2.4
そこは森に囲まれ、隠されるようにして存在していた。
ゾラタの集落は、予想よりも建物の損壊がひどく、それゆえ皮肉にも見晴しはいい。細い石畳に沿って建物が二十軒ほど点在していたようだが、屋根はおろか、レンガ造りの壁もせいぜい膝下くらいまでの高さしか残っておらず、風化というより人為的な破壊を思わせた。
隊列は夕暮れの街並みを縫い、最奥まで入っていく。
枯れ井戸の向こうに幅広の石段が見えてきたところで、案内人が馬を止めた。王女たちも馬から降り、石段をあがっていく。その先にあったのは、大きな石舞台と、お縄について座りこむ何人かの人影であった。
神専衛兵が一人、こちらに気づいて駆け寄ってくる。
「お待ちしておりました。国王陛下、グランセ殿下。ご命令の通り、遺跡内をうろついていた者は全員、捕獲済みです」
だだっ広い石畳は、四隅にレリーフ柱がそれぞれ立っているのみで、動き回る神専衛兵と捕縛された盗掘団以外は何もなかった。すでに飽きてきた王女があくびを噛み殺したとき、赤い髪を振り乱した女の被捕縛者が「ちょっと!」とグランセに向かって叫ぶ。
「あんた、そこそこ偉いんでしょ? こいつらに言ってくれない? さっさと縄をとけって」
「わらわに言うたのか。胆力はなかなかだな」
「はあ? 偉ぶってんじゃないわよ、ガキのくせして」
グランセは、喉元がすぅ、と冷えるのを感じた。ゆっくりと口角をあげ、ドレスの裾を上品に持ちあげながら赤髪の被捕縛者に近づく。
「わらわはグランセ。リュテイス奏朱国の王女にして、第一王位継承者である」
赤髪の女は一瞬目を見張ったが、すぐに鋭利なまなざしで応戦した。
「なるほどね。普段から人を踏みにじるのがお仕事ってわけ。どうりであんたの尊大さ、胴に入ってるわけだわ」
神専衛兵ですら止めに入れずにいた二人の睨み合いに、ふいに乱入したのは。
「あれ? やっぱり、アヴァリだ。ひさしぶりだね! ねえ殿下、この子はね、僕らの故郷での幼なじみなんだよ」
「そうか。その幼なじみだがな、残念ながら舌を引っこ抜くぞ」
「え……え? 殿下、嘘だよね? あのね、アヴァリはすごいんだよ。よく養豚場に働きに来てたんだけど、豚を一匹軽々と持ちあげるの!」
それは本当にすごい。王女は一瞬怒りを忘れそうになった。しかしすぐに怒りは再燃する。
「とにかく口を挟むでない。誰か、ハサミを持てい!」
「やめてよ殿下ぁああ!」
泣きすがるヨモの巨体を押しのけようと王女が悪戦苦闘していると、後ろからシュヴァインが控えめにグランセを呼ぶ。
「アヴァリの無礼は、俺が謝ります。だから悪いんだけど、お咎めはなしにしてもらえないかな。本当に、失礼なことを言ったと思うし、その……詫びはするので」
なんとも――国王らしさのかけらもない頼み方であった。あまりに王としての威厳がなさすぎたせいで、グランセは憤りの栓が抜けたようにため息をつく。
「そうではない。兄上、命令とはもっと……まあ、よい」
面倒になり、グランセはきびすを返した。もとより調査団の最高責任者はグランセではなくシュヴァイン。この場は彼に任せ、自分は観光としゃれこむことにした王女は、石段を降りていく。
背後で、アヴァリとヨモ、シュヴァインの三人が話をしていた。
「ヨモもいなくなったと思ったら、シュヴァインと一緒にいたわけ?」
「うん。すごいんだよ、シュヴァイン。王さまになったんだ」
「……本当に?」
「うん。迎えがきて、王宮についたら、王になってた」
無気力なシュヴァインの説明のあと。
続いたアヴァリの言葉を聞いたグランセは、足を止めた。
「即位なんかするなって、言ったのに」
どういう意味だ?
