3.5

 闇に溶けていた。

 頭を動かそうとしたとき、頬やあごの輪郭が闇から切り離されるような感覚があった。指を意識すると、そこに指ができていく。腕から肩を意識し、さらに胴から足の先まで意識することで、闇から身体が刳り抜かれていく。

 自分の体の輪郭すべてを思い出すと、ぷか、とみなもに浮きあがった。

 暗い水面に、なぜか手をつくことができる。さっきまで沈んでいた水が、今はやわらかな地面になっている。

 静かな理解が胸裏に及ぶ――わらわは、死んだのだ。

 気がつけば、背中に白い翼が生えていた。三対の豪奢な羽根だ。砂時計の中で見た前世の姿、一角鳥の翼とそっくりだった。意識したつもりはなかったが、魂の記憶がそれを形づくったのだろうか。

 グランセは、水面を歩いていく。頭上には果てなき夜空が広がり、とめどなく流れる星々が雨のように降り注いでいた。星のしずくを避けながら、黒い水面を進んでいくと、柱に挟まれた回廊が見えてくる。

 水面に浮かぶ石畳の上に裸足で乗ると、ふいに頭上で甲高い音がした。見あげると、ちょうど星が一つ、青白いシャワーを流しながら飛来してくるところだった。それはグランセのすぐ前に衝突するように着地する。

 ふりまかれた閃光の中で、誰かが立ちあがった。まぶしさのあまり、手で顔を隠していたグランセは、指のすき間から青年の姿を確認する。

 天高くから到来したその者は、白い長衣を後ろへひるがえし、深々とお辞儀をした。

「ようこそ、グランセ女王。わたくし、案内役を務めます――って、うわあああ!」

 顔をあげるや否やさわぎだした青年に驚き、グランセは後ろに飛びすさる。

「なんて格好を――なんか服着なさいよ、まったくもう!」

 両手で顔を押さえ、なおかつ後ろを向きながら、青年はぐちぐち文句を垂れる。グランセは一糸まとわぬ姿で立派な仁王立ちを披露すると、ふんと鼻白んだ。

「知らぬわ。布がないのだ」

「これでもまといなさい! はれんち女王め!」

 ばさっと投げつけられた白布を身に巻きつけながら、グランセは苛々と言い返す。

「失礼なやつだ。そなた、名乗れ。わらわが直々に舌を引っこ抜いてやろうぞ」

「この眷神ビブリエに向かって、なんと畏れ知らずな……面の皮が厚い女王なのだな。おい、ちょっと、見え、見えそうですって! 隠しなさい!」

 グランセは目を丸くした。この口うるさい男が、かの『尚書官』ビブリエ神とは。

「たかが片乳くらいで……」

 もぞもぞと白布で身体を覆い直すが、翼があるせいか、どうもうまくいかない。へたくそに布をまとったまま、グランセは尋ねた。

「ここはどこだ。わらわは死んだのであろう?」

「ここは『神々の回廊』。プラセンタの子供たちの世界です」

「プラセンタの子供とは?」

「あなたや、わたくしです。人間から眷神になった者のことですよ」

 グランセは耳を疑った。

「なんと言った。わらわを、眷神と」

「ええ――『欺瞞の暴君』グランセ。あなたは今、若き眷神となられた。正確にはまだ打診の段階ですが、あなたが受ければ正式に決まります」

 神々の末席に名を連ねることになる。そう教えられたが、グランセの理解は追いついていない。死んだと思ったのに目が開き、はたまた眷神と言われたところで。

「ここに二つの魂があります」

 そう言うと、ビブリエ神は両手に淡い光球を掲げてみせた。

「あなたが眷神となられたあかつきには、盟志として迎え入れてはどうかと思いましてね。必要なければ『輪廻の庭師』にお返しするが」

 ビブリエ神の両手からこぼれた光の球は、それぞれ人物像を形づくっていく。グランセの足元に膝をついた姿勢で出現したのは、ギルテとネフェルメダであった。

「お待ちしておりました。陛下」

 恭しく頭をさげた姿勢から立ちあがろうとしたギルテは、グランセを見た途端ぎょっとなった。慌てて背中を向けると、耳まで真っ赤にしながら「お召し物が」と弱々しく進言する。

 ネフェルメダもまた、あきれ顔で立ちあがった。

「なんてお姿ですか。女王のくせに」

「……直せ」

「御意」

 ネフェルメダは不格好な白布を一度はぎ取ると、腕の下や羽の付け根に添って巻き直し、胸元で見目よく結んで仕上げてくれた。くるっと回ると、膝下が花びらのように開き、薄手のドレスのようだ。

