3.3

 ひときわ豪奢なレリーフ扉を開け放ったグランセとギルテは、室内の予想外の暗さに立ち止まった。曇天の雨模様は昼の明るさを封じているが、さらにカーテンが閉めきられているせいで、王の寝室は夜かと思うほど暗い。

「父上。おられるか」

 返事はない。見かねたギルテが窓際へ向かい、カーテンを開け放った。そうしてようやく見えてきた部屋の全貌に、王女たちは息を呑む。

 天蓋つきベッドの上で、波のように乱れたシーツに沈む――血まみれの先代の姿。薄着の父がぐったりと動けずにいるのを見て、思わずグランセは駆け寄った。

「父上! しっかりなされよ! ギルテ、誰かを呼んでくるのだ!」

「しかし……」

 ギルテ警護官は、場を離れるわけにはいかなかった。先代を襲った者がどこにいるか知れない状況下、王女を一人残して移動はできない。一応、廊下に向かって緊急事態のむねを大声で告げたが、誰かの耳に届いたかどうかはあやしい。

 グランセのそばで剣を構え、周囲を注意深く確認していたギルテは、部屋の奥で何かが動くのに気がついた。カーテンの陰で、丸椅子に座る者がいる。

「そこにいらっしゃるのは、シュヴァイン陛下……?」

「なんだと? 兄上が」

 顔をあげたグランセが、「無事か、兄上!」と安堵の声で言った。ずっと黙って座っていたシュヴァイン王に対して違和感を覚えたのはギルテのみで、肉親の無事に安心していたグランセは、まだ何も疑っていない。

「兄上、ここは危険ぞ。父上が何者かに襲われたようだ」

「うん。凶器はここにあるよ」

 そう言ってシュヴァインが見せたのは、自身の剣だ。血にまみれた刀身を見たとき、ようやくグランセも、ギルテの沈黙の意味に気づいたのだった。

 ――大天紋が、禁忌に反応し、不安定化したのは。

「……父上を襲ったのは、まさか」

 震えるグランセの腕の中で、先代王が身じろぎした。そしてグランセには目もくれず、部屋の隅に座るシュヴァインを見つけると、そちらへ近づこうとベッドを這う。張りをなくした声が、なぜ、と訴えた。

「わしの息子よ。なぜこのような真似をした」

「豚の本懐のために」

 シュヴァインの返答は、グランセたちにはわからなかったが、先代王はわかったらしい。苦しげに咳き込みながら、先代は果敢に怒鳴った。

「なぜわからぬか! わしはおまえを救ったのだ! やつの帝国からな」

 グランセが、血をだくだく零しながら動こうとする先代を押しとどめる。

「父上。血が止まらぬ。動かぬほうが」

「うるさい! おまえは黙っていろ!」

 傷口を抑えようとした手を払いのけられ、グランセは後ろへよろけた。ギルテに支えられながら、王と先代の睨み合いを蚊帳の外から見ているしかない。

 シュヴァインは、グランセに聞かせるように静かに話した。

「あのまま父に見つからず、家族三人で隠れ住んでいたら、何が起きていたか」

 ――弟の帝国が、誕生しただろう。

「そこでの俺は、最下層民だ。なぜなら合意の子じゃないから。あからさまではないが、義父は俺を疎んでいたし、母は時々激痛をこらえるような目で俺を見ることがあった。だが弟は違う。痛みを伴わず、宿命も託されず、望まれて生まれる子」

 シュヴァインの話は、自ら傷口を広げてみせる者の痛々しさがある。

「俺は抗った。弟の帝国が、完成しないために。当時、街中に母を探してうろつく神吏がいることは知っていたから」

 ぶわっとグランセの肌が粟立った。

「兄上。マリオネストに隠れ家を密告したのは、あなたか」

 騙されたのだ。きっと神吏たちは、生まれた弟は人知れず里子に出すだとか、そういうふうにシュヴァインに説明した。まさか胎児の弟が、両親ともども殺されるだなんて、幼い少年は夢にも思わなかったろう。