石段を戻り、もっと話を盗み聞きしようと企んだ王女だったが、長髪をゆらしながらジャンスが近づいてくるのを見咎め、あきらめざるをえなかった。声の大きいこの男が一緒にいたら、盗み聞きなどまず成功しない。
「いやいや殿下、順調ですな! 神吏さんが遺跡を調べたところ、やっぱりゾラタの可能性が高いって言ってましたよ!」
耳に突き刺さるジャンスの声と共に、廃墟のあいだを歩いていく。
ジャンスと二人だけで歩く王女が気になったらしい。いつの間にかギルテとニルがそばに付き添っていた。グランセは二人を遠ざけようかとも思ったが、ギルテの心配そうな表情に負けて、黙って同行を許す。
一風変わった塔の下で、グランセは足を止めた。レンガ壁は半分崩壊しているが、上層部の骨組みがかろうじて残っており、内部には鎖が垂れさがっている。傾いた歯車もいくつか見えて、機械の内部のようであった。
「おもしろいでしょう、殿下。ゾラタは細かい造形を得意としており、こうした機械仕掛けも好んだと言います。我々が持つ盟承斗計の設計も、ゾラタによるものなのですよ」
「ほう。それは知らなかった」
「それだけに、危険視された民でもあります。なんでも上級盟志を呼び出すため、盟紋機動装置を作ろうとして、村ごと滅ぼされたとも言われるぐらいで」
王女は眉をひそめた。上級盟志とは、胎世序列の最高位である至近階級の者しか呼べない盟志のことだ。おそらくゾラタが作ろうとした盟紋機動装置とは、王族の盟紋を偽装し、下位の者でも上級盟志を呼べるようにしたものなのだろう。
朽ちかけの歯車を見あげながら、グランセはつぶやく。
「気鋭の好奇心がなせるものだったのだろうか」
「いや、もっと危ういものだったと思いますよ。たとえば殿下、あちらの通りに立っている石像が見えますか。あれはペリグロ中尉の像です。彼は三国戦争後、連合軍の侵略に抗って戦死したセブの英雄の一人なのですよ」
セブの英雄――リュテイス敗戦後、協定を破って侵略してきた連合軍相手に激しい抵抗戦を仕掛けたという、セブ派クロテミス人。その抵抗戦による戦死者の一部は、こうして各地で讃えられ続けている。
「抵抗戦の英雄の像が、なぜここにあるのだ?」
「盗掘者の中に、彼の信奉者がいるらしくてね。ペリグロ中尉はゾラタの血を引く末裔とも言われるため、あえてゾラタ遺跡に移設したのでしょう」
ペリグロ中尉の精悍な横顔を見あげながら、ジャンスが続けた。
「このペリグロ中尉ってね、死に方がすごいんです。抵抗軍の潜伏場所が連合軍にばれ、包囲されそうになったとき、上官は彼に逃げるように言ったんですよ。でもペリグロ中尉は、怪我して動けない上官に付き添い、包囲戦で共に死んだそうです」
「ほう、すさまじい忠義心よの」
「わたしには到底考えられない最期ですね!」
ははは! と笑い声をあげたジャンスは、王女を見て何か思い出したようだった。
「そういえば殿下のとこにもあるじゃないですか。クロト家とサイデン家のやつ」
クロト家はグランセの母方の系譜だ。そしてサイデン家は、ニルとギルテの系譜である。
「おっとご存じない? 抵抗戦で追い詰められたクロト家当主が、避難民を逃がすため、自決同然の立てこもり戦をしたってやつ。その際、右腕であったサイデン家当主も一緒に戦い、名誉の戦死を遂げたのです。セブの伝説として名高いんですがね」
王女はうれしくなり、ギルテとニルを振り返った。
「聞いたか、そなたら! わらわとそなたたちのあいだには、伝説と謳われる誉れ高き縁があるようだぞ」
明るく言ったグランセだったが、二人の反応は王女とは正反対であった。ニルが、愕然とした目でグランセを見ている。ギルテもまた、心抉られるような――あたかも裏切りを受けたかのような衝撃をあらわにし、王女を見ていた。