「ふむ。悪くないぞ」

 機嫌よくそう言ったグランセは、ふとネフェルメダと向き合った。

「なんだか久しく感じるよ、ネフ」

 暗い三白眼にはまだ病の影がこびりついているが、ネフェルメダは険のない笑顔を見せる。

「ビブリエ神の計らいによって、陛下の最期はこちらでも把握できております。……よくぞ成し遂げられました。最後はお一人であったのに」

 ねぎらいのあたたかさが染みて、グランセの鼓動が高鳴った。ネフェルメダはふたたびグランセの前に膝をつくと、手の甲にくちびるを寄せる。

「お許しいただけるなら、盟志としてお仕えしたい。この『病』が役立つのであれば、いつでも力をお貸ししましょう」

「……光栄ぞ」

 すると、ギルテも同じく膝をつき、反対の手に額を寄せた。彼もここにいるということは、やはりあのあと処刑されてしまったのだな、と思いあたり、胸の詰まる思いがした。ギルテは困ったように微笑む。

「どうか悲しまないでください。俺にとってこれほどうれしいことはありません」

「わらわの言ったとおりだ。結局そなたは、悪しき女王と心中しただけになってしまった」

「いいえ。陛下、そうではない」

 ギルテは、真新しい希望に満ちた目で爛々とグランセを見あげる。

「伝説なんてものじゃなかった。この上なく光栄なことです。俺がお供したのは、新たなる神の誕生という『神話』だったのですから」

 グランセは、その熱っぽい忠誠に若干あてられながらも、心が落ち着いていった。二人を盟志として迎える。浮き立つような、ふしぎな気分だ。ビブリエ神の認証を得て、あらためてグランセは、眷神という自らの立場を再認識する。

 ビブリエ神が指をパチンと鳴らした。すると回廊の奥に、ひときわ大きな扉が出現する。そこを潜ると、途端に景色が一変した。

 そこは王宮の廊下である。長い廊下には赤じゅうたんが敷かれ、左右に等間隔で並ぶ燭台と、見覚えのある絵画や花瓶。驚く三人の後ろで、ビブリエ神が説明した。

「ここはあなたの箱庭世界です。眷神になることを受け入れましたから、あなた方の実存はこの箱庭世界に設定されております」

 これが箱庭世界。ベライヤ神やアグニマ神のものとはだいぶ違う。

「生前なじみのあった風景や、印象深い場所をもとに構築されるのです。もちろん、そっくり同じではないですが」

 窓の外には、神々の回廊で見た星降る夜空が広がっており、ここが現実の王宮でないことを示していた。そのとき、王宮では聞いたことのない音色が廊下に響き渡る。

「これは、鐘か? どこからだ」

 きょろきょろするグランセに、二人の盟志はいぶかしげな目を向けた。ネフェルメダに「どうかしたのですか」と問われ、グランセは振り返る。

「鐘の音だ。今、鳴っただろう?」

「いえ、聞こえませんでしたが……」

 遠慮がちなギルテの返事にグランセが戸惑っていると、ビブリエ神が少し笑った。

「聞こえましたか、眷神グランセ。人の子の祈りが」

 ビブリエ神は、グランセを廊下の先へうながしながら話を続ける。

「あれは護神招来の鐘です。胎内世界の一国、リュテイス国の女王が呼んでいる」

「……神は答えたのか?」

「いいえ。まだどの眷神も応じていないようです」

 胸が早鐘を打つ。

「アグニマ神はどこにいる? あれもプラセンタの子供だ、神々の回廊におるだろう」

「え、アグニマ神ですか? 彼は律に関わる重要な神なので、回廊にはいません。終末炉のある界域にいるはずですが」

「では、この鐘は聞こえないのか?」

 ヨモ。そなたは、あの約束を。

 グランセが混乱しはじめる中、ギルテが顎に手をあて、考え込みながら言った。

「ビブリエ神。グランセ女王が眷神となったいきさつをお教えいただきたい。誰かしらの推挙があったのではありませんか?」

 ビブリエ神は少々沈黙したが、やがてうなずく。

「それは誰です」

「教えられません。ただ、位の高い神である、とだけお答えできますね」

「たとえば、アグニマ神のような?」

 ビブリエ神は微笑んだまま答えない。

 ギルテが鋭いまなざしでグランセを振り返った。

「おわかりか、彼の意図が」

「なんだ……?」

「あなたは眷神となられた。なら、あなただって就任できるのだ――リュテイスの護神に」

 直後、ふたたび鐘が打ち鳴らされた。その音色は痺れを伴ってグランセの身体に染みこみ、隅々まで響き渡る。

 興奮したグランセの横で、ビブリエ神は心得たように両開きの扉を指し示した。

「この扉を潜りなさい」

 ここは王宮だと、神儀の間に位置する部屋だ。そこにある扉は、現実世界では獣たちを導く踊り子の彫り細工が施されていたはずだが、今はなんのレリーフもない、まっさらな金属製の大扉になっていた。

