3.4

 胎世序列は、護神の加護下で機能する。もし護神を失えば、胎世序列が無力化し、王族といえど盟志召喚はいっさいできなくなる。そして戦場において、盟志召喚術を使える兵士と使えない兵士とでは、勝敗は目に見えて明らかであった。つまり王族も兵士も他国の侵入から民を守ることができず、国は滅びるしかなくなる。

 護神とは、侵略兵器にもなるが、国防の要でもあるのだ。

 薄闇の中、グランセは神器の表紙をめくった。いくらめくれど白紙だったページに、びっしりと文字や図形が書きつづられている。これが示すのは、ベライヤ神が審議の場に赴き、加護が途切れたということ。

 禁述が、とけたのだ。

 部屋の隅にいるヨモを見る。顔を伏せたまま黙りこむ彼のほうへ、神器を差し出した。

「アグニマ神。逝け。この研究書を運ぶのだ」

 『火力の保管者』プルトナの手が届かぬ、終末炉まで。

 ヨモはしばらく口を開けたまま王女を見ていたが。

「えっ、でも、神器を消滅させちゃったら、国が」

「そなたに一つ、頼みごとがある。あちらに着いたあと、この国が神を呼ぶ声が聞こえたら、そなたが答えてやってはくれぬか」

 そこでヨモは、グランセの頭にある計画の全貌を悟ったようだ。理解の速さはさすがだが、くしゃっと涙でくずれた情けない顔は、やはりヨモである。

「あなたは、また、尊い空へ還れないのか」

 ぐずっと鼻を鳴らしながら、ヨモはグランセの足元でうずくまってしまう。やがて彼の背後で時空がゆがみ、不穏な穴が開きはじめた。渦を巻く暗い穴の向こうから、終焉の鳥の羽ばたく音が聞こえてくる。しかしヨモは神器を抱えたまま、動こうとしない。

 王女は苦笑した。

「ヨモ、逝くがよい。わらわが直々に看取ろうぞ」

 幼子のようにぐずっていたヨモは、ふいに姿勢を正す。片膝をついた体勢でグランセを見あげると、その手をとった。

「陛下――偉大なる女王陛下。終末炉にて、あなたを待つ」

 手の甲に恭しいくちづけを落としたあと、ヨモは終焉の鳥に抱かれ、穴の向こうに消えていった。穴が閉じていく。滑落する。かわいい子羊が落ちていく音だ。けれども、振り返ってはならぬ。

 静まり返った部屋で、王女は一人佇む。

 窓辺に寄り、暗い曇天を見あげた。空を覆う暗雲に、稲光が走っている。ただの雷雨のように見えるそれは、きざしであった。よく見ると、一部で雷が線状に留まり、模様を形成しようとしているのがわかる。大天紋の一部だ。曇天に雷で描かれる大天紋は、国の非常事態を意味する。

 雷による大天紋が完成するまで、およそ一時間。その紋様を他国の神吏が解読すれば、護神の不在に気づく。そこから周辺諸国の侵攻が始まるまで、数時間もかからない。

 国内は戦火で荒れるだろう。護神の加護なき紛争の中で、クロテミス人の独立運動を鎮圧する力は、リュテイスにはない。他国に蹂躙され、血みどろになったリュテイスの腹から、クロテミスは再生するのか。

 血飲み子になると、いうのか。

 王女は稲光に目を細める。一時間で、決着をつけるのだ。

 そのとき、慌ただしく扉が開いた。飛び込んできたのはディオネである。今日の昼に王都に到着する予定であることは知っていたが、王宮内が騒がしく、顔を合わせるのはひさしぶりだった。

 ディオネの視線は当然ながら、血まみれのベッドに向かい。

「……お姉さま。これは、まさか」

 ふらついた足取りで、ディオネは父の遺体に近づく。空虚なまなこに涙をにじませながら、グランセをもの言いたげに見た。その目は――非難している。なぜ父を殺したのかと。だがグランセは、誤解をとくことをせず黙りこんだ。

 遅れて姿を見せたジャンスもまた、キャンデラ元王の遺体を見つけ、絶句している。彼は非難というより、異常者を見るような目をグランセに向けた。

 涙をぬぐったディオネが、グランセを睨んだ。

「このような暴挙で、国を奪えるとお思いですか」

 何も言わないグランセに、ディオネがすがるような目で畳みかけた。

「神吏の報告が入りましたわ。王座が空位になったと。お姉さま、シュヴァイン陛下に何をなさったのです」

 グランセは驚いた。どういうことだ、王座が?