グランセは気がついた。二人は知っていたのだ。クロト家とサイデン家が共に打ち立てた伝説を知った上で築かれていた二人の、深く真摯な忠誠心を――グランセはいま、無知なる足でふみにじった。
ニルは力なく頭を振ったあと、ギルテを睨み、厳しく言い放った。
「わかりましたか。これが、あなたが野放しにした大樹の姿です」
かすかに震えるグランセを置いて、ニルは立ち去る。ギルテもまた、しばらく無言で立ち尽くしたあと、痛みに耐えかねたように王女に背を向けた。
ジャンスの好奇の目がつらくなり、グランセはシュヴァインのいる石舞台まで戻った。仕事でもあれば気がまぎれるかと思ったのだが、すでに盗掘集団は別の場所へ移動させられており、石舞台の上にはシュヴァイン一人しかいなかった。
グランセの足音に気づき、シュヴァインが振り返る。
「お疲れのようだな、兄上。ヨモはどうしたのだ?」
「アヴァリと一緒に向こうのテントにいると思う。なんとかアヴァリを助けようとしているようだけど、どうかな……俺はこういうの、うまく対処できなくて」
「助けたければ助ければよかろう。兄上は今、国王陛下ぞ。盗掘者一人の処遇など、どうとでもできる立場だ」
「それって、権力の乱用ってやつなんじゃないの」
そう言ったシュヴァインは、めずらしく笑っていた。
夕闇の中、野ざらしにされた遺跡のあいだを涼しい風が吹き抜けていく。薄く砂が積もった石舞台の上で、シュヴァインは宵空を見あげた。つられてグランセも、夜と夕のグラデーションの中できらめく星々に目を向ける。太古の昔、星は神が歩いた軌跡だと言われた時代があった。それは眷神を獄卒と呼んだ千年前よりも、はるか前の話である。
シュヴァインが、淡く梳けるような声で言った。
「ヨモは、グランセさんに出会ってから安定してきたような気がする」
「……ほう。依然としてよく泣く子羊だが」
「あなたへのなつき方はめずらしい。もしよかったら、あの子をお願いしてもいい?」
まるで遺言のようなことを言う。
「明日にでも別れる命でもあるまいし。心配ならそばに置けばよいのだ」
「でも、王座のまわりはどうも危険みたいだから。俺はあの子に、自由でいてほしいし、安泰であってほしい。せっかくあの子は、屠殺をまぬがれたのだから」
「屠殺……?」
その単語を口に出してから、王女は思い出した。ヨモは王弟だというニルの推論。母は妊娠中に殺され、ヨモはその胎から取り出された子ではないかという話だ。母を殺す先代王の姿が、シュヴァインの目には屠殺者に映ったのか。
「キャンデラさんは、俺と母を、交配の豚だと言った。そして俺に、交配豚の生き方を学べと命令した」
だから先代王は、シュヴァインを養豚場に預けたのか。グランセは顔をしかめた。父は、跡継ぎの中で唯一の男子であるシュヴァインを確実に王にしたかった。だから幼い心を屠殺し、萎縮させ、思い通りに操れるようにしたのだ。
暗い思い出を語るシュヴァインのまぶたは、重たそうだ。養豚場でおとなしく屠殺を待つ豚のように、心を麻痺させ、思考を鈍らせ、彼はみずからの生命力を飼育下に置いているように見えた。うつらうつらと頭が漕ぎ出し、舌の回りが悪くなる。
「いつも、檻の中に耳をすませていた。豚の本懐を聞くために」
「豚の本懐、とは」
「まわりに、仲間がいたから」
言葉少なになっていて、シュヴァインの話は要領を得ない。いまにも眠気でくずおれそうな兄を心配し、グランセがその背に手を添えたとき。
