第13話 LAST MEMORY
地面が、世界が大きく揺れた。
昼下がりの街中が、先ほどまでとは違う喧騒に包まれる。
横断歩道を歩いていた俺は、堪らずその場に倒れ込んだ。
赤い光が見える、トラックがこっちに近付いてくる。
立ち上がろうとした。
前に進もうとした。
何かを叫んだ気がした。
身体がバラバラになるような衝撃があった。
光に包まれて、目を開いた。
そこには赤が広がっていた。
赤、赤、赤、赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤アカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカアカあかあかあかあかあかあかあかアカ赫赫赤アカあああかかか赫アカ赫赤あか赤アカ赤あかAkaあか赤赫アkaあか赫あかAかあか朱アかあかあかあかあか、あか。
一色に染まった世界。
いいや違う、染まったのは世界ではなく……。
最期に。
真っ赤な腕が見えて、俺の意識は黒に染まった。
◇
振動を感じて目蓋を開いた。
目の前が真っ赤だった。いや、赤いのは世界じゃない、俺の方だ。
全身の感覚が薄くなってしまったような、妙な気分の悪さがあった。五体が満足についているのかすら判然としない。
それでも僅かに感じる違和感に右を向く。そこには翼がついていたが、太い枝に貫かれ大穴が開いていた。
痺れたような感覚が緩く伝わるが、痛みはない。これじゃ飛ぶこともできないなと、どこか他人事のように見ている自分がいる。
思考がふわふわと揺蕩って、思考がまとまらない。
翼だけじゃなく全身がボロボロだ。死んでいない……これで痛みがないということはありえない。なんとなくではあるがわかる、身体が致命的な損傷を受けたことで感覚を切っているのだと。
地面が大きく揺れた、徐々に意識が覚醒していく最中、すぐ横を丸太のような脚が通り抜ける。
左目がないネメアタウロスが悠々と歩いている。俺に気付いていないのか、先ほどまでの臨戦態勢ではなく、ただ自然体で歩いているように見えた。
ヤツかまだ近くにいるということは、気を失ってからそんなに時間は経っていないらしい。
改めて周囲を確認する。そこかしこに折れて砕けた木が散らばり、巻き添えを食った生き物達が転がっている。俺のすぐ側にも、全身から体液を垂れ流す死にかけのフォレストクロウラーがいた。
それらを見て、意識を失う直前のことを思い出す。
大声で耳をやられ、動けなくなったところにネメアタウロスが突っ込んで来た。だが、何とか動いた翼のおかげで直撃は回避したのだ。そうでなければ、俺の身体はとっくにバラバラになっていただろう。
俺に当たったのはヤツの鬣の端、それだけだった。突進の風圧に巻き込まれただけで吹き飛び、洗濯機に放り込まれるように他の破壊される物に混ざって全身を掻き回され、意識を失った。
毛先が掠っただけで致命傷、そんな相手に無謀にも立ちはだかった代償がこれか。
いいや、それ以下だろう。だって俺は逃げていただけなんだから。
……もう一つ、思い出したことがあった。俺がずっと逃げ続けていたもののことを。
吹き飛ばされる瞬間、俺は死んだ。
あの日、高校三年生になったばかりの頃。街中を歩いていた時に地震が起きた。横断歩道のど真ん中で立っていられなくなって座り込んでしまって、そこにトラックが突っ込んで来て……。記憶は、そこで終わっている。
つまるところ、死んだのは
ははっ。マジかよ、転生トラックって実在したんだな。
一歩先まで迫っていた死が瘡蓋を剥ぎ落とした。何がまだ死んだとは限らない、だ。俺は前世の記憶をなくしていたわけじゃない。見たくないものに蓋をして、そこから目を逸らしていただけなんだ。
ここがどういう場所なのかはわからない。ゲームの中なのかも、違う世界なのかも。だけど、そんなことはもうどうだっていいだろう?
