人間未満のなにかの、母

 まあまあ、そういうわけでして。一見すると書き物机も掛け軸も小さな本棚も和室のなにもかも、整頓されてはいますけどどこか伽藍堂にも感じるこの和室で、公子は、机を挟んだ下座でおそれおおくも薫子さまと対面しお話をすることになったのですか。いえ、おそれおおくも、というより――ここは公子の気持ちを慮ってやり残酷にも、と表現すべきところなのかもやもしれません。



 わたくしも公子の隣に座りました。上質な赤い座布団は公子にゆずります。公子は、「あ、あのこれ、あの、うぅ」などと意味をもたないを発しながら子どもとしては花丸の気づかいぶりを見せて、わたくしに座布団を押し返そうとします。わたくしはにこりともせずに仏頂面で言いました。



「いえ、いいのですよ。あなたが主役なのですからその座布団はあなたがお使いなさいな」



 公子はよく理解できずにわたくしを卑屈な目で見上げました。しつこい子です。だがその様子を見てわたくしは確信をいっそう深める。ああほんとうにほんとうに薫子さまはおそろしい御方なのです。弱冠五歳にしてこの卑屈な瞳と相手に気をつかうことにかんしてだけは執念を見せるこの、様子。おおよそ子どもらしくはない。子どもらしい子ども時代を知らぬ子ども特有の態度でありました。


 公子を産んだ女がこの子どもをどう扱っていたのかは知りません。ただまあろくに育児もしなかったのでありましょう。おおかた、それこそ犬猫とおなじで、ただ食事さえ与えていればどうにかなるとでも思っていたのでしょう。いえ、犬猫でさえ愛情が必要だ。ましてや人間の子であれば愛情不足は生涯の影となります。ええ。生涯。たかだか子ども時代のいちばん最初の数年間は、生涯の烙印になりえます。……わたくしもおそらくはそちらがわの人間ですのでね。自分のことは自分がもっともわからないものなのでありましょうよ。


 分家の使用人のさらに雑用係とでもいったもので、分家の面接はさすがに分家の使用人頭に任せていました。ただ、無邪気な女であったという噂はわたくしの耳にも届いている。履歴書の写真も見ましたが身体つきはじつに厭らしく天王寺家よりも風俗嬢のほうがよっぽど向いているといったていで、しかし風俗嬢というのもあれはあれで一種の刹那的な社会的コミュニケーション能力が高く要求される職業であることもわたくしはよくよく存じている。わたくしはこんななりですから夜の客商売には無縁と思われがちであり、それはそれで妥当な誤解ですのでいちいち訂正する労力を割いてはおりませんが、いえいえ冗談おっしゃいなと、薫子さまの御傍で控え生きるということは当然、夜の業界にも詳しくなることでもある。そんなわたくしの目から見て公子を産んだ女は風俗嬢にも足りませんでした。履歴書の写真。上半身だけでもわかるほどに需要がありそうな身体つきでしたが、この女は風俗嬢もアダルト女優も満足に務めることができないとわたくしはすぐにわかりました。知性が、足りない。圧倒的に。風俗、工場、カン拾い。わたくしは風俗嬢も工場の日雇い労働者ともカン広いのホームレスとも必要上それなりのかかわりがありますが、そのような世間で底辺と呼ばれるようなどんな仕事もこの女は満足にできそうにありませんでした。


 あるいはすこし知恵が遅れていたのかもしれません、いえ知恵だけの問題でもないのでしょう、知恵にも匹敵するあるいはそれ以上のなにかを、この女は獲得することができなかったのでしょう。それは人間としての資格、とでもいうべきものでした。他者をその瞳に映すことが可能であってはじめてヒトは人間であるのに、この女は不幸にもそれを学習する機会がなかったのであろう、と。瞳はのっぺりしていてなんにも見てやしないのです。……女としての豊満な身体と唇の大きく蠱惑的な顔立ちにころっと騙される人間は多かろう。ええ、しかしわたくしにはわかりましたよ、この女は人間に値しないことが。



 わたくしみたいに望んで人の道から堕ちるのではない。公子みたいに、もとが人間であった者が無理やりに堕とされるのともまた違う。……ええ。公子はすでに、人間です。五歳でありますが立派に人間となっております。この子はちゃんと人間を認識することができる。そういう目をしている。



 そうではなく。……公子の母親は、得体の知れない、人間未満のなにかであった。

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