阿子(4)

「阿子さん、わざわざ残ってもらっちゃってごめんなさいね。お時間は頂戴してかまわないかしら? お家の門限を破っては厭な上級生がいるのねとわたくし怒られちゃう」

「……家、は、だいじょうぶですべつに、問題はない、です……」

「あらあら。自由なお家なのね。良い教育方針ですねえ。ねえあなた聴いてくださいよ、わたくしのお家なんてもうほんとお母さまが心配性で心配性で……」

「……それで……お話、ってなんでしょう」


 わたくしはびくつきながらもしっかりと、上目遣いで薫子さまを見上げました。


 ほかの部員のみなさんは立ったまま身動ぎひとつしない。薫子さまだけがこの空間で活きていました。背後にいる上級生たちは薫子さまのエネルギー源の植物であり、ただ薫子さまが活き活きとあられるためにエネルギーを供給するためにそこに並べられているのだ、と言われてもそう驚きはしなかったかもしれません。

 そうやって酸素のスポットライトさえも浴びているごときこの御方――。


「……阿子さん。良いお名前ね。名付け親はどなた?」

「……だれなんでしょう。そういうの、気にしたこともなくて」

「あらいけないわ、それは。こんなにも似つかわしい良い名前ですのに。ねえ。……阿、という漢字の意味は当然存じ上げていてよね?」

「いえ。そんなには……知りません」

「そんなには?」


 くすっ、と、おかしそうに笑った。無邪気にも笑われたのだ、ということくらいわかった。わたくしはかっと熱くなった。そんなには、などと表現したわたくしの自己保身の浅ましさが、筒抜けとなっている。



「……阿、という漢字はね」



 薫子さまはわたくしのぶきっちょな字でしるしたそのメモ紙をつまんで光にかざす。部屋は暗いが薫子さまの御側にだけ強い光線が差し込んでいる。



「岸のこと。丘のこと。曲がり角のこと……」



 光をその艶やかな髪の端にだけシャワーのように当てて。とっても嬉しそうに。わたくしが世界でいちばん勇ましい勇者なのだと手放しで誉める大王国の姫のように。



「そして、おもねること。……おもねるってわかります?」



 ……あっ、と、



「きっと阿子さんのご家族はすてきなのね。お子さんにそのお名前をつけるほどには自分をよくわきまえているんだわ。そうでなくてはよっぽど漢字にご興味があらせられないのでしょうけど。……ねえ。みなさん。飯野さん、ってお家は知ってらして?」


 わたくしは、拳を握って、上履きを見つめて、ただぷるぷる震えてた。耳の後ろでねっとりとした汗をかいているのが自分でもわかった。

 馬鹿に、されたのだ。



 ……わたくしはそのことがわからない程度には馬鹿では、なかったのだ。ああ不幸にも、そして幸運にも!





 わたくしはあのとき意地悪な先輩から逃げてもよかったはずだった。けれどもそうはしなかった。……おもねる。そうやって五十すぎてもこのようにいまも薫子さまのもっともお近くでおそばにいるのは、あの空間のほかのだれでもなく、わたくしなのでございましたよ。

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