第14話-B アンノウン・ブラック

「ぜあぁああああっ!!」


 裂帛の気勢と共に放たれた大上段からの斬撃が、傷だらけのネメアタウロスの頭部を真正面から捉えた。


 渾身の力が込められた銀色の剣は怪物の頭部を深々と切り裂き、その刃で命を刈り取る。

 呻きき声すら出すこともなく小山ほどもある巨体が倒れ伏し、そのまま起き上がることはなかった。


「やった、か……」


 その骸の前に立つ二人の少年、今しがた決着をつけた彼らの状態も、決して軽傷というわけではない。

 回復薬の効果が出たとはいえ、重症の身体を押して戦闘に復帰したレイその顔色は青く、吐く息は荒い。

 そしてレイが戻るまでの数十分間、一人でネメアタウロスを相手取り続けたギリー。己を囮にした行動で体力は磨り減り、その身には大小様々な傷が刻まれている。


 辛勝、そう言って差し支えないだろう。もしレイの復帰があと数分遅れていれば、もしギリーの体力が先に尽きていれば、彼らとモンスターの立場は逆転していただろうから。

 そして、勝利の余韻に浸っている時間もなかった。


「早く、追わないと」


 レイの言葉の通り、正確にはまだ戦闘は終わっていない。乱入して来た二体目のネメアタウロスがこの森にはいるのだから。

 だが、正直な話をすれば今の状態でもう一体のネメアタウロスを相手取るのは自殺行為だ。それほどに二人は疲弊しきっている。


 何より突如現れた謎の存在、あの『黒』が何なのかが一切わからない。状況だけ見ればレイ達を助けたようにも思えるが、得体の知れなさが彼らの警戒心を刺激する。

 もしもアレが敵だったならば、自分達に勝ち目はあるのだろうかと。


「行こう、ギリー」


 けれどレイは足を踏み出す。自分達がここで引けば村に被害が出る。それだけは絶対に阻止しなければならないと、鋼のように意思を固めて。


「……ああ」


 ギリーはそれを止めるべきか悩んだが、こちらを見る瞳に込められた決意を見て取り、止めても無駄だと判断する。こうなっては誰にも止められないと、幼い頃からの付き合いで知っていたからだ。

 故にギリーも同道する。いざとなれば張り倒してでもレイだけは逃がす。そんな覚悟を決めながら。






 追跡を開始してしばらく。幸いと言うべきかはわからないが、あの場を離れたネメアタウロスは森の木々を薙ぎ倒しながら進んでいたらしく、破壊の痕跡を見れば足取りを辿ることは容易だった。


 移動しながらではあるが息を整え、森の奥へと進んで行く二人。いつ戦闘になっても対応できるように気を張り詰めていた彼らだが、その気構えは杞憂に終わる。

 破壊の痕跡が途絶えた場所、眠るように倒れ伏しているネメアタウロスが彼らの前に現れた。


 最初にそれを見つけた時、あるいはただ眠っているだけなのではないかと二人は思った。その身体には傷がなく、とても死んでいるようには見えなかったからだ。

 しかし警戒しながら確認すると、その身体は冷たく、完全に生命活動を停止させている。


「死んでる、よな?」

「うん。でもどうやって……」


 左目に刻まれた傷以外に外傷は見えない。おそらくは『黒』がこれを為したのだろうが、辺りにそれらしい気配もなかった。

 ひとまず戦闘は回避できたのだろうかと、二人が戸惑いながら肩の力を抜く中、新たな人物がこの場に現れる。


「二人とも、無事ですか!」

「先生!」

「師匠!? 何でここに!」


 木々の間を疾風のように駆けて現れたのは、二人の師であるアレス・G・アムドレッドであった。

 本来ならまだ帰り着いていないであろう師の登場に驚く二人の、その傷だらけの姿に一瞬息を呑むアレス。だがひとまず命に別状はないことを確認して安堵する。


「君達が森に入ったと聞いて追って来ました。途中でネメアタウロスの死体を見つけましたが……これは?」

「ネメアタウロスって、こいつの名前か? いや、途中のやつは俺達がやったけど、こいつは違くて」

「その、色々なことが起こりすぎて俺達もどう説明したらいいかわからないんですけど……。実は──」


 そして数日ぶりに再会した師弟が始めたのは情報交換。二人は森の異変を調べに来たことや、二体のネメアタウロスに遭遇したこと。そして謎の『黒』に出会ったことをアレスに説明する。

 話の途中で二人が取った無茶な行動に眉を潜めたアレスだが、今は状況把握を最優先とし話を遮ることはしなかった。

 そしておおよその事態を把握した彼もまた、己が見たものを二人へと伝える。


「えっ、じゃあ先生の方にもこの怪物……ネメアタウロスが出たんですか!?」

「ええ。それだけでなく、君達が見たと言う『黒』も現れました。恐らく、村に現れた後に君達の方へ向かったんでしょう」


 聞けば村にも二体同時にネメアタウロスが出現したと言う。つまるところ、合計の怪物がこの場で暴れ回っていたのだ。

 もしアレスが戻っていなければ村に甚大な被害が出ていただろう事実に背筋を冷やし、自分達が二人がかりでようやく倒した怪物をたった一人、それも無傷で二体倒したという師の実力に改めて圧倒される。


 しかし、だ。ならばその師からさえ易々と逃亡してのけ、この怪物を倒したであろう『黒』。あれは一体何なのか。

 得体の知れない寒気を覚える三人だが、まずは状況の検分を終わらせるべきだとネメアタウロスの死体を調べ始める。あるいはここに、『黒』に関する何らかの手がかりが残されているかもしれない。


