ランニングマシンの地獄
「……ぅ、うぇ、うう、う、う、うぇ……うええぇ……うえぇん……」
コロが泣き続ける声とランニングマシンが立てるガーガーいう音が、ひどくうるさい。だがわたくしはもう慣れてまいりました。じっさい薫子さまに選ばれてかわいがられた人間は、もっと悲惨にみっともなく泣いたりする。社長だの店長だのまあ世間では名があったとしても、わんわん喚く男どものおぞましいこと。それに比べればこの子はやはりよっぽど気丈なのでありました。……五歳の女児であるのだ。
午前十一時。平日。未来さまは幼稚園に行かれています。薫子さまはお仕事。わたくしのふだんのおもな仕事は、朝昼晩と一日三回の使用人たちへのおおまかな指示のほかには、このダイニングルームの維持でございます。全体はほかの使用人に任せているので、わたくしはまるでこのダイニングルームで主婦のように日々暮らしております。このダイニングルームは天王寺家のなかでも最奥のプライベート空間であり、いまは実質的には未来さまのみがここで生活なされているのです。むかしは良子さまもここで育った。だが良子さまは未来さまが乳離れすると、自分の代わりとでも言わんばかりに、未来さまだけをこの空間に残してご自分はふたたび外に出ていきました。
この建物は屋敷のなかでもすこしせり出したところにあって、まるでここだけで一軒家のような様相なのです。一階にはダイニングルームと小さな和室がふたつとお風呂と洗面所。小さなふたつの和室の、天王寺家にはありえないような狭苦しい四畳半は、わたくしが使用人頭室として生活の場とさせていただいております。もっとも、眠るときくらいにしか使わない部屋でありますが。二階には大きなお部屋が三つありまして、現在使われているのは未来さまの寝室だけです。あとは薫子さまと良子さまそれぞれのお部屋。薫子さまはほんとうにまれに気まぐれでそのお部屋にお泊まりになったりしますが、良子さまは大学進学と同時にお家を離れてひとり暮らしをはじめてからは、それこそ未来さまの授乳期に休憩部屋としてご自身のお部屋でお休みを取った以外には、もう、ここに戻ってくることはありません。
……だから、この一軒家のごとき空間をいちばん長く知っているのは、じつは天王寺家の使用人にすぎないわたくし。わたくしはもうずっと、この空間の番人であります。薫子さまがひそひそ話をしたいとき、良子さまが眼鏡をかけて髪をひっつめて勉強するとき、未来さまが絵本をめくるとき……思えばこの一軒家にはつねに、わたくしともうひとりだれか、しかいなかったような気がします。
……そういう意味でもコロの存在は異色でありました。そうか、わたくし、ここでは三人暮らしになるのだなどと、自分の所有の家でもないのにわたくしはそんなことを思いました。
そういうわけですので、このお部屋だけは、なんだか一般家庭のようにふつうのダイニングルームなのです。充分な広さはあるが、広すぎるというともない。じっさいある種の成長には豪華絢爛なぜいたくだけでなくこういったごく常識的な日常的空間も必要であったりするのです、……薫子さまは、すべて、お見通しなのですから。
わたくしは、ダイニングテーブルをぐるりと囲むよっつのダイニングチェアのひとつに座り編み物をいたしながら、コロを見守っております。コロには当然見守るだなど優しい言葉は使わない。見張るのだと言ってあります。賢い子ですからそのニュアンスの違いはわかるでしょう。その証拠に、この子に対してペット用の言葉を使うと、いちいち傷ついた顔をして打ちのめされているのです。……もうこの家に来てから三日めだと言うのに。三日。わたくしのような五十も過ぎた者であればいざ知らず、この年齢の子どもにしてはすさまじく長い時間でもあるだろうに、……この子は、慣れようとしない。泣き続けるし、絶望し続けるし、年齢にもふさわしくない羞恥心で顔を赤くし続ける。……いやはや。気丈とは思いましたが、ここまでとは。
そんな、ダイニングルームですが、ランニングマシンはもとからあるものではありませんでした。
部屋の隅には、未来さまがチャンネルを回せるように置かれた小型のブラウン管テレビ。その隣にはもともとは室内用のジャングルジムが置いてあったのですが、ワンちゃんが歩く練習できるようにこれをどかしていいですか、と言ったら未来さまは素直に嬉しそうにうなずいておりました。つまりしてそのスペースにドンと置いたランニングマシン。いえ、ふつうのものですよ。ジムにあるような、ごくふつうのランニングマシン。
ただふつうでないのはやはりそこでコロに四足歩行の練習をさせていることでしょう。
午前十時から開始したから、すでに一時間以上。もちろん休憩は挟みます、五歳児の体力のことくらいは知っている。いきなり電池が切れるようにぷつりと眠られてしまっても困るのでね。二十分歩けば、合格。そうでなければ、失格。失格の場合は、またゼロ分めからやり直させる。合計で百分ぶん、つまり二十分ぶんを五セット歩ければ、その日のぶんは、おしまい。休んでよい。そういうことに、しております。……五歳児の体力を考慮して、もっとも微妙なところにラインを設定しました。こういうのは達成できそうでできなく、しかし自身ががんばってしまえば達成できてしまうところに、意義が、あるのです。