 扉を潜った先にあるのは、狭い足場と、吹き抜けの高い丸天井。王宮のそれと違うのは、吊るされた大皿が一つだけだということ。そして大皿まで続く階段が手前にあることだ。

 ビブリエ神にうながされて階段を上り、大皿の前に立つ。一緒についてきていたビブリエ神が、小刀を渡してきた。

「大皿にあなたの血を垂らしてください」

 言われるまま指先を切って、血を一滴垂らす。すると大皿が降下しはじめたのだ。それは鎖を引っぱり、はるか下方に積もる鉄球を次々と浮かせていく。たった一滴の神の血が、あれらの鉄球を浮かせる重量を持つのか。

 これが神重計。

「次に、神器の設定です。ふさわしいと思うものを思い浮かべてください」

 まずグランセの頭に浮かんだのは、妹の顔であった。いまごろ何も乗っていない大皿が鉄球を浮かせ、眷神の降臨に気づいたころだろうか。次に思い浮かんだものを細部まで明確に思い出していると、大皿に垂れた血がぐにゃりと動き、まさに今グランセの頭の中にある物質を正確に作り出していった。

 大皿の中央に鎮座するものを覗きこみ、ビブリエ神が「これが神器でよろしいですね」と確認をとる。

 グランセはうむ、とうなずいた。



 静まり返った神儀の間で、ディオネ女王は貴賓皿の上に膝をついている。ジャンスや神吏たちが見守る中、神重計はまだぴくりとも動いていない。

 あと数分もすれば、大天紋が完全に崩壊する。そうなれば隣国は護神の不在を確信し、派兵がはじまるだろう。その前に新たな護神を降ろさなくてはならない。

 ディオネはもう一度、手元の神鈴を鳴らした。その音色は至素帯を越え、胎外世界まで響くというが、実感がわかなくて不安になる。だが顔を伏せ、大皿の下を見ようものなら、落下死した姉の遺体が視野に入ってしまって取り乱しそうだ。

 神鈴の澄んだ音色の中で、ディオネは思案する。姉はおそらく、狂っていなかった。なぜ自らの命を犠牲にしてまでベライヤ神を追い返したかったのかはわからないが、次なる眷神を国に残していく覚悟と冷静さは少なくとも持った上で、悪しき女王を演じていた。誰のためだったのか。何を守るためだったのか。

 自分は本当に、このまま――姉の不名誉な死を正さず女王になるべきか。ディオネの声なき問いに答えるように、そのとき、神重計が動きはじめた。何も乗っていない大皿がカチカチとさがり、下に転がる巨大な鉄球を持ちあげていく。

 ディオネの両手が震えた。

 ――神よ。眷神よ。

 周囲がざわめく。背後で神吏たちが動き回る気配がしていたとき、ふいに天井からふしぎなものが降下してきた。ステンドグラスの彩りを借りた光が、古代文字を形づくり、ひらひらと空中を舞いおりてくる。

「神託だ! 陛下、ビブリエ神がお言葉をくださいましたぞ!」

 神吏たちが目を皿のようにして、浮遊する光文字を解読していく。

「陛下、新しい護神です。その御名は――『欺瞞の暴君』グランセ」

 ディオネは、聞き覚えのないその名を聞いた途端、なぜかなつかしさに見舞われた。なんの脈絡もなく姉のことを思い出す。だが亡き姉の名は、グランセではない。なのになぜ、音が重なる気がするのだろう。

 大皿の下を見ると、いつの間にか姉の遺体が消失していた。眷神の降臨と共にこの世から消えてしまったらしい。血のあとすら残らぬ鉄球を見おろしていたディオネを、ジャンスが興奮した声で呼ぶ。

「陛下、ご覧を! 神器を承りましたよ!」

 神が載っている大皿は、すでにディオネの正面まで降りてきていた。

 鎮座するのは、鉢植えの――ハエトリグサ。その二枚葉は、リボンで結ばれている。

 そっと受け取り、胸元に抱きしめた。姉のいたずらっぽい笑みが頭に浮かぶ――内緒だぞ、と口元に指をたてる姉が恋しくて、ディオネはぽろぽろ涙をこぼした。

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