 ベライヤの高笑いが耳に残っている。あの護神はあえて教えなかったが、もしかすると、一度死んだ時点でシュヴァイン王の治世は終わったのかもしれない。つまりシュヴァインは今や先代王。次の王が求められているということだ。

 大天紋はまだ未完成だが、一部形成された部分には王の不在が記されているという。これは他国にとって侵攻の決断材料になるか? 否、まだだ。国内情勢が揺れているのは感づかれているだろうが、すぐ次の王が立つと見越しているはずだ。

 まだ、侵攻はない。

 グランセは、床に落ちていた細い剣を拾った。そして無防備なディオネに近づくと、刃先を喉元に押しあて、脅しをかける。

「お姉さま……?」

「少し無体を強いるぞ。耐えよ」

 妹を立たせ、王の寝室を出るよううながした。射殺しそうな目をするジャンスを、ディオネの命を盾にしてどかしながら、三階の中央テラスに向かう。王宮内の人々が一様に驚いた様子で道を開ける中、グランセとディオネは雨下のファサードテラスに出た。

 グランセは、一度目を閉じる。深呼吸をした。

 さあ、行くぞ。

 雨が降りつけるテラスの先端まで出向き、民衆を一望する。頭上には雷によって大天紋が描き出されている最中で、その異常事態を察した王都民がこぞって広場に集まっているのだ。アヴァリらの姿はもう広場にはなく、シュヴァインのとりなしによって別の場所に移動させられたのだろう。

 テラス上の異変に気づいた民衆たちが、どよめきはじめた。

 ディオネを横に立たせ、民衆から見えぬ位置で脅しの剣を押しあてる。そしてグランセは大きく息を吸い込むと、腹の底から声を張りあげた。

「聞け、リュテイス国民よ! 今、王座は空位である! 国の安定を図るため、わらわの名を大天紋に捧げよ!」

 民衆は、不安そうに互いの顔を見合わせている。そこへ、後ろから一定の距離をあけてついてきていたジャンスが、テラスの端から民衆に一喝した。

「応じるな、民よ! この者を女王にしてはならぬ! この者は、策を弄してシュヴァイン王を王座から引きずり下ろしたのみならず、キャンデラさまをその手にかけた、悪しき王女であるぞ!」

 金縁眼鏡を雨に濡らしながら、ジャンスはグランセを指さした。

「もしグランセを王座に置けば、必ず護神の怒りを買う。リュテイスは、ベライヤ神の加護を失うであろう!」

 そこでグランセは、ゆっくりと。

 ディオネの背後に隠していた剣を、民衆から見える位置で掲げ持つ。そしてディオネの首元にすらっと剣先をすべらせた。

「ここに、ディオネ王女の首がある。リュテイスの民よ、この者の首と引き換えに、わらわを王座に迎えよ」

 民衆たちがグランセの名を呼ぶまで、それほど時間はかからなかった。緑の女王の英雄譚は、すでに王都に広まっていたからだ。シュヴァインを失った今、リュテイス国民に残された希望はただ一つ、ディオネだけだ。だから彼らはグランセの名を呼ぶ。ひとえにディオネの命を救わんがため。

 民衆の声を拾った大天紋が、空位だった場にグランセの名を刻んだ。

 そのとき、大天紋に異変が起きた。完成しつつあった紋様が、徐々にゆがみはじめたのだ。神吏でなくともそれが異常現象であることは一目瞭然で、広場が恐慌で満ちていく。

 ジャンスが苛立ったように怒鳴った。

「見よ! 大天紋がくずれはじめた。悪しき女王を王座に迎えたばかりに、ついに護神がこの国を見捨てたのだ!」

 ――そうだ。誰の目にもそう映るだろう。

 ディオネを連れたまま、グランセは広場に背を向けた。

 テラスから屋内に戻ろうとしたところを、数人の神専衛兵に止められる。神専衛兵団長が苦い顔でグランセの行く手を阻んだ。後ろからジャンスが追いつき、グランセの前まで回りこむ。

