3.2
ギルテに連れられ、ポルティコを抜けていくと、雨に濡れる広場へ到着した。宮殿前の円形広場は、三階建て建物が壁のように取り囲んでいる。王宮で儀式や発表があるとき以外は閑散としている場所が、今、人々でにぎわっていた。
いぶかしむグランセの耳元に、ギルテが簡単な説明をささやいた。
「数十分前、宮殿広場がならず者に占拠されました。神専衛兵団と神吏部が総出で対処しておりますが、状況は思わしくありません」
驚くべき情報に、目を剥いた。広場に集まっている人々をよく見ると、ほとんどが神吏服や衛兵の制服を着た者たちだ。ギルテによれば、すでにシュヴァインは王宮の安全な場所で厳重に守られているという。
「ギルテ。なぜここまで連れ出した? 仮にも王女であるわらわを、このような危険なところに連れてくるとは、どういう了見か」
「ならず者をご覧ください」
人垣のあいだを抜けると、中央が大きく開けていた。そこには直径六メートルほどの円盤があり、その上に黒服のならず者が数人立っている。彼らの乗る円盤は少々変わっており、複雑な模様や図形が組み合わさった彫り細工が刻まれていた。そして円盤の下は機械のように大小さまざな歯車が重なり、何十本もの鎖が何かの力でギシギシ歯車を動かしている。
円盤のふちに腰をおろし、足を組んだ女に見覚えがあった。林檎のように赤い髪を一つに束ねた盗掘者、アヴァリである。
「殿下。あれは楽園の支団、反リュテイス主義者どもです」
思わず前に出ようとした王女を、ギルテが止める。そのとき、すさまじい轟音があたりに響き渡った。空気を狂わせるような轟音は、石畳をなめるように這い、ひびを負わせる。柱を揺らし、そのまま広場を囲った建物の表面にぶつかると、激しい音の衝撃によってガラス窓を一瞬で破壊してしまった。
下にいた人々がガラス片から逃げ惑う中、グランセは円盤上を注視する。五メートル近い巨体を持つ盟志がいた。禍々しい豚の頭部が咆哮している。あれは、地下遺跡でシュヴァインが呼んだ『咆哮する屠殺者』――上級盟志だ。
そしてもう一体。円盤に座ったアヴァリの後ろで、十メートル近い巨体の女がしどけなく寝そべりながら退屈そうにあくびをしている。両肘をつき、うつぶせ寝になった女は、楽師の華やかな衣装に身を包み、手元にフルートを持っている。グランセはぞっとした。あれは三国戦争時、キャンデラ王がたった一人で数千人の兵士を殲滅したとき手を貸したと言われる、『
上級盟志が、二体。王女は察した。
「あれは……アヴァリが乗っているのは、盟紋機動装置。王族の盟紋を偽装して上級盟志を呼ぶという、ゾラタの遺物か」
「さようでございます。鍵がなくて機能しなかったそうですが、先日彼らは手に入れた。あれの鍵とは、王族の血を吸ったナイフ状のものだそうです」
遺跡で暗殺者がグランセを刺したナイフだ。あのあと彼は消滅したが、おそらくアヴァリがこっそり拾っていたのだろう。
神吏たちは盟流階級なので、上級盟志を二体相手にするのは厳しい。戸惑っていたグランセは、アヴァリと目が合った。微笑む彼女に手招きされ、しぶしぶ人々の前に出る。周囲の神専衛兵や神吏がグランセ王女の姿に驚く中、アヴァリが言った。
「さっきからずっと要求していたのよ、あんたを呼んで来いってさ。やっと来たわ」
「何をしている。そなたらの目的はなんだ」
「あんたに頼みがあるのよね」
アヴァリは、グランセの血が染みたナイフを手元でもてあそびながら言う。
「キャンデラ先代王を殺しなよ。さもないと『腐肢の娘』が王都を滅ぼすわ」
「……なにを」
絶句した王女は、急いで彼女の目的を探った。なぜ父殺しを要求されたのか――すぐに可能性に行き着く。王族同士の殺し合いは、第一級の禁忌である。この禁忌を護神が認識すると、正当性の確認がすむまで加護が停止し、大天紋が不安定化する。それが隣国の目に留まれば。
侵攻の、絶好の機会だ。
「戦を引き起こす、というのか」
アヴァリは不穏な笑みをくちびるに浮かべている。
「我々クロテミス人は、血みどろに噛み砕かれて、リュテイスの腹に飲み込まれた。そこから這い出るには、腹を切り裂かなくちゃなんないのよ。……あたしたちはもう、止まれない。楽園のために」
セブ派クロテミス人として、正直なところ、彼女らの悲願に共鳴する部分がある。しかし犠牲の大きさゆえに、リュテイスの王女として抵抗があった。