唐突に、地響きが足元を揺らした。転びかけたシュヴァインを支えながらあたりを見渡したグランセは、地面にひび割れができたことに気づく。砂が振動で小刻みに跳ねながら移動したため、石舞台に刻まれた模様が見えてきた。ひび割れは、床の中心から外側へ伸びた線に沿って入り、どんどん裂け目が深くなっていく。
周囲に神吏や神専衛兵が集まってきたが、近づくのは至難の業であった。石舞台の四隅に立つ柱が光の波紋を形成し、遮断壁ができていたからだ。グランセは遮断壁のほうへ取りすがったが、中からも出られそうにない。神吏たちが険しい顔で言い争っていた。
「どうにかできないのか! 陛下に何かあったら……」
「おそらくこの石舞台は、ゾラタの民による何かの装置なのだ。反応したのは、陛下と殿下の血筋――至近階級の者のみが立つことで、装置が機動したのか?」
「そもそも何百年も前の機械がなぜ動く? 誰かが手を入れたとしか考えられぬ」
「あいつら……盗掘集団の中に、ゾラタの末裔がいるのではありませんか」
そのとき、石舞台がギシっと音を鳴らした。ひび割れに沿って割れた地面が斜めに傾き、下がっていく。傾きを増す石床で、グランセは立っていられなかった。そのまま滑り落ちそうになったが、すんでのところで誰かに腕を掴まれる。
光の遮断壁の下のほうに、少しだけすき間があった。そこからギルテが手を伸ばし、グランセを引っ張りあげようとしていたのだ。
「わらわを、助けるのか」
ギルテはつらそうな顔で王女を睨む。
「……あなたが、血の縁をご存じでなくても、それでも……それでも俺は」
腕を掴む力が強くなり、グランセは痛みに顔をしかめた。
右のほうに、石畳の割れ目を掴んで落下に耐えるシュヴァインがいる。彼の顔に浮かぶ脂汗が、尋常ではない。おそらく彼は、これ以上はもう――滑り落ちかけたシュヴァインの手が宙を掻いたとき、グランセはなんとか兄の手を掴んだ。同時に、成人男性の体重分の負荷が腕や肩にのしかかり、筋肉がちぎれそうなほど痛む。
ギルテもまた、二人分の負荷に耐えかねて、うめき声をあげた。しかし王女の腕を決して離さず、徐々に引き上げはじめたのだ。そのすさまじい筋力にびっくりしていると、ギルテの鋭い顔貌がすぐ近くまで迫ってきた。
耳元に、周囲に聞こえぬ声で吹き込まれる――あなたは、わたしの女王。
「俺にも限界がある。このままお二人を引き上げるのは難しいでしょう。ですから殿下、そちらのお手を、お離しなさい」
一瞬、言われた意味がわからなかった。目を丸くする王女に、ギルテは再度、あやすような声で言う。
「彼をお離しなさい。ここで王を見殺しにすれば、王座は空く」
剪定ばさみの音がしたような気がした。
息が止まったグランセは、思わずギルテにしがみついていた手を離す。王女の協力を失ったギルテは、さすがに二人分の体重を掴んでいられなくなり。
王と王女は、暗闇の中へ、ゆっくりと落ちていった。
さほど落ち続けることがなかったのは幸いである。そして二つ目の幸いは、砂山のような場所に落ちたことだ。口の中の砂を吐き捨てながら、グランセは砂の上をわっしわっしと歩いてみるが、暗すぎて何もわからない。頭上の石舞台は閉じたようで、灯かりはおろか、人の声すら聞こえなくなった。
「兄上? 近くにおられるか」
「ここに」
すぐ後ろで声がして、振り返ったとき、ちょうどあたりが少しだけ明るくなった。
二人は円柱形の空間にいた。直径は五メートルほどで、地面はあらかた砂で埋まっていたが、中央に砂から突き出た円形の台座がある。とりあえず二人は石の台座に這い上った。すると石壁の上のほうで足音がして、グランセは頭上を見あげる。
高い足場から、数人の人影がグランセらのいる台座を見おろしていた。彼らが手に持つたいまつが、あたりを照らし出している。厚手の服で姿形を隠した男が、不穏な沈黙を破り、口を開いた。