だって俺はもう、死んでいるんだから。
あの場所には帰れない。友達にも、家族にも会えない。この世界に俺を知っている人なんていない。
ただのガキがそんなことに耐えられるわけがなくて、自分自身で記憶に蓋をして。
現実から目を逸らすために、唯一俺が知っている物語に縋りついて、ストーキングだなんてふざけたことを言って。
死が蔓延する森で、馬鹿みたいにはしゃいで何も見ないようにして。その癖何もかもが恐くてすぐに逃げて。
けれど結局逃げきれなくて、置いてきたはずの死にすら追い付かれて。
蓋をしていた記憶は、死の恐怖によって開かれた。
俺が記憶から目を逸らしていた最大の理由……それは、恐かったからだ。
死を経験した者が他にいるかはわからない。だけど俺は知ってしまった。
死は、終わりだ。
終わりが終わりで終わりの終わりは終わりと終わり。
他の何かに喩えようがない。あれは終わりという概念そのものだった。
何もない虚の中に、存在が溶け込んで消えていく。あの恐怖を何と表現すればいいだろうか。
魂に刻まれた圧倒的なソレは、思い出した今となっては考えるだけで背筋が震え、心臓が止まりそうになる根源的な畏れ。
嫌だ。死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない。あんな思いをするのは二度とごめんだ。
俺の身体はボロボロで、放っておけば死にそうな有り様だ。
けれどまだ生きている。死んでいない。
幸い、ネメアタウロスは俺を始末したと思っているのか見失ったのかはわからないが、意識をこちらに向けていない。とどめを刺しに来ることはないだろう
こんな大怪我が治るのかはわからない。もう少ししたら失血で動けなくなるのかもしれない。
けれど今はとにかく死にたくない。今この瞬間に死なないのであれば何でもいい。
震える身体を無理矢理押さえて、荒くなる息を窒息しそうになるほどこらえて、この場を離れていく怪物の背中を見る。
ヤツは木が折れて土がめくれた道を戻っていく。あのまま進めば、元の場所に戻るだろう。レイ達がいるあの場所に。
彼らが今どうしているのかはわからない。もう一体のネメアタウロスは倒せているのかも、レイの傷が癒えているのかも。
希望的観測を述べるなら、レイは戦線復帰し、一体目を倒しているだろう。敵が一体だけならば、あの二人が遅れを取ることはない。すぐに片付けてハッピーエンドだ。
だけど。
だけどもし、まだレイが倒れたままで、一体目が健在であったのなら……。
やめろ、考えるな。
おまえは十分にやった。ただの雑魚モンスターがボスモンスターを引き付けて時間を稼いだんだ。それだけで大金星じゃないか。
あいつらを助ける必要なんてないんだ。見知った顔だとしても所詮は他人。昨日初めて会った相手のためにここまでボロボロになった。義理立てする必要なんてないのに、だ。
そもそも良い予想が当たっている可能性だってあるんだ、だからもう戦う必要なんてない。ここで隠れてやり過ごせばいい。
あんな恐いことはもうごめんだ。死なんて二度と味わいたくない。
逃げよう。死から、全てから。そうしてしまえば、恐いことなんて何もないんだから。
そうして俺は、この戦いから逃げた。
なのに。
それなのに。
どうして震えが止まらないんだ。
怪物の背が、死の気配が遠ざかるほどに、身体の震えが大きくなる。
死は恐い。恐いものが消えていくのに何故俺はまだこんな恐怖を感じている?
命が拾えるならなんでもいいじゃないか。逃げることの何が悪いって言うんだ。俺は一体何を恐れている。一体何から逃げている。
頭に浮かぶ未練を、全部振り払って逃げようとした。村の様子を、ギリーの顔を、レイの顔を捨てて──
──レイが伸ばした、血塗れの手が脳裏に浮かんだ。
その瞬間、ガラガラと音を立ててもう一つの蓋が崩れる。
前世の記憶、その最期……。その、ほんの僅か手前の記憶。
迫る
悲鳴が上がった。動かそうとした身体はあまりにも遅くて。
衝撃、暗転。閉じていた目を開くと、真っ赤な世界の中、血溜まりに沈む誰かの細い腕が見えた。
そこで、記憶の全てが終わる。
気付けば身体の震えが止まっていた。
怪物の背を見る。俺の力ではどうしようもない死の化身を直視する。
恐い。恐くてたまらない。
けれど……。
感覚が消えつつある身体を無理矢理に動かす。錆び付いた蝶番のような動きで身を起こした。
翼も使った四足歩行で一歩踏み出すと、あちこちの傷から血が噴き出した。