今、王女の比重はかなり不安定化しているだろう。連日のように味方を失い続け、精神的に負担がかかっている。この上さらに父殺しの重圧がかかったら、間違いなく王女の比重は墜落し、汚染者となる。この世の構造は、胎世序列の高い汚染者を許しはしない。アヴァリの言う通り動けば、グランセは終末炉に引きずり込まれる。
かといって、要求を突っぱねて『腐肢の娘』が王都を殲滅したとしても、グランセは罪悪感の重圧から逃れられない。やはり比重は狂い、終末炉行きだ。
ぐるぐると悩むグランセの後ろから、ギルテが耳打ちした。
「殿下。『肥えゆく死神』をご召喚ください」
グランセは眉をひそめる。上級盟志『肥えゆく死神』は、疑似的な終末炉とも言われる。ひとたび発動すると、術者が定めたものを消滅させるまで消えることはない。ただし、召喚性獄素の問題があるのだ。これは大量の召喚性獄素を伴って召喚されるため、獄耐値を軽く上回ってしまう。たとえ至近一級の王でも獄耐値が足りず、一度の召喚で溶け死ぬという。
呼び出すときは、命と引き換えだ。それを今、ギルテは提案している。
『肥えゆく死神』なら、ここにいる上級盟志二体も、盟紋機動装置も、根こそぎこの世から消滅させることができるだろう。
「殿下。他に手立てがございません。革命の申し子シュヴァイン陛下に敗北し、緑の女王ディオネ殿下にも敗北した今、残されたものは一つだけ」
ギルテの手が、下から掬うようにグランセの手に絡みつく。
「死して護国の伝説とおなりください。俺もお供いたしますゆえ」
剪定ばさみの音がする。
グランセの震えを許さぬかのように、きつく手を握られた。ギルテは一声かけてから、王女の袖口から盟承斗計を取り出し、王女に持たせる。円盤の針を、キチキチキチ、と動かすギルテの手元を、グランセは呆然と見ているだけだ。
アヴァリが不審そうな顔をしている。こちらの内緒話は聞こえていないだろうが、これ以上迷えば犠牲が出かねない。どちらにしても比重が乱れて終末炉に落ちるなら、ギルテの言う通り、ここで護国の伝説を築いて死ぬほうがましだろうか。
――ふいに、盟承斗計が手元から失われた。
突如介入したネフェルメダに蹴り飛ばされ、天高く飛んだ盟承斗計は、そのまま彼女の手中に落下する。
ギルテは王女から離れると、慣れた手つきで剣を抜いた。鋭い剣先を突きつけられたネフェルメダは、ギルテをあざ笑う。
「伝説をなぞるしか能がないとは。思ったより頭の働かない男だったね」
「……きさま、のうのうと俺の前に現れやがって。母を殺したきさまを、俺が逃すと思うか」
「仇を始末しただけだよ。わたしの妹を殺したやつをね」
ギルテはぐっと黙り込む。ネフェルメダはさらに挑発的に言った。
「こんな女王がお好みかい? 言われたまま死出の道をのろのろと歩く、こんな女が?」
ネフェルメダに指をさされたグランセは、弱々しい声で懇願する。
「その盟承斗計を返すのだ、ネフ。わらわは王女としての責任のもと、この解決法を選んだ。ギルテの言いなりではない」
「はあ? 何が責任だ。命を賭ければ民衆に認めてもらえるとでもお思いか。惜しい方を亡くした、と墓前で賛辞をもらえば満たされるのか?」
胸の奥で淀む願望を見透かされ、どきっとした。
くだらない、とネフェルメダが吐き捨てる。
「父の葬儀で殿下に棺をひっくり返されたとき、わたしは気づいたんだ。父のずるさにね」
「ネフ?」
「手っ取り早い方法で、恐ろしいほどの効果があったよ。そして周囲は、父の死をまるで貢ぎ物みたいに祭壇に乗せるのだ。生前あれほど無視していたくせに、二度と話せなくなった途端、ようやく耳を傾ける。……そうだ、殿下が壊した。祭壇に捧げられた父の死を、あなたが台なしにしてくれたのに」
ネフェルメダは、やけどで半分ただれた顔を、赤い革手袋の手で覆った。
「祭壇に戻したのはわたしなんだ。妹の言葉に耳を傾けず、汚名返上の望みを捨てられなくて……父の撒いた餌は、あまりにも」
悔しげに顔をあげたネフェルメダは、相対する王女が話の内容を理解しきれていないことを表情から悟ったようだ。しばし沈黙したあと、ネフェルメダの顔つきが極度の緊張感を帯びる。そこには覚悟の気配があった。
当惑するグランセに、ネフェルメダはささやいた。
「殿下。病原体の天敵を、ご存じか」
「ネフ? いきなり何を言うのだ」