「ようこそ、ディオネ殿下。手荒い歓待となり、失礼いたした」
グランセを、ディオネだと勘違いしているらしい。そして何より彼らが、国王であるシュヴァインに反応を示さないことも気になった。ディオネの従者と勘違いしているのだろうか。たいまつの灯かりは薄暗いので、グランセたちが乗る台座まで満足には届いていない。おそらくグランセとシュヴァインの姿がよく見えていないのだ。
「わらわたちを……意図的にここへ落としたのか?」
「さよう。我々は『楽園の支団』――王女の暗殺を成す者である」
王族の暗殺だと? ドレスの下で、汗が噴き出すのを感じた。グランセは焦る心を必死に落ち着け、状況判断のために時間を稼ぐことを考える。
「待つのだ。まず目的を話してみよ。場合によっては相談に乗ることも検討するぞ」
「あいにく時間稼ぎに付き合ってはいられんのでな。ローゼンの王女よ、ゾラタの処刑台『砂の刃車』で散るがよい」
その声を合図にして、周囲で異変が起きた。
台座の下に積もった砂が、小刻みに振動している。やがて波のように動きはじめた砂は、ふしぎなことに、宙に浮き出したのだ。空中でそれぞれ寄り集まり、ひとりでに薄い円盤を形成していく。
嫌な予感がした王女は、すぐに胸元を探って盟承斗計を取り出した。しかし落下の衝撃か、文字盤にひびが入っており、使えそうにない。焦るグランセをあざ笑うように、周辺に浮遊するいくつもの砂の円盤は、ノコギリのような刃を持ち――高速で回転しはじめた。
グランセはぎょっとする。あんなものに四方八方から斬り込まれたら、四肢がばらばらになってしまう。
「兄上! 盟承斗計はあるか」
狭い台座のはしっこで、シュヴァインが肩越しに振り返った。そのまばたきがあまりに穏やかで、一瞬グランセは危機感を忘れそうになる。
「兄上? 何をしておるのだ、早う盟志を召喚せねば」
「グランセさん。抗うのはいけない」
台座のふちに腰かけたシュヴァインは、長い足をフラフラと揺らしている。生命の危機に瀕した生物としてはいっそ異常な平静さで、グランセに微笑みかけた。
「屠殺者を信じて身をゆだねるのが、一番楽だ」
「なに、を」
「俺にとっては、ここも王座も同じだよ。屠殺台に乗せられたら、もう抗うべきではない。苦しみが長引くだけだからね」
グランセは言葉を失った。
シュヴァインは、台座のふちで静かにこうべを垂れる。屠殺を待つ豚だ。彼は、屠殺台の上ですべての望みをあきらめた豚なのだ。
両親と弟を、キャンデラ王に屠殺された日から――グランセは、ぎゅっと拳を握った。
「父上はすでに退位された。兄上、キャンデラ王はもう屠殺刀を持ってはおらぬ」
従順に首を差し出すシュヴァインの横顔に、なおも言い募る。
「わらわを退け、あなたは王となった。王座は屠殺台などではない。最高権力を奮う場ぞ」
二十一年ものあいだ、王座の一番近くに控えていたグランセをよそに。いきなり現れたと思ったら、この国最高位の席を眠そうな顔でかっさらっていった男。だんだん怒りが増してきた王女は、台座の上で仁王立ちになる。
「わからぬか、国王陛下! 檻の鍵は開いておるのだ!」
この国のどこに、王を豚小屋に閉じ込めることのできる者がいるという。
奮い立たせるというより、今までの恨みつらみを吐き出した形になったが、シュヴァインの顔をあげさせるだけの効力はあったらしい。
屠殺台の豚は、自由を自覚した途端、冴えわたる目つきになった。猫背ぎみの背筋がまっすぐ伸びたと思ったら、内からみなぎる熱を持てあますかのように身震いする。乗馬服の裾を払い、王は立ちあがった。
盟承斗計を取り出すと、彼は迷いのない声で詠唱する――「約承、三式二番『咆哮する屠殺者』よ、来たれ」
