2.7

 ディオネと別れ、先に屋敷に戻って間もない時分、神領保護官がグランセの部屋の扉をノックした。王女が応じると、若白髪の目立つ神領保護官は急ぎ足で入室してくる。どうして彼がこれほど急いでいるかというと、グランセに先んじてシュヴァインと先代王が王都に帰還することになり、護送団の一員である彼も昼前には屋敷を発たねばならないからだ。

「おはようございます。慌ただしい訪問、失礼いたします。例の品、急ぎ受け取らせていただきたいのですが……」

「そこのテーブルの上だ」

 神領保護官は、布に包まれた長方形の品を手に取り、中身を確認した。古びた皮表紙をめくり、何も書かれていない白紙のページを幾枚か調べる。神領保護官の目でようやく本物の神器と確信できたらしく、厳しかった目がほっとゆるんだ。

 王女が言葉少なに「もう行くがよい」と追い返そうとすると、神領保護官は戸惑ったように尋ねる。

「一つお聞かせ願えますか。殿下はこれを、どちらで発見なさったのです?」

「……説明が面倒だ」

 本音である。どうせ誓約のせいでマリオネストのことは話せぬし、先代王が事実証明に協力するとも思えない。体のいい作り話を用意するべきだったが、あいにく疲れのほうが勝っており、そんな余力はなかった。

「しかし……古至制管理部長や神吏長になんとご報告すれば……ご説明いただけないと、殿下にあらぬ疑いがかけられかねませんよ」

「好きにせよ」

 すげなく答える王女にため息をこぼすと、神領保護官は神器を大切そうに抱えて退室する。グランセが王都に帰還するころには、シュヴァインは正式な王となっているだろう。

 窓際に立ち、庭の花壇を一望した。昨夜、そのかたわれで一人の遺体を看取ったことなど忘れたように、色とりどりの花が陽光を浴びながらゆれている。その鮮やかな色彩に踊るはずの胸に、大きな空洞が空いていた。

 ニルの言う通りだ。自分にはもう、ニル以外の味方がいなかったのだ。失った途端、世界は棘だらけの感触でグランセを迎えるようになった。

 革命の申し子、シュヴァイン。

 緑の女王、ディオネ。

 ――自分は、何も持たない。

 疲れきった頭を振っていると、部屋の扉がごく自然に開いた。ノックもせず、まるで自室に入るみたいな顔で踏み込んできたヨモだったが、注意する気力のないグランセはため息しか出ない。

 ヨモにはまだ神器を発見したことを話していない。シュヴァインの護送団に混ざって彼も王都に帰還するので、知るのは車中だろうか。神器は王女が隠していたといううわさは確実に広がる。そのときはヨモもまたグランセに背を向けるのか。

「おはよう、殿下。さっき庭でシマリスの親子を見たよ」

 かわいかったなあと頬をほころばせるヨモを見て、グランセは一気に力が抜けた。そして同時に、危機感を覚える。自分にとってヨモが今、唯一のよりどころになっていることを自覚したからだ。

 しかしヨモは――人ではない。神だ。そして神々の中でも異質の孤独の中を生きている。

「ヨモ。終末炉は、さみしくないか」

 窓に張りつき、庭を見おろしていたヨモは、ゆっくりと王女のほうに顔を向けた。マリオネストの言う通り、人の生き死に程度では揺れない心を持つがゆえに、孤独も平気なのだろうか。

 神の目が、王女を見据える。

「どうしてだろうね。殿下はなぜ、禁述きんじゅつを打ち破るのだろう?」

「禁述、とは……?」

「ある時期、眷神ベライヤが胎内世界にほどこした術だよ。誰もアグニマに関心を持たなくなる、というもの。僕がどこから来たのか、いつの時代を生き、何をしたのか。ベライヤの禁述はそれを知ろうとする感性を一切禁じたはずだった」

 だから、アグニマに関する情報は何一つ調査されていなかったのか。歴代の神吏たちもまた禁述の中で、神託によってアグニマの来歴を知ろうとする行為を禁じられていたから。

 しかし。誰一人として終末炉の管理者に思いはせる者のいない世界。なんと孤独だろうか。

 圧倒されたグランセをよそに、ヨモは堪えた様子もなく思案がちに目を伏せる。

「困ったな。もし眷神の禁述をくぐり抜けられる魂だとすれば、規制の神々『選定神団』がその存在を許さない。知られればきっと、僕のもとに指令が下るだろう――あなたの魂を消滅させよ、ってね」

