甘美な命令
桃さんが過剰なまでの当たり障りのない猫なで声で公子を懐柔しようという涙ぐましい努力を見せつつ、公子の背中に手を置いて軽く、押して、ふすまの外に連れ出しました。
とたん、にこやかな薫子さまの仮面が剥がれる。はあ、やれやれ、と言わんばかりにご自身のいつものポジションに座ろうとしました。わたくしをぎろりと睨みます。
「気が利かないのね、アコ。こんなにも年老いてしまったわたしががんばって座ろうというのに。よっこらしょとでも言わせるつもりですか、わたしに」
アコとは、わたくしの下の名前です。正確には漢字で、阿子。屋敷でも飯野、飯野で通していますし、アコなどというおぼこちゃんみたいな名前がわたくしなどとまあみなぎょっとするのも、無理はないのです。だからこそふだんは極力飯野で通す。もうずっとです。わたくしが阿子と呼ばれていたのはそれこそ女学生時代が最後。飯野、とずっと強調してきた。下の名前はなにかの間違ったおまけのように取り扱ってきた。
じっさい薫子さまも他人がいるとわたくしを飯野と呼ぶ。
「ああ、はいはい、すみませんねえ……」
わたくしは薫子さまが座るのを手伝います。着物の下にはきめ細やかな絹の身体があるのでしょう。つとめて平静を装いながらも、そのじつ胸が、どきどきしております。ああ恥ずかしいはしたないみっともない。わたくしはグロテスクな醜女だというのにこの御方の前だけではずっとお嬢様さま学校の制服を着た乙女のままなのだから。
……気持ち悪い、と。ふだんのむっすりずんぐりな皮を剥ぐとそこでもじもじしている、そんな乙女のわたくしとはじめて会ったとき、ええ、貴女さまは笑ってくださいましたね。
薫子さまはお座りになって、立ったままのわたくしをくりんと見上げる。たいへん、御機嫌麗しそうに。
「で、アコ。東雲公子の法的扱いなんだけど」
「はあ、はいはい。そのお話はしなくちゃですね」
わたくしは