グランセの返答を待たずして、ネフェルメダは楽園の支団を振り返った。ふところから何かを取り出して、アヴァリめがけて投げつける。放たれた玉がさく裂すると、またたく間に濃い煙幕が発生し、視野が妨げられた。
アヴァリが怒り狂ったような声で叫ぶ。
「ふざけるなよ、てめえら! 見せしめに王都の半分吹き飛ばしてやるからな!」
まずい。重い足音がする。『咆哮する屠殺者』が動き出した。あれが本気で咆哮すれば、アヴァリの言うように王都の一部が吹き飛ばされかねない。
煙の中で、王女はさまよっていた。『肥えゆく死神』を召喚したくとも、盟承斗計を持ち去られてしまったままだ。やがて煙幕が晴れてきて、盟紋機動装置のほうを確認したグランセは、目を見張った。
円盤の上に、ネフェルメダが立っている。さらにその上には、楕円形の鏡が浮いていた。縦幅五メートルはある大鏡だったが、鏡面は渦巻いており、何も映さない。グランセは、本で読んだことがあるため知っていた。
あれこそが――『肥えゆく死神』だ。
屠殺者の咆哮を寸前で止めたアヴァリは、ネフェルメダを見あげ、歯ぎしりする。
「……手癖悪いやつだな。この煙幕は、あたしが持ってた鍵を奪うためか」
そして王族の盟紋を偽装した装置で、王族にしか呼べない盟志を呼んだ。だが……代償は同じだ。莫大な召喚性獄素は、等しく術者に降りかかるのだ。ネフェルメダの服が溶け、皮膚も焦げはじめる。髪を溶かされながら、ネフェルメダは王女を凝視していた。
「殿下。よくご覧になられよ。死という餌をまいて逝く者が、どれほどずるいか」
病んだ三白眼が、アヴァリたちを一瞥した。ネフェルメダは、『咆哮する屠殺者』、『腐肢の娘』、そして盟紋機動装置を順に名指ししていく。すると頭上の大鏡が、術者が指定したものを鏡面に映した。『咆哮する屠殺者』の鏡像が渦巻いていくのに合わせ、現実に存在する屠殺者も歪んでいき。
術者に名ざしされた三つの存在は、歪みの果てに消失したのだった。
――そのころには、ネフェルメダの肉体も原形をとどめていなかった。広場の石畳に溶け落ちて、焦げたしみのような残滓が残るのみだ。『肥えゆく死神』も去ったあとには、茫然とする楽園の支団が取り残される。
滑落する音がする。けれども、その手を取れない。頂きを目指す者は、滑落する音をそのつど看取らなければならないのだ。
離れた場所に落ちていた王女の盟承斗計を、ギルテが拾った。それを渡されたが、グランセは受け取る余裕もなく顔を両手で覆う。
死という餌――ネフェルメダの遺言が、頭の中で思考を開く――グランセ王女の腹心が、命と引き換えにセブ派の殺戮兵器を止めた。この事実は、リュテイス人とローゼン派クロテミス人を少なからず惹きつける。王座への一本道も、よみがえるかもしれない。ネフェルメダの死は、勘違いした賛美を大衆に感染させる。これぞ病原体の本望なのだ。
彼女が口にした、病原体の天敵とは。
「……わかったぞ」
隔離だ。孤独こそが。
楽園の支団を捕まえようと、神専衛兵や神吏が動き出し、広場は一気にさわがしくなった。一人の神吏が王女に近づき、騒動から守るために王宮玄関まで後退するよううながす。ふと彼は、広場を振り返りつつ王女に尋ねた。
「グランセ殿下。二体の上級盟志をたった一人で止めてみせた、あの者。殿下のお知り合いなのですか?」
「ああ……どうだったか」
「お名前はご存じありませんか」
「知らぬ」
神吏が残念そうに去ったあと、ギルテがいぶかしげな顔で近づいてきた。なぜネフェルメダの名と栄誉を公表しないのか、と言外で尋ねていたが、王女はあえて気づかぬふりをする。
これでいい――大丈夫だ、ネフ。誰もそなたを賛美しない。病は隔離され、ここで終わる。わらわの胸を汚染し、死に至らしめるのみだ。
グランセは、朽ちるように笑った。
「護国の伝説か。たしかにくだらぬな」
「しかし、殿下」
「よいか、ギルテ。舌を引っこ抜かれたくなくば、二度とわらわに命令するでない。わらわはしみったれた聖者になどならぬぞ」
ギルテを睨んで黙らせると、横から神吏が駆け寄ってきた。そして王女は、予想外の報告を受けることとなる。
「大天紋が、不安定化しています。どうやら……」
禁忌が、破られた。
王女はつかの間息を止める。そして顔をあげると、王の間がある方向を見据えた。
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