「俺はおとなしく、交配の豚として屠殺を待つべきだった」

 屠殺に抗ったから、受難は訪れた。

 シュヴァインは、血まみれの剣を胸に抱きかかえ、眠るように身を丸めた。彼は豚だ。両親と弟が自分のせいで殺されたときから、ずっと屠殺され損なっていて、苦しみのあまり屠殺台の上でのたうちまわる豚だ。

「俺は屠殺を待つ。父殺しの罪人として」

 父の呼吸が止まっていることを、グランセはそのとき知った。腕が機械的に動き、遺体の上にシーツを被せる。

 ベッドから降りても、足元がふわふわしている。グランセは、状況から心が浮いたような、奇妙な心持ちで思考していた。シュヴァインの言葉についてだ。豚の本懐のために。そのすえが、これなのか?

 遺跡で兄の言っていたことを思い起こす――いつも、檻の中に耳を。

 まわりに、仲間が。

「そうか――兄上、あなたの狙いは、リュテイスという檻の中から聞こえる彼女らの本懐」

 リュテイスの檻を破り、クロテミスの再建を目指すアヴァリたちの話が、シュヴァインにも聞こえていたのだ。

 グランセは理解した。シュヴァインの心は、王座にはない。クロテミス国再建を願うアヴァリたちと、その心は寄り添っている。

「……兄上。アヴァリは今、広場で捕縛されている。彼女らが起こした襲撃事件は、王宮の者も、民衆も、等しく恐れさせた。あのまま放置すれば危険だと思う」

 背中を丸めたシュヴァインが、ぴくっと身動きした。

「危険とは、どういう意味?」

「ひとたび暴動が起きれば、神専衛兵団だけで止められるかはあやしい。民衆の私刑にあえば、殺されるかもしれぬ」

「あなたが止めるべきだ。王女でしょう」

「わらわの声は届かぬ」

 グランセが介入しても、誰も耳を貸さないだろう。

「だが兄上は、リュテイス民衆の怒気を鎮め、セブ派の高揚をなだめ、ローゼン派の猜疑心をやわらげる。すべてに届く声なのだ」

 アヴァリたちを救えるのは、シュヴァインだけ。それを聞いたシュヴァインは、丸めた背中を伸ばし、グランセを見た。椅子から立ち、暗がりから歩み出てきたシュヴァインは、広場の様子が一望できる窓に張りつく。

 そのとき、誰かが廊下を走ってくる音が聞こえた。慌ただしく王の寝室に飛び込んできたのは、マリオネストだ。しかし、彼女がいつも着込んでいる黒いローブが、あちこち切り傷だらけで破れており、尋常ではない様相だった。

 よろける彼女の痛々しい姿に気をとられたため、グランセは気づけなかった――マリオネストの手が、ナイフを掲げ持っていたことに。

 先代王の死にも頓着せず、マリオネストが見つめたのは――窓際で振り返った王。彼の胸を目がけ、マリオネストの短刀が飛んだときには、ギルテも前に踏み出していたのだが。

 短刀は、吸い込まれるようにシュヴァインの胸を貫いた。

「――兄上!」

 グランセが、崩れおちたシュヴァインに駆け寄った。しかし、彼は即死であった。すでに息をしておらず、苦悶も未練も示さぬまま、シュヴァイン王は死んでいた。

 グランセの前で剣を構えたギルテが、マリオネストを睨む。

「正気ですか。神吏長」

「もちろん。王の死が必要だったのです。これにより、あいつの序列が降格される」

「あいつとは……? なんの話をしておいでです」

 そして、王の寝室にもう一人の闖入者が現れる。ヨモだ。グランセの腕の中で斃れたシュヴァインを見たとき、神の目は一瞬ゆがんだが。すぐマリオネストに向き直ると、ヨモは人の生き死にに囚われぬ超越した目で神吏長を見据える。