二番。高い。上級盟志だ。グランセはその場で身構えた。異界の風と共にシュヴァインの背中の盟紋から這い出してきたのは、身の丈五メートルはあろう巨体である。汚れたエプロン姿の屠殺者は、身体こそ人に似ているが、頭部は人ではない。実に禍々しい造りをした豚の顔が、ぎょろりと周囲を見渡した。
巨漢の豚は、狭い穴でむずがるように身をよじる。大きな手が手すりでも掴むような乱暴さでシュヴァインの頭に乗っており、今にも握り潰してしまいそうで、はたから見ていると空恐ろしい光景であった。
さぞ重いであろう膨れた指の下で、シュヴァインの横顔は笑っていた。生気に焼かれる目が、ぎょろりと王女を見る。
「昔からよくアヴァリに言われていた。俺は理解が遅いと。たしかにそうだな――ありがとう、グランセさん。あなたの言うとおりだ。俺を屠殺できる者は、もはやいない」
――屠殺刀は今、この手に。
シュヴァインの言葉に、グランセはぞっとした。
ようやく這い出した巨漢の屠殺者は、シュヴァインの導きに応じて頭上を見あげる。次の瞬間、すさまじい轟音が鳴り響いた。屠殺者が叫んでいる。咆哮だ。重い圧がかかり、グランセは両耳を塞ぎながら地面に這う。ビリビリと大気を震わせ、暴れ回る屠殺者の咆哮は、狭い円柱内に収まるようなものではなかった。
石壁がゆさぶられ、足場の上にいた楽園の支団の者たちが数人落ちてくる。砂の刃車に運悪く引き裂かれた者もいる中、シュヴァインの暴走は留まる様子がない。
屠殺者の咆哮は、砂の刃車を瓦解させたのみならず、円柱の石壁に亀裂まで入れてしまった。咆哮は絶えず激しい振動を引き起こしているので、壁がひび割れようものなら、当然――崩落が始まる。
「兄上……もうよすのだ、崩れてしまうぞ!」
鼓膜が破れそうな轟音の中、グランセは必死にシュヴァインの背中にとりすがった。すると王の身体がかくんと崩れ、グランセの腕の中に倒れこんだのだ。説得が届いたわけではなく、上級盟志の召喚の負担がかさみ、意識を失ったらしい。術者の沈黙に伴い、屠殺者もまた鳴くことをやめ、その重量感ある肉体が嘘のように掻き消えていく。
周囲はひどいありさまだ。
グランセたちがいる台座の上だけは、何も変わっていない。だが円柱形の壁は半分くらいのところで斜めに亀裂が入り、横にずれた部分や、崩れた破片が積み重なった部分がいくつかあり、非常に不安定な状態になっていた。
楽園の支団が落としたたいまつが、砂山に突き刺さって燃えている。そのわずかな灯かりの中で、誰かが台座に上ってくる気配がした。シュヴァインの上体を抱えこんだグランセの前に、楽園の支団の一人が膝をつく。
「なぜ、国王がここにいる。それに……この者はディオネではない」
轟音でまだ耳鳴りがする中で、グランセはたしかに聞き取った。約束が違う、と。ここにディオネを連れてくると約束した共犯が、外にいるというのか。
そのとき、壁にできた瓦礫のすき間から、たいまつを持った人物が這い出てきた。ぴちっと赤髪を括った、その林檎のような頭に見覚えがあり、アヴァリだとすぐ気づいた。アヴァリはグランセではなく、暗殺者を見ながら言う。
「やっと入れたわよ、もう! なんであんたは人の話を聞かないわけ? 計画に支障が出たから、今回は中止するって言ったでしょうが!」
キンキン響く大声を出しながら台座に近づくアヴァリに、暗殺者が低い声で応じた。
「いまさら中止できるか。たしかにディオネの抹殺はできないが、もう一つの目的はこの二人でも果たせるのだからな」
グランセは信じられない気持ちでアヴァリを見た。この暗殺計画の一端に、アヴァリも関わっているのか。シュヴァインとヨモの幼なじみである彼女が?