 そうして骸を検めるが、やはり目立つのは……いいや、目立たないのは傷のなさだ。


「やっぱり全然傷がない。とても戦った後みたいには見えないね」

「けどこんなとこで急に倒れて死んだ、なんて言われた方が信じられねえぜ。あんなにピンピンしてたってのによ」


 レイとギリーが話している通り、二人が戦った個体は幾度も攻撃したため傷だらけになっていたのだが、この死体は戦闘していたにしては傷が見当たらない。

 アレスが倒したものも、その個体に比べると数こそ少ないが傷は刻まれている。ネメアタウロスは生命力が強く、従来の生物なら致命傷となるような傷でも動き回るからだ。


 なのにこの死体に傷がないのは何故なのか。あるいは毒や呪いを用いたのではないかとも考えたが、そのような痕跡も見当たらない。

 少年達が悩む傍らでアレスは観察を続け、それに気付いた。


「レイ、左目の傷はあの黒い靄がつけたものと言いましたね」

「はい、先生。どうやったかはわかりませんけど、僕らの前で目を切って──」

「切り傷だったのですね。刺し傷ではなく」


 よくわからない問いに首を傾げる二人へアレスは手招きする。それに寄せられて師が指す方を見てみれば、そこには切り裂かれ……そして貫かれた左目があった。


「先生、これは……」

「他に傷もなく、毒や呪いの類いでもないと見えます。ならばこの傷が死因なのでしょうが……」


 アレスが言葉を濁すのも無理はない。確かに目は生物の弱点ではあるが、先に述べた通り ネメアタウロスの生命力は尋常ではない。片目を貫かれた程度で死ぬようなものではないのだ。

 見たところ脳にまで傷が達しているようには見えず、傷口に毒が付着している様子もない。しかし他に傷口が見つからない以上、これが死因でまず間違いないはず。


 だがそれは、一撃でネメアタウロスを仕留める攻撃手段をあの存在が持っているということ。それはアレスにすら為しえない所業で、 あの『黒』がアレスより格上であることを示している。


 更に言えば、二人の前でつけられたという最初の傷は眼球を浅く裂いているだけだ。視力こそ奪われただろうが、大した威力の攻撃ではないと見える。

 つまり『黒』は手加減した攻撃でネメアタウロスを挑発、レイ達の前から引き離し、誰にも見られない場所で改めて始末したとでも言うのか。


 しかし、そんな風に考えていくと村での行動、それすらもアレスをあの場に招くためのものだったのではないかと思えてくる。

 あの時、アレスは『黒』を追う最中に村へ迫るネメアタウロスを発見した。あの時、あの場で迎撃できていなければ村にどんな被害が出ていたかは想像に難くない。


 だが、もしこちらに協力する存在だとすれば何故姿を見せない。正体も目的もまるで不透明な存在に、疑問ばかりが募っていく。


「……あの黒い靄について、何か気付いたことはありますか。どんな小さなことでもいいんです。何かの手がかりになるかもしれない」

「気付いたこと、って言われてもよ。急に出て来てすぐにどっか行っちまったし、よくわからなかったとしか言えねえんだよな……」

「……そういえば」


 その時、レイが何かを思い出したように呟きを漏らした。


「最後、あの影が俺達の前から消えた時に一瞬だけ、とても大きな翼が見えたんです。まるで蝙蝠みたいな形をした、真っ黒な翼が」


 本当に一瞬だったので確かなことは言えませんけど、と話を続けるレイの言葉は、既にアレスの耳へ届いていなかった。


 明らかに知性ある行動。赤い瞳に鋭い牙。更にアレスよりも格上であり、蝙蝠のような翼を持つ存在。まさか……。


「悪、魔?」


 悪魔。


 人に近い姿でありながら、背に翼を持ち、理を超えた力を振るう神話の種族。

 御伽噺の存在。圧倒的上位種。世界に仇なす者。そして何より──過去に現れた魔王は皆、悪魔であった。


 新たな魔王の誕生と同時期に現れた存在。無関係と判断することはできず、しかしその行動は理解の範疇にない。

 本当に悪魔だとすれば悪魔は人類の、世界の敵である。だが、今回の行動だけを切り取ってみれば、『黒』はこちらに味方しているようにも見えてくる。


 判断を下せず熟考に入るアレス、弟子二人も尋 常でない様子を感じ取り、声を掛けることができなかった。


 結局その後は手掛かりを見つけることができず、レイとギリーの消耗もあり師弟は揃って村へと戻った。

 しかし村を襲う危機は退けたものの、 三人の胸中には霧が立ち込めている。


 アレスの胸中を占めるのは魔王の誕生。今はまだ話していないが、明日には二人に事情を説明し、近く旅立たなければならないだろう。この混沌とした状況が弟子達に取ってどう転ぶか、そのことを思い月を見上げる。


 ギリーの胸中を占めるのは無力感。今日の戦いで、レイは己を庇って瀕死の重傷を負った。幼馴染であり弟分でもある少年、彼を守るために鍛錬を積んだというのにこの体たらく。自身に対する怒りを燃やし、治療を受けながらも見据えているのは更なる強さ。


 レイの胸中を占めるのは疑問。あの黒い靄のことが頭に染みついて離れない。あれが悪魔かもしれないと師は言った。だが、あれの目的は一体何だ。何故自分達の前に姿を現し、そして助けるような行動を取ったのか。寝台の上に寝かされ、傷と疲れからまどろみに浸かりながらも、尽きぬ疑問が頭を廻る。




 そして誰にとっても長かった夜が明け、を払って日が昇る。


 今日こそが始まりの日。眠りの刻は終わり、ついに物語の幕が開ける。



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