 マリオネストは逃げようとしたが、すかさず飛びかかったギルテに抗うこともできず、じゅうたんの上に押さえつけられた。

 ギルテが、マリオネストの背中に膝を乗せ、なぜです、と問う。

「なぜシュヴァイン王を手にかけたのですか」

 それに答えたのは、王女だった。

「王の死により、序列が降格されるのは――王の弟。ヨモだ。一時的に至近三階であった階級が失われる。しかし、なぜだ。どうしてヨモの階級を降格させたかったのだ」

「殿下はご存じか? わたしの序列が神階にあることを」

 以前、ヨモが話していた。三盟期の眷神が胎内世界に降りると、その肉体は神階という最上級の胎世序列を得ると。

「神階の肉体はね、至近階級の者しか傷つけることができないのだ。王の死により、至近三階の階級を失ったアグニマは、もうわたしを傷つけることはできない」

 グランセは、冷たくなっていく兄を抱えたまま、ヨモを見あげる。

「ヨモ……? マリオネストを傷つけたのは、そなたなのか」

 まっすぐ問われ、戸惑った様子のヨモは、いつもの気弱な仕草でしゅんとなった。

「うん……わかったから。マリオネストの正体と狙いが」

「狙いとはなんだ」

「保管だよ。マリオネストは、『火力の保管者』プルトナ神のくぐつなんだ」

 約神族の中でもとくに古い眷神だ。世界球に出現したありとあらゆる破壊力を記録し、保管するために存在する。

「ねえ、殿下。お願いだよ。僕の代わりに処刑してほしい。殿下の階級なら、マリオネストを破壊することができるから」

 細い剣を差し出されたが、グランセはすぐには受け取れなかった。マリオネストを見ると、その口元に薄笑みが浮かぶ。

「殿下。わたしに協力なさるなら、あなたに前世の記憶を戻してさしあげよう」

 どきっと胸が高鳴った。砂時計の中で生まれた、白く美しい、一角鳥。ひと目見ただけでアグニマが取り乱したのは印象的だった。あの鳥は、どんな最期だったのか。まったく気にならなかったといえば嘘になる。

 マリオネストは、グランセの願望を鷲掴みにし、なおかつ不安を煽る。

「アグニマを信用なさるな。言いなりになれば、前世の惨劇を繰り返すことになる」

 彼女の言葉に動揺したのは、ヨモだった。マリオネストはかまわず続ける。

「まだ至素帯がなかった千年前、眷神たちは地上を自由に闊歩していた。当時の眷神は獄災を振りまくはた迷惑な存在として、獄卒と呼ばれ、忌み嫌われていた。当然ながらこの時代は、眷神を追い返し、獄災を無力化するための研究がさかんであった――アグニマもその中の一人だ」

 ヨモは後ずさると、壁際に凭れて顔を伏せた。

「だが千年前のある日、アグニマの研究を応用した軍事兵器『太陽の鉄槌』が生まれ、世界の一部を焼き尽くした」

 王女は息を呑む。つらそうに顔を覆うヨモを見ていて、ふいに理解した。

 そうか、禁述とは。

 以前、至制学について会話したことを思い出す。至制学の基盤となる概念や理論、これらの発見者が一切記録に残っていないことをグランセが疑問視したとき、ヨモは実にふしぎそうな顔をしていた。おそらく――至制学の基盤を完成させたのはアグニマだ。しかし禁述によってそれは隠蔽され、誰もその偉業に着目しないまま千年が過ぎた。

「そなた、隠したかったのか」

 たとえ世界中誰一人として、自分について思いはせる者のいない、絶対的孤独な世界が訪れるとしても。

「軍事兵器『太陽の鉄槌』にまつわる情報を」

 抹消したのだ。自らの存在の記録ごと。自ら成した偉業ごと。

 マリオネストがさらに千年前の話を続ける。

「殿下は同じ時代に生きた聖獣だった。白い鳥よ、覚えていないか? どうしてその翼が黒く焼け落ちたのか。あなたは当時、アグニマを殺戮兵器の生みの親にしないために戦った。そんなあなたを、アグニマはどうしたか? 盗人と決めつけ、投獄した。アグニマがあなたを信じていれば、兵器は生まれず、世界は白炎に焼かれなかったのだ」