痛覚が切れていて良かった。もし痛みがあったなら、動くことすらできなかっただろうから。
何が全部思い出した、だ。一番忘れちゃいけないものから、目を逸らしたままだったじゃないか。
あの日俺は死んだ。死の恐怖を刻まれ、俺を知っている人などどこにもいないこの世界に放り出された。
けれど死の前に、死よりももっと恐ろしいものに出会っていた。
一歩踏み出すのに恐ろしく時間がかかる。痛みはないが、何か大事なものが俺の中から零れていくような感覚があった。
息を吐いたつもりが、口から出たのは血の塊だった。ははっ、本当に零れやがった。
死神の足音を間近に感じながら、違う恐怖に背を蹴り上げられて前に進む。
……あの日、あの場所にいたのは俺だけじゃない。
横断歩道の少し先、車椅子に乗っていた誰か。
顔も見えない誰かも俺と同じで揺れに耐えきれずに車椅子ごと倒れ、そこに鉄の塊が突っ込んで来た。
このまま動き続ければ死ぬ。そんな自覚があった。
目の前、俺の巻き添えを食らって死にかけているフォレストクロウラーがいる。もう永くはないだろう。
そして、このままなら俺もそうなる。ただの肉になって『終わる』。
怪物の背はどんどん離れていく。
間に合わなかった。
衝撃があって、気付くと俺とその誰かは真っ赤な世界で倒れていた。
原型を留めていない身体の先に、奇跡的に無傷な赤い腕がついていた。
それに向かって手を伸ばした。もう意味がないことは知っている。けれど手を伸ばさずにはいられなかったのだ。
肉が震えた。
──『助け……』──
ぱたりと、二人の腕が血溜まりに沈んで、俺の意識は黒に呑まれた。
ガブリと、死にかけのフォレストクロウラーの頭を噛み砕いた。
目の前の生き物がただの肉塊に変わる。命が喪失されていく感覚。
偽善とわかっていながら、心の中で詫びた。生きるために命を奪ったことを。
身体の中に何かが入ってくる。僅かではあるが抜けた力が補完され、細かい傷からの出血が止まった。
レベルアップ。力の上昇とともに……擬似的な回復が行われる。
今この瞬間にそれが来るかは賭けだった。けれどどうやら、命賭けの博打に女神が微笑んだらしい。
そのまま微笑み続けていてくれと祈り、破けたままの翼に力をこめる。ろくに飛べそうにはないが、片翼でも勢いをつけることくらいはできるだろう。
レベルアップに伴う空腹があったが、無視して前に出る。今は何も腹に入れる必要がない。
痛覚は戻ってきていないが、それが逆にありがたい。今動かなければならない状況で、痛みは邪魔になるから。
俺は、今からネメアタウロスに喧嘩を吹っ掛ける。
無茶、無謀。そんな言葉ですら言い表せない愚行の極み。
万全の状態ですら勝ち目のない相手に、棺桶に片足突っ込んだまま挑む。
恐怖という感情をどこかに忘れてきたかのような、蛮勇という言葉すら生温い所業だが……。
当然、俺は死の恐怖を忘れちゃいない。あんな恐い思いは二度としたくない。
ならば何故、こんなことをするのか。それは、もっと恐ろしいものを知っているからだ。
あの日、目の前で失われた命。助けられなかった誰かの腕。
見知らぬ誰を助けられなかったことは、己の死よりも苦しかった。
……我ながらイカれていると思う。自分の死を体験したことより、顔も見ていない誰かの死を見たことの方がずっと恐かったって言うんだから。
だけど、それなら仕方ないじゃないか。このまま隠れて自分の死から逃げるより、もっと恐い誰かの死から逃げるしかないじゃないか。
今もあの場で戦っているだろう二人の少年、彼らの死を想像するだけで、心が張り裂けそうなほどの恐怖を感じる。
だから、その恐怖に立ち向かう。
ガチリと、思考が音を立てて切り替わる。今までずれていた前世と今世、二つの意識が歯車のように噛み合い、今度こそ完全に一つになった。
俺は死にたくない。あいつらを死なせたくない。
前言を撤回しよう。逃げるのはやめだ。恐怖から目を逸らすな、死に克ち勝て。
さっきまで恐怖の象徴だった背を睨みつける。あの怪物をどこにも行かせはしない。もう誰も、俺の目の前で死なせない。
戦いを前にしてふと思う、奇しくもレイ達と同じタイミング、同じ敵。数時間前までならどう思っていただろうかと。
状況は最悪、体調は劣悪、つまり万事に支障なし。
そして俺は、初めての戦いに立ち向かう。今度こそ、目の前の誰かを失わないために。
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