さらに。さらにコロにとって残酷なことには――その真っ赤で鈴のついた首輪が、ランニングマシンのメタリックな支柱に、例の桃色のリードでくくりつけられている、ということです。歩くたびチリンチリン鳴るだけでなく、コロにとってわずかに速めに設定されたランニングマシンのコンベアは、おそらくはコロにとってはすさまじい速度で流れている。四つ足がいくら嫌でも、首輪の鈴を鳴らすのがいくら嫌でも、コロは、歩き続けなければならない。そうでなければ首輪が絞まって苦しいのです。
もちろんじっさいには首輪のきつさなどは充分計算や実験を重ねたうえで首が絞まりすぎないようにしているし、なによりだからこそわたくしがよくよく見張っているのです。窒息死させるつもりはない。そんなことしたら、薫子さまとのあのお約束があるのだから、わたくしがお縄だ。いやそんなつまらないことより、せっかくの逸材を殺してしまえば薫子さまはがっかりなされるだろう。そうなってしまえばこんどはわたくしが惨めに捨てられるのだ。五十過ぎの醜女が放り出されればわたくしはそのままふらっと鼻歌でも歌いながらそこの川にでもさっさと身を投げるでしょう。
……そういう意味ではわたくしとこの子は運命共同体なのだから。だが、この子は、そんなことは夢にも思っていないだろう。きっといまこの子が世界でもっとも殺したいのは、わたくし。けど、従順に従わねばいけないのも、わたくし。
ヂリリンヂリリン、と鈴の音の音の質が変わりました。鈴の音も充分合図として働いてくれる。
「……はいはい」
わたくしはわざと大儀そうに立ち上がり、ランニングマシンにしゃがみ込みます。コロが、車に轢かれた蛙のごとく、裸の四肢をうつぶせのかたちにしてべちょっと広がっておりました。首が絞まって呼吸がふさがれていることでしょう。これだけでも充分、一生涯のトラウマになりうる事態です。わたくしはすぐにランニングマシンを止めました。コロの首輪も直してなります。うん、これで呼吸は確保できたはず。
わたくしはこんな些細なことにもいちいちある意味ではほっとしつつ、しかし顔と言葉は鬼ばばあと成ります。
「十七分。三分も足りない。最初からやり直しね。きょうはまだあと六十分も走らなきゃね」
意味は通じているでしょう。賢い子です。わたくしの顔を涙目で見ながら、げほげほっ、げほげほげほっ、とコロは大きくせき込みます。止まったコンベアの上でうつぶせから胎児のようにくるまって、両手で首を押さえようとしました。
「こらっ、コロ」
コロはびくうっと肩を震わせて、わたくしをおそるおそる見上げます。
「そうやってまた首に手をやらない。犬がそんなことをしますか。それでは人間ぶってますよ」
「……ぁ、う、でも、わたし……」
「こら! 犬が言葉を喋りますか?」
コロは口をぱくぱくさせました。やがて、なにかを諦めたようで、じっとうつむきました。影がとても、深い。そういえばこの子は髪が伸びすぎだ。せっかくの良質な黒髪なのに。だがいまはまだ切ってやれない。この子が、もうすこしちゃんと犬になって、世話をされることを快感に思う段階で切りたい、それが効果的だ……それまではむしろかくも動物的な髪でいたほうがいいだろう。
「……う、うぅ、で、あ、ぅ、でもわたしっ――」
「言いつけを破りましたね。罰です。一セット余計に追加しましょう。あと百分、きょうは走りましょう」
「……ぇ……」
コロは、嘘でしょう、という目でわたくしを見上げている。嘘ではない。むろん。
……この子ども、やはりある種の鬼才か。三日めにして、瞳で語ることを覚えている。それも、卑屈に。目上の存在をいつでもうかがいながら。
「わかった? コロ。きょうは罰で一セット追加ですからあと百分ね。わかったら、返事は!」
コロは胎児のかたちでくるまったまま、ぶわっ、とその顔に大粒な涙のしずくを見る見るうちに溢れさせました。
「……ぁ、ん」
「返事はどうするって言いましたっけね!」
「……わん」
コロはもうとてつもなくつらそうにぼろぼろぼろぼろ大きく目を見開いて泣いているのです。
「聞こえませんよ。もっと大きく。犬なのですから嬉しそうにお返事なさい!」
「……わんっ」
それだけ言うと、コロは、ごろんとうつぶせになって顔を両手で覆い隠しました。……まあいまはこの程度はあえて注意をしない。
すこしずつ。すこしずつ、だ。
人間が犬に成るのだもの。それは時間はかかるものだ。
……服を奪い、言葉を奪い。こうやって、えんえんランニングマシンを歩かされるという理不尽すぎる命令をやらされるうえ、明確なルールさえも存在しない気まぐれでえんえんとコンベアの上を歩かされるということを、自身のそういう存在なのだということを、身をもって、実感させる。
……まだ、はじまったばかりなのだ。コロ。いえ公子さん。あなたの、地獄の日々というのは……なんて。地獄の番人の鬼ばばが言ったところで、なんの慰めにもなりませんね。
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