 壁に張りついた子羊は、じんわりと涙を浮かべている。

「ヨモ。本当なのか」

「ごめんなさい……僕を助けなければ、あなたは逃げられたのに」

 マリオネストが最後の追い打ちをかけた。

「さあ殿下。罪深き神を、終末炉へと追い返しなさい」

 うながされ、グランセの持つ剣の刃先が向かったのは――マリオネストの首元だった。ギルテに押さえつけられて身動きの取れないマリオネストは、視線で問う。なぜだ、と。

「前世の悔いだとか、千年前の偉人だとか、三盟期の眷神だとか、色々重苦しいことだがな。よく考えたら、リュテイスの王女である今のわらわには、さほど関係ないのだ」

 関係あることと言えば、それは。

「わらわは、ヨモがかわいいのだ。この子が泣きやむなら、なんだってしてやりたいほど」

 ヨモが壁際でびっくりしている。その衝撃で涙も止まったようで、グランセはふっと小さな笑気をこぼした。

 刃先を向けられても、マリオネストの口元は笑んだままだ。

 恐れを見せない。これが、三貴神を元に生まれた三盟期の眷神。人としての死など、まったく意に介さない生き物なのだ。悪意もなく、罪悪感も、愉悦や嫌悪もない。あるのは一つ、出現した火力を保存するという目的意識だけ。マリオネストの目的は、『太陽の鉄槌』をよみがえらせ、保管すること。火力を保管するという行為が、実存そのものである神なのだ。

 剣先が首元に押しあてられたが、マリオネストは余裕しゃくしゃくに言った。

「それでも殿下は、『太陽の鉄槌』を復活させざるをえないだろう。いつかわたしは胎内世界に再来し、よみがえった情報を集めればいいだけのこと」

 どういう意味だろう。王女は戸惑ったが、意を決して処刑を執行する。震える手はうまく肉を断ち切ることができず、見かねたギルテが手を貸してくれた。落されたマリオネストの首はフードに包まれたまま、ヨモの足元まで転がる。

 首だけになっても、マリオネストはまだ話ができた。

「わたしの負けだな。……アグニマ、神に届きし天才よ。終末炉の設計と構築を任された、史上類を見ない叡智の化け物よ。おまえの存在は、獄卒に蹂躙された胎内世界の怒りと悲しみが生んだ賜物だったのかもしれない」

 にやり、と薄いくちびるが笑む。

「奇異なことよ。プラセンタの懐胎より以降、この世界球は退屈を知らぬ」

 マリオネストの胴体と首は、溶岩のようにどろどろに溶け、床に焦げ痕を残して消滅した。

 曇天の下、王の寝室には空虚な静けさが戻る。

 手元に抱えたシュヴァインの遺体と、ベッドに横たわる先代の遺体を、順繰りに見る。凍てついた二人の沈黙を感じるうちに、死んだのだ、と腑に落ちる思いがした。すると今度は、徐々に怒りで腹が煮えくり返ってくる。

 天井をふりあおいだグランセは「ベライヤ神!」と怒鳴った。

「兄上の死には、眷神プルトナの手が加えられた。これは神による不正ではないのか!」

 いっぺんに二人の肉親を失ったグランセは、護神にすら噛みつくほど冷静さを欠いていた。

「ベライヤ神! これを見過ごし、獄卒となるか!」

 そのとき、付近に異様な闇がたちこめた。ギルテとヨモが周囲を見渡し、警戒態勢をとったとき、闇のベールは一気に三人を飲み込む。次の瞬間には、天蓋つきベッドも、アンティークデスクも、窓もカーテンも、何もかもなくなり。代わりに三人は、鉄格子の中にいた。湾曲するこの形状は、鳥籠だ。ただし、人間を収容できるくらいに巨大な鳥籠である。