「気でも触れたかい? 殿下」

「わらわは今、女王ぞ。陛下と呼ばぬか」

「わたしの陛下はディオネさまお一人ですので」

 小癪に笑ったジャンスだが、ディオネの身を案じてか無理強いはしてこない。グランセは内心で焦っていた。時間がない。早く神儀の間に向かわなければ。

 ディオネを剣で脅した姿勢のままこう着したところへ、思わぬ助けが入った。グランセをかばう位置に立ち、ジャンスに剣先を向けたギルテは、一瞬だけ肩越しに振り返る。

「ただいま戻りました。陛下」

 グランセは瞠目したあと、悲しげに目を細めた。戻ってしまったのか。

「そなたは、兄上のもとに遺したかった」

「そうですか」

 そう言ったきり、そ知らぬ顔でギルテはジャンスたちと睨み合っている。グランセは声をひそめ、ギルテにしか聞こえぬよう配慮して話した。

「このまま協力すれば、悪しき女王の忠臣として後世に名が残ってしまうぞ」

 ニルとギルテがこだわり続けたサイデン家の名声は、今度こそ地に落ちる。

「俺は今、護国の伝説にお供させていただいている」

「……誰にも記憶されぬ戦いだ、伝説とは言えぬ」

「俺自身が知っていれば充分です」

「しかし」

「あなたの伝説、最期までお供いたします」

 ギルテは満ち足りた様子で答えた。

「お行きなさい。ここは俺が止めますから」

 これ以上は時間が足りなくなるので、グランセはしぶしぶギルテに場を任せることにして、目的を果たすべく動く。ディオネに剣を突きつけたまま、廊下を小走りに進んだ。振り返りたくとも、振り返ってはいけない。

 また一人、滑落した。けれどもあの頂きに到達するためには、振り返ってはいけないのだ。



 神儀の間は無人であった。

 両開きの扉から入ってすぐのところに、狭い足場がある。そのすみにディオネと剣を置いて、グランセは足場のふちに立った。四階分吹き抜けになった丸天井のステンドグラスの彩りは、曇天の暗さで死んでいる。

 女王は、鎖で吊るされた大皿に乗り移った。不安定に揺れる皿の下には、巨大な鉄球がいくつも積み重なっている。

「お姉さま、あの……ギルテ警護官と話していたことって、どういう意味ですの?」

「知らずともよい」

 突っぱねられても、ディオネはあきらめずに説得をこころみた。

「まだ間に合うわ。みなの前で誠意を尽くして謝罪する姿を見せれば、きっと護神は戻ってきてくださる」

「戻らぬ。神器は永遠に失われたからな」

 愕然となったディオネを振り返り、グランセは静かに言った。

「ディオネ。なぜ王族の系譜が重要視されるのか、考えたことはあるか」

「それよりも、今、なんとおっしゃったの? 神器が」

「最近読んだ本に書いてあった。国々を守る護神の加護機構とは、古い時代に生まれたものだ。眷神がまだ獄卒と呼ばれ、忌み嫌われていた時代だ。どこかの国が眷神の加護を獲得し、それに対抗するため、他の国もこぞって護神の加護を求めた」

「お姉さま! わかってらっしゃるでしょう、神器がなくては、もう護神は」

「では、なぜ護神の加護機構を代々必死に受け継いできたか。一度それが失われたとき、取り戻すのは容易ではないからだ」

 なぜなら。

「護神を呼ぶには、高貴なる贄を必要とするから」

 王族の誰かが贄となる。しかし護神を呼ぶためとはいえ、今の時代に身内を犠牲にして王座に座る方法をとるのはむずかしい。民衆の反発を買い、国を安定させられなくなるからだ。だが犠牲になる贄が、父を殺し、兄を失脚させ、妹の手柄を横取りした悪しき女王なら、話は別だ。……処刑に値する人物になるしかなかった。

 ディオネは、少しずつ、少しずつ、姉の言いたいことを理解しつつあった。

「グランセお姉さま。わたくし、なんだかとても、嫌な予感がいたしますの」

 事前にディオネに何も相談できなかったのは、国のためとはいえ、彼女がこのような計画に賛同するとは思えなかったから。

「お姉さま、どうかこちらへ戻ってきてくださいませ」

「よいか、ディオネ。大天紋が崩壊するまで、もって三十分」

 やるべきことは、わかっておるな?

 そう語りかけられて、ディオネはいよいよ耐えかねたらしかった。立ちあがったディオネが、グランセに向かって手を伸ばす。その手に捕まらないよう後ずさりしつつ、グランセは最後の迷いが胸にくすぶるのを自覚した。

 怖い。逃げたい。ここまでする必要があるのか? 自問が、足を竦ませる。

 国が健やかなとき、治めるのはたやすい。しかし国の病めるとき、王座から逃げ出すのなら、それは。

 グランセは目を閉じる。

 ――国、病めるときにこそ。

 ――誰一人として、この戦いを知る者が地上に残らなくとも。

 ディオネの悲鳴を聴きながら、ゆっくり身体を後ろへ倒していく。滑落する。頂きに到達する者以外、すべて。

 わらわは滑落する。

 だが振り返ってはならぬ。手を伸ばしてはならぬ。

 みなが滑落する中、ディオネ、そなただけはあの頂きに到達するのだ。

 はるか至高で雨雲が一瞬だけ割れ、一筋の光が天井から差し込んだ。ステンドグラスを通り、虹色の光となったそれは、鉄球の山に墜落する寸前、グランセの虹彩に祝福を届けたのだった。

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