 グランセは、胸が高鳴るのを感じた。

 ヨモのやさしい手に引かれ、辿り着いた世界の果てで、終末の炉へ足を踏み入れる。それはなんて……安らかなんだろう。

 連れて行ってくれるのか、ヨモ。

 胎外世界に息づくまなざしが、やさしく笑んだ。

「ごめんね、殿下。少しだけ調べさせてね。大丈夫、痛くないから」

 ヨモの手が白い火を呼ぶ。たちまち室内に炎の波が押し寄せたと思ったら、次の瞬間には景色が一変していた。壁はあちこち焼け焦げ、ひび割れた天井からは破損したシャンデリアが斜めにぶらさがり、中央のテーブルは砕けて床に散らばっている。あのときと同じ、アグニマの箱庭世界だ。

 一つ違うのは、天井まで届かんばかりに大きな砂時計が鎮座していたことだ。

「この砂時計はね、前世の姿を抽出することができるんだよ。それによって来歴を調べ、前世の名に基づいて『記録保管庫』ハイパティア神の索引で情報を探す」

 よくわからない説明を受けながら、グランセは手を引かれ、砂時計の中に入れられた。ずり、と砂に足が沈み、身動きが取れなくなる。やがて砂の落下がはじまり、王女のいる上部分の砂がどんどん減っていった。真ん中のくびれ部分を通って落ちていく砂は、下部に蓄積するのではなく、何かの輪郭を作りあげていく。

 鳥だ。鶴のようにすべらかな頭部に、特徴的な角が生えている。三対の翼を広げた白い一角鳥をガラス越しに見おろし、グランセは嘆息した。これが自分の前世なのか?

 そして、ヨモは。

 大きく動揺しながら、ガラスにとりすがった。

「あなたは――死の獄卒に、喰われたはずでは」

 砂時計の下部にへばりつき、食い入るように一角鳥を見ていたヨモは、突如こぶしを振りかざし。力任せに砂時計を割ると、一角鳥に手を伸ばす。角の生えた頭を両手でそっと包み、その額に顔を寄せたが、砂の輪郭はみるみるうちに崩れ出し、一角鳥だった砂はヨモの手からこぼれ落ちていった。

 ヨモは、うつむいたまま低くつぶやく。

「ベライヤだ。あいつの小細工だ。僕を終末炉の管理者にするための嘘だった。あの子は、死の獄卒に喰われてなどいなかった」

 苦しげに両手で頭を掻きむしったあと、アグニマはのっそり立ちあがる。無邪気さを忘れ、一気に重圧を増したアグニマの目つきは、切羽詰った感情ではち切れそうだ。この不安定さに見覚えがあった。ディオネだ。母の死が自分のせいだと思い詰めていたときのディオネも、罪悪感を煮詰めた危なっかしい雰囲気を抱えこんでいた。

「僕が眷神アグニマとなったのは、あなたのためだった」

 アグニマが手を掲げると、グランセを入れた砂時計が消えうせた。同時に部屋を焼いていた白い炎も消失し、屋内はもとの様子に戻る。

 平和な花壇が一望できる窓際に突如として戻され、グランセはよろめいた。すかさずアグニマの手が背中を支える。体勢を立て直したあともアグニマは王女から離れようとせず、腕の中にグランセを閉じ込めたまま、徐々に顔を近づけた。

 耳元で、やわらかい声が鼓膜をなでる。

「殿下。王座を目指して」

 嫌だ、と反射的に首を横に振った。

「王座はもうよい、よいのだ。わらわは女王をあきらめた」

 欲しいのは、権力でも栄光でもない。もう誰にも痛めつけられない、誰にも見放されることもない場所――終末炉の中へと、王女の気持ちは惹きつけられている。離れようとしたアグニマの腕に、グランセは取りすがった。

「アグニマ、わらわを連れて行け」

 だがアグニマは、渋い顔でグランセを引き剥がす。

「連れて行けない。たとえ規則の神々があなたの魂を処分するよう、命令してもだ。僕は絶対に、あなたの魂を終末炉には連れて行かない。……あなたは、今度こそ」

 寄る辺をなくして震えるグランセの頬に、アグニマが手のひらを添えた。あたたかいのは一瞬で、すぐに体温は去ってしまう。

 身をかがめ、目線を合わせたアグニマは、王女の疵をなでるようにやさしく言った。

「あなたは今度こそ、地獄に捕まることなく、高いところへ帰るんだよ」

 きびすを返したヨモは、グランセがその場に座り込んでしまったことにも気づかぬまま、部屋を出て行く。午前の軽やかな陽が差し込む中、グランセは砕けたガラスのように茫然としていた。

 呆ける頭が唯一理解できたのは、自分はヨモにまで拒絶されたということだ。

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