 鳥籠の中は、意外にも華やかだ。大きさや柄、色の違うたくさんのクッションが床一面に散らばり、足の踏み場がない。ところどころに三段のティースタンドがあり、お菓子やパンが飾りものみたいに並ぶ。

 グランセは、クッションの海に寝そべる四人目の姿に気づいた。きらびやかな宝飾を垂らす、きわどい踊り子衣装の女が、悠然とクッションにもたれている。

「ここはわたしの箱庭」

 ふふっと踊り子がなまめかしく笑った。

「わたしはベライヤ。『堕楽の奏者』と人は呼ぶなぁ」

 グランセは圧倒された。これが、護神ベライヤ。

 王女のそばに張りつくギルテが、疑心に満ちた目でベライヤ神を見る。

「本当に護神なのか? 神吏の神託くらいしか、眷神との接触方法はないはずだ」

「緊急事態でね。なんせ禁忌が侵されたんだ」

 足を組み換えながらそう言ったベライヤに、グランセがむっとした表情で言い返す。

「ならば兄上の死の責任はどうされる? あれは神の干渉ぞ」

「いいとこ突くのぅ。……ううん、まぁ、なんとかできなくもない」

 それはシュヴァインの死をなかったことにする、ということか。途端明るくなったグランセの顔を、ベライヤは感慨深げに見た。

「わたしのかわいい子。ずいぶんと賢くなった」

 ベライヤ神は、グランセというより、グランセの魂に対して語りかけている。

「お気に入りのぬいぐるみだったんだよねぇ。かわいいおまえに、意志など必要なかった」

 聖獣のことだ。一角鳥は、ベライヤの支配下にいたらしい。

 ギルテが苛立ったようにベライヤを睨む。

「殿下を所有物扱いとは……たとえ護神であれど許容できぬ」

 グランセがギルテをなだめすかしている横で、ヨモが思案がちな顔をベライヤに向けた。

「当時からふしぎだった。一角鳥は、おまえが生み出した聖獣。おまえの命令に従うことが存在意義だった。……殿下が禁述の影響を受けなかったのは、おまえが例外的に一角鳥の魂を禁述から外したからだ。それは――もうあの子に、何かを強いることをしたくなかったからなのか?」

「アグニマよ。わたしはお人よしになる気はない」

 ベライヤは、癪に障った様子で髪を掻き混ぜる。

「一角鳥はわたしの命令にしか従わない生き物だった。それが、おまえに出会ってから、わたしの聖獣は汚されてしまった。……わたしの帰還命令に従わず、おまえなんかを助けるために、美しい命を散らしたのだ」

 ヨモが痛みのしみる渋面を見せると、堕楽の奏者はにまっと笑う。指輪だらけの踊り子の指がグランセに定められた。

「与えようかねぇ、殿下。シュヴァインを救う方法を。それだけではない、彼に変わって革命の申し子にもなりうるさ」

 ただし、アグニマの望みを踏みにじってもらうけどね。

 ベライヤの不穏な提案の仕方に、グランセは胸騒ぎを覚える。

「わたしはシュヴァイン王をよみがえらせることができる。だが護国の王族の蘇生は、護神としての領分を侵すことでねぇ。わたしの身柄は『選定神団』によって審議の場に引き出される。そのあいだ、リュテイス国の加護は停止するだろうよ」

