地獄はまだはじまったばかり
ご遊戯室。
わたくしの報告がひと通り終わりますと、薫子さまはその華奢な顎に曲げた中指の甲を軽くふれさせました。おや、珍しい。この癖が出るということはふりではなくてほんとうに思案されているということです。……薫子さまにこのお顔をさせることのできる人間は、そんなには、いないのではないかしら。長年御側にいるわたくしのことを、この御方ははたしてこのように思案なされるときがあったのか。
あらほんとうにいけませんね、わたくし。大型犬が小型犬に嫉妬などしたって醜いばかりで最後には引き離されてしまうだけでしょ、主人のお家から。いまこの家はかわいいかわいい子犬の話でもちきりなのでありますから。……わたくしは先輩としてしゃんとしておかないと。
薫子さまは顎から指を離しました。精を吸いとる妖魔のごとく、両手の手のひらを花弁のごとく畳に乗せて、まるでさもわたくしを誘惑するかのように、すり寄ってくるのです。わたくしは身動きひとつせず、叱られた坊主頭の少年のごとくじっとしている。薫子さまはふふ、とそんなわたくしの唇にとひとさし指を当てました。
「ほらアコ。そのように拗ねない」
「……拗ねてなどおりませんが」
「うそ」
薫子さまはこのようにぶよぶよと醜いわたくしの身体を覆い隠すかのように抱き締めてくださいました。
「いまはなによりあの子のことに取りかかなくてはいけないのは道理でしょう? ねえアコ。だいじなときなのですればね。だって、わたくしのとてもだいじなことですればねえ、これは。ねえ?」
「……はい。言われずとも、薫子さん。わたくしはよくよく、わきまえております」
薫子さまはご満足そうにわたくしから身体を離しました。にいっとこんどは幼いおてんば姫のように笑って、ぱっぱっとお着物の裾を払うしぐさをすると、ふたたびかっちりとした正座となる。またもできあがるいつも通りの理性的な物理的距離。
「どうにも未来は子犬を甘やかしすぎですねえ。犬をかわいく思う気持ちがあるのは良子と違ってやはり才だけど。ああそうよ、ねえひどいんですよ良子ったら、あの子を養子に迎えるつもりと言ったらやれ人権だの心の傷だの子どものことを考えろだの、挙げ句の果てには母さんは狂ってるだなんて、児童相談所に通報することも辞さないなんて、やあねえ、あの子どこで間違えちゃったのかしら。狂ってるなどと言ってますけど、未来を育ててるのはだれ? 未来を放置してるのはあちらよ。子犬のことだって面倒なだけなのだわ、良子にはあたたかな血というものが流れていないのかしら」
「僭越ながら。良子さんががんらいがそういったかたであるだけでございましょうよ。良子さんにつきましても対応策は練っております。良子さんご本人ではなく、
「ああ、美加登さんだったらねえ、いくらかぽんと小遣いあげればすぐにこちらの味方だわものね。ああいうタイプってわかりやすく俗で嫌いじゃないわあ。天王寺家の婿養子にふさわしいとはいちども思ったことないけど」
「……はい。それですから、その方向性で進めます。そうやって外堀を埋めてまいります」
薫子さまは両手を後ろについて、天王寺の上品な当主らしくもなく胸をそらして格好を崩しました。意地悪くきゅっときつく笑う。
「ああ。それで。なんの話でしたっけ?」
「未来さまがコロを甘やかしすぎなのではないかと」
「そうそう、その話よね。犬はかわいがるだけじゃつけあがる。自分を人間だと思い込む犬ってじっさいいるらしいじゃないですの。……そんなのはつまらないものね。ねえアコ。変態犯罪者候補として恥ずかしくないの? そんなふうに子犬のしつけがぬるくて」
コロのあの、髪を振り乱し泣き乱れる、苦しそうな、形相。わたくしの報告でも監視カメラの映像でもわかっているだろうに、……このかたはそれをぬるいと、そう、言い切る。
地獄はまだはじまったばかりだ、と。
薫子さまはにっこりと善良モードで笑いました。
「未来を呼びなさい」
「……報告はもうよござんすか」
「ええ。未来をここに呼んで。いますぐに」
「なんのお話を」
「――未来ったら幼稚園でもモテモテらしいのよお。ガールフレンドのひとりくらい、家に呼んでくれたってよろしいのですればね」
……まさか。
「見せる、んですか。ほかのだれかに。コロを……」
「……しっかりしつけときなさいね?」
薫子さまは、地獄どころか、歓びをうたう天国の住人みたいに、顔をふわっと変えて笑った。
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