しばし茫然となった隙を、暗殺者は狙った。避けることもできないまま、グランセの肩口に鋭いナイフが突き刺さる。他人に傷つけられることにとんと慣れぬ王女は、痛みよりもショックで目を見開いた。
暗殺者が引き抜いたナイフには、奇妙な彫り細工があった。葉脈のように細かい筋だ。そこに血が沁み込むと、まるで毛細血管が脈打っているように見え、刀身が生きているみたいで不気味だった。暗殺者は、血を飲んだナイフを大事そうに抱える。
「いいぞ。これで鍵は完成する。アヴァリ、これを仲間のもとへ届けるのだ」
アヴァリは、その声に答えない。グランセの膝で眠っているシュヴァインのそばに座り、感慨深げな目をしながら言った。
「本当に、あんたはバカだわ」
乱暴な口調とは裏腹に、シュヴァインの額をなでる手はやさしい。
「シュヴァイン。起きなくていい。あんたはそのまま、まどろみ続けなさい。バカなんだから、安全な場所でおとなしくしてりゃいいのよ」
グランセは、血が噴き出す肩口を手で押さえながら、アヴァリを注視していた。その言葉の意味を読み解こうとするが、激痛が邪魔をして思考が進まない。脂汗がこめかみを伝い落ちたとき、ふと空気の変化に気がついた。
冷える、というより、肌が怯える。そんな冷たさがあたりを包んでいる。いぶかしむグランセの横で、突如、暗殺者の悲鳴があがった。
引きずりこまれる! 彼はそう叫んだ。しかしたいまつ数本分しか光源のない中、周囲は依然として薄暗く、暗殺者の身に何が起きているのか視認できない。アヴァリがたいまつを暗殺者のほうへ近づけたとき、ようやく――闇の奥から伸びる翼の一部が見えた。三対の翼は生き物のように暗殺者の足や胴に絡みつき、引きずっていく。
闇の奥に、穴がある。そこから生まれた終焉の鳥が、暗殺者の頭を押さえつけ、足をすくい、悲鳴をも食らう。
「なぜだ、なぜ! なぜ俺を引きずりこむ、アグニマ神……!」
暗殺者の比重に、極端な乱れがあったわけではない。術式の違反を起こしたわけでもない。
アヴァリはがくがく震えながら、終末炉へと飲み込まれていく仲間を茫然と看取った。
「どうしてあいつは、引きずりこまれたの? 何も違反なんてしてないのに」
「――殿下を傷つけたでしょ」
やわらかな声が、ひやりと響く。
暗殺者を咥えた終焉の鳥は、異界の穴へと帰還し。徐々にその穴は小さくなり、やがて術者であるヨモの両手の中でしゅぽんと閉じた。
たいまつの灯かりに照らされたヨモは、まさに今、人の命を摘んでおきながら、眉一つ動かさない。やがてヨモの背後から神専衛兵や神吏がわらわらと姿を現した。みなアヴァリが出てきた瓦礫のすき間を通ってきたようで、埃まみれだ。彼らのざわめきによってヨモの凍るような気配は掻き消され、いつもの気弱な態度に戻ったヨモはグランセのもとへ近づいた。
シュヴァインの身柄は神吏たちに渡され、グランセは台座の上に残される。ヨモが手を伸ばそうとすると、それを邪魔するようにギルテが飛び込んできた。
「殿下! 血が……お怪我をなさっている……これは、誰が」
さまようギルテの目が、神専衛兵に取り押さえられているアヴァリを捉えるや否や、刃のように厳しくなった。ぎょっとしたグランセは「違うぞ、アヴァリではない!」と不穏なギルテを止めに入る。
台座に手をついたヨモも、アヴァリじゃないよとギルテを諭した。
「なら、誰の仕業だ」
「別の人だよ。もう、穴の向こうへ行ってしまったけど」
そう言って微笑んだヨモに、グランセは寒気を覚える。暗殺者に対してヨモがしたことは、何かの間違いだと。そういう意識がまだどこかに残っていた。それが今、子羊のやさしい笑顔で粉砕された。
ギルテはヨモの真意に気づかぬまま、周囲を見渡す。
「あの瓦礫の穴のことか? おい、逃げたくせ者がいるぞ、追え!」
神専衛兵たちを連れ、ギルテは瓦礫のすき間を捜索しに出向く。
グランセは一人、台座の上でヨモと対峙していた。血を流し続ける肩の傷を、ヨモがつらそうに見つめる。
「痛そう……あ、殿下、僕が上まで抱えていってあげる。こっちにおいでよ」
「……かまうな。わらわは自力で歩く」
子羊のやさしい笑顔は、王女の言葉を素通りする。
「おいで、殿下」
ヨモの腕が王女の背中と膝裏に差し込まれ、軽々と抱えあげられる。有無を言わさず四肢を絡めとるその手は、さながら終末炉へ引きずり込む終焉の鳥のようであった。
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