犬デビュー

 桃さんに指示して公子の準備をしてもらっている使用人室に向かいます。いくつかある使用人室のうちの比較的小さな部屋で、おもに女性の使用人の更衣室として使われている部屋でした。


 小さな部屋、といっても軽く十畳の広さはあるはずの空間。だが六畳一間程度に見えました。使用人として勤める女どものアバンギャルドな私服やらブランドものの化粧品やら、散乱しております。女の化粧台そのままのような部屋。天王寺家はある種の公私の混同には比較的寛容ですし、きちんと仕事をしてくれるのならば更衣室の乱れにはとくにとやかく言わない方針でした。……それというのもじつを申せば、整頓されたクリーンな更衣室よりも散らかって女の臭いがむっと立ち込める部屋のほうが、盗難の冤罪やら個人情報のトラブルやら、そういった特有の事件がですね、発生しやすい、ばかりでなく、雇い主でもある薫子さまがちょっと退屈したときに、トラブルを、発生、させやすい、と、だからまあ使用人の彼女たちが寛容な職場と感動するこの公私の区別のゆるさはつまりは薫子さまの酔狂のおかげなのでした。


 そんなごちゃごちゃなお部屋のまんなか。手持ちぶさたにしている桃さんとすこし距離を取ったところで。



 公子は――犬デビュー、を果たしていました。



 泣き疲れたようす。鼻をすんすんと拗ねたように鳴らしています。ふんふん。うむうむ。よし。――赤い首輪が映えてるじゃないの。裸体でじっと体育座りをしています。まあはだかんぼにされて可哀想なこと。肌は幼子らしく柔らかいうえに、自然な白さをもっている。そう、ね。……あなたはもう服を着んる必要がないのだから。



 桃さんが立ち上がって礼儀として軽く頭を下げ、すこしばかりの穏当な苦笑を見せます。


「あー、飯野さんー、お疲れさまですー。大変でしたよこの子ー」

「むずかりましたか」

「すーごかったですよー。ねえー。こーうこちゃん」


 桃さんは公子の頭を撫でようとしましたが、公子はぶわっと目に涙を溜めて全力で逃げました。首輪につけた大げさな鈴がちりんちりんといい音を立てます。



 ……ふむ。なかなか。



「……似合うわよ。公子、」



 公子、と呼んでみれば、自分の口から発した言葉であるのに妙な違和感がぶらんとぶら下がりました。



「……犬に公子という名前はどうなのでしょう。ねえ桃さん。あなた、この子のこと公子と呼んでいました? ああ、いまそう呼んでましたっけ」

「はいー、そうとしか呼びようなくてー」

「いえ、いえいえ、桃さんはそれでよいのですよ、こちらも呼称についてはそういえば指示もしませんでしたね。しかし犬が公子という立派な名前は妙ですね、ねえ」

「……ぁ、の」


 気がつけば、公子が這い寄ってきていて、首輪の鈴が鳴らないように小賢しくも左手で押さえ右手でわたくしのズボンの裾をつかみます。


 泣きべそかいて見上げてくる。……ふむ。


「……こ、ぅ、こは、こーこは、こーこはね、こーこなの……なの、で、す、です……。こーこはワンちゃんじゃない、です、あの、あのね、みんな間違ってるの、こーこは人間だから、だからこーこは……」



 わたくしは有無を言わせずしゃがみこんで公子の頬を強くはたきました、――パチンとまあまたいい音が鳴る。……まあ、わたくしも、人生の都合上、ひとをはたくことにもまた慣れてますから。



 公子はぴたっと鳴くことやめました。



「……良い子でいないと捨てますよ。犬」



 公子は――大泣きをはじめる。うぇ、うぇ、うぇーんと……ほんとはぎゃんぎゃん泣きたいでしょうにどこか遠慮を覚えていた。それでありながら、きっとまだ、こうやって切なく泣けばこちらがわの心に響くかもなどと浅ましいことを考えている。



 ふむ。やはり――逸材。


「……あのー、飯野さん?」


 桃さんが控えめに手を上げました。


「この子ってたしか、お坊っちゃまのペットになるんでしたっけー」

「……ええ」


 桃さん。このひとの態度の切り替えも、末恐ろしいものがある。――なんだかんだこの子の服を脱がして首輪を嵌めたのは、この当たり障りなさそうな雰囲気の若い女だ。


「だったらお坊っちゃまに名前つけてもらえはいいんじゃないですか?」


 桃さんは、薄くはにかむ。



「ペットの名前はやっぱり飼い主がつけなくちゃ。お坊っちゃまの教育のためにも」



 目から、うろこ、とはこのことで。



 なるほど――そうしてまことに犬と成る。悪くない。――この使用人、やはり、使える。こういうところは、給料以上に。

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