 グランセはクッションの上で身を乗り出した。

「あなたの加護が失われるというのか」

「しばらくのあいだはな。シュヴァイン王の死が神の不正だったと証明されれば、めでたく無罪放免。この証明は簡単だから、いずれわたしの加護は復活することを約束しよう」

 しかし、時間は空くのだ。

 護神の話に聞き入っていたギルテが、興奮した様子でグランセを振り返る。

「殿下。リュテイスがゆらぎ、隙ができれば」

 クロテミス人の独立――亡国の復興の可能性が出てくる。

「あなたが革命を率いることができる」

 アヴァリの顔が頭に浮かんだ。しばらく黙りこんでから、グランセはふたたびベライヤに向き直る。

「アグニマ神の望みを踏みにじる、とはどういう意味か?」

「わたしの神格は一度停止する。それに伴い、わたしが敷いた禁述もとける」

 ベライヤの手元に、神器が出現した。シュヴァインの即位後、神吏によってベライヤの元へ返されていた白紙本を、護神は笑いながらグランセに投げ渡す。

「禁述がとければ、その本は白紙ではなくなる」

 ベライヤは終始ニヤニヤと愉しそうで、グランセは戸惑っていたが。話の筋を繋ぎ合わせて考えたとき、ひとつの推論が組みあがった。

「この本は、アグニマの研究書なのか」

 グランセの発想を、ベライヤは満足げな顔で肯定した。

 つまり禁述がとけ、記述がよみがえれば、『太陽の鉄槌』に関する情報も復活する。

「ベライヤ神。あなたが帰還すれば、禁述はまた機能するのではないのか」

「どうしてだね? あれはアグニマを『終末炉の管理者』にするための取引だった。わたしが帰還したとき、禁述を敷き直す理由がはたしてあるのかのぉ?」

 クスクスと踊り子姿の神が笑う。

 記述のよみがえった神器が存在していると、いつしかプルトナの化身が再来したとき、情報が盗まれるかもしれない。かといって本を処分すれば情報は消滅するが、リュテイス奏朱国は護神の加護を失うことになる。

 袋小路であった。

「ああ、やはりアグニマの研究書を神器にしておいてよかった!」

 ベライヤ神はクッションの上で寝転んだまま、のびやかに四肢を伸ばした。

「いつか来ると思っていたぞ。こういう絶妙に愉しい瞬間がね! アグニマよ――一角鳥よ、おまえたちの苦悶が、わたしはひとえに愛おしい」

 さあ、選びなさいなとベライヤが答えをねだる。

 シュヴァインをよみがえらせ、リュテイスをゆるがし、クロテミスの復活を先導するのか。引き換えに、アグニマの心を殺した大量殺人兵器を世に呼び起こして?

 悶々と考えるグランセを愛でるようにながめて、ベライヤは言った。

「一角鳥なら選ぶのは決まってる。そして王女なら、やはり選ぶのは決まっている。さあ、わたしのかわいい子。おまえはどちらを選ぶのかえ?」

 ヨモとギルテの視線を左右から感じながら、グランセはようやく口を開く。

「ベライヤ神。兄上をよみがえらせよ」

 ヨモのいるほうを見ることは、できなかった。

 ベライヤの高笑いが響く中、闇が薄れていく。そして閉塞的な鳥籠も闇と一緒に消えていき、三人は薄暗い王の寝室に戻された。グランセも、元通りシュヴァインを抱えた姿勢だったが、先ほどと違うのは。

「……グランセさん? どうして、俺は」

 腕の中の遺体が、熱を持っている。よみがえった。息を吹き返したシュヴァインは、グランセの膝の上でふしぎそうに目をぱちぱちさせている。血の痕跡がないのを確認し、シュヴァインを椅子に座らせた。

「兄上、すまぬ」

 唐突に謝られ、シュヴァインは困ったようにグランセを見た。しかしグランセは、疑問を受け付けぬというように意図的に兄から目を逸らし、ギルテを呼ぶ。

「兄上に手を貸してやってくれ。アヴァリたちのいるところへ連れて行くのだ」

「かしこまりました」

 よろけるシュヴァインが、ギルテに肩を貸してもらいながら立ちあがる。そのまま背中を向ける前に、グランセに尋ねた。

「グランセさん、どうして謝った。何を考えている?」

「……行け。兄上。仲間を救えなくなるぞ」

 質問を無視し、二人の横を通りすぎがてら――ギルテの耳に、命令を吹き込む。

「兄上によく尽くせ」

 自分のところに帰還するべからず、と。

 ギルテは目をすがめたが、やがてシュヴァインを連れて部屋を出て行く。閉じた扉を見つめながら、グランセはふっと笑った。

 なぜ謝ったか? ――きっと豚の本懐は叶わぬからだ。

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