殿下の思考を調査する。眷神、という単語一つは問題なく言えるが、わたしが眷神であるという説明をなす場合、誓約がその声を『焼く』のです。それなりに痛みを伴うので、無駄に挑戦しないほうがよろしい」

 王女は、床にうずくまっていた。喉が痛む。咳をすると、さらに火をつけたように痛みを増すので、しばらく息をひそめ、誓約の罰が終わるのを待つしかなかった。口の中に充満した黒い煙を、こほ、と吐き出し、王女は涙目でマリオネストを睨む。

「なぜだ? なぜ神器を、返す気になった、のだ」

「目的のため。わたしはあるものを『記録』するために存在しています。それには神器が必要でしたが、より良い方法が見つかったかもしれないのですよ。神器の返却は、試し、といったところです」

 神器を大事に抱える王女の前に、マリオネストが近づいた。ぬらりと上体を曲げ、小柄なグランセの怯えた顔を覗き込む。

「殿下。アグニマがなぜ、神器にこだわるか。考えたことはあるか?」

「アグニマ神が……?」

「あの終焉の神について、殿下は少し考えが足りぬようです。現に、遺跡での出来事をどう評価しておられる? あの暗殺者は、危険な存在ではなかった。死ねば普通に『輪廻の庭師』のもとへ送られるだけの、ごく平凡な魂だ。そういう魂をアグニマが終末炉へ放り込むのは、あれが初めてだ」

 マリオネストは、フードの下で笑気をこぼした。

「一つ教えておこう。あれはたかが国一つ滅びたところで、何の感情も抱きません。その神器を管理するにあたり、そのことを心に留めておいてください」



 次の日。屋敷の三階に用意された客室のテラスで、紅茶を手にしたまま、グランセはうつらうつらと船をこいでいた。午後の青空の下、気持ちよく読書をしようと思い立った数分後の出来事だ。紅茶が長椅子にこぼれる寸前のところで、大きな手が紅茶を掬いとる。

「殿下? こぼれちゃうよ」

 ヨモがクスクス笑いながら、紅茶をテーブルに戻した。子羊のやさしい仕草はまだ王女の眠気の邪魔をしなかったが、その大柄な身体が長椅子に腰を下ろし、王女の真後ろにぴったりくっつく場所に座った時点で、グランセは急激に目が覚めた。遺跡に向かう馬上での距離と同じで、体温が香る近さだ。

 ヨモは、グランセの後ろからテーブルに広げられた本を見る。

「至制学の本だ。今度は何を調べてたの?」

 背中に体重をかけられ、王女はどぎまぎしていたが、動揺を見せまいと悪あがきする。若干前に傾いた姿勢で、そつなくヨモの質問に答えた。

「神器の封印についてだ。反承封印術をどう攻略するか」

「痕跡もなしに破るのは無理だね」

 あっさりとヨモに断定され、グランセはぐっと口ごもる。ならマリオネストはどうやって神器を持ち出したというのだ。

「でも例外はあるよ。すごくめずらしい例だけど。殿下はさ、眷神が二種類にわけられることは知ってる? 三盟期と懐胎期」

 三盟期の眷神は、プラセンタの懐胎前から存在していた神。懐胎期の眷神は、胎内世界ができたあと、中の生物をもとにして生まれた神だ。

「僕やベライヤは懐胎期の眷神なんだけど、こうやって胎内世界に肉体を持ったとき、胎世序列は何になると思う?」

「……わからぬ」

「幽階、って言ってね、序列の外にあるんだよ。だから性質が少し変わってる」

「そうなのか」

「普通は知らないよね。専門書の片隅にあるような単語だから。でも今の僕は、至近階級なんだ。なぜかというと、実兄のシュヴァインが王になったから」

 王の血縁者は、王の在位中のみ特例で至近三階になる。一瞬グランセは、ヨモも反承封印術を通れたのではないか、と思いついたが、すぐ打ち消した。神器のすり替え時期はまだシュヴァインは即位していないので、ヨモも至近階級ではない。

「もう一つ、あまり知られていない階級がある。神階というんだ。三盟期の眷神が肉体を持ったとき、この階級に属する」

 そうしてヨモは、驚くべきことを口にした。

「神階はね、実を言うと、至近階級の上に位置する」

「では……もし三盟期の眷神が、リュテイス王宮内にいたとしたら」

「誰にも気づかれずに反承封印術を通り抜けられるよ」

 マリオネストは、三盟期の眷神なのだ。グランセの背筋に緊張が走った。しかし背後のヨモがふわふわの髪を肩口に押しあててきて、まるで子羊にじゃれつかれているような気分になり、緊張感が損なわれていく。

「殿下の背中は、大きいなあ」

 二回りは小さいグランセ相手に、なんの冗談かと思った。

「今までいろんな人の背中に隠してもらったことあるけど」

「……なんて情けない話をしはじめるのだ、いきなり」

「殿下の背中ほど、あったかくて、安心する人はいなかったなあ」

 僕、殿下の背中好きだよ。そうささやく声が首筋をくすぐって、グランセは身震いする。遺跡でシュヴァインが言っていたことを唐突に思い出した。ヨモは、グランセに出会ってから安定したという。

 今までグランセは、誰かを安心させる生き方をしたことがない。父には従わず、母に反発し、妹も部下も振り回し、野心に燃える心のまま生きてきた。そんな自分が、誰かの心を休める灯火になる――それは魅力的だ。味方がどんどん減っていく中、それでも王座を目指して敵対者と戦い続けることよりも、よほど。

 困惑する王女の胴にヨモの腕が回された。

「連れて行きたいな」

 ぞくっと寒気を覚えた。終焉の鳥が近づく、あの気配だ。

「殿下、一緒に来る? 静かな、果ての世界へ」

 本を読んでいて、気づいたことがある。眷神の来歴だ。懐胎期の眷神は、もともと胎内世界の生き物だ。神託による地道な情報収集によって、懐胎期の眷神たちはいつの時代を生き、何をした人物なのか、すべて判明している。それなのに。

 たった一人だけ、いっさいの情報も明かされていない例外がいる。

「――アグニマ神。あなたは異質だ」

 ある日突然、神々の歴史に現れ、世界の果てに終末炉を構えていた。

「あなたはどこから来たのだ? どうして誰も、その来歴を語らない?」

 ヨモは答えなかった。

 結局王女も、マリオネストの言葉がちらついたせいで、神器を取り戻したことをアグニマ神に言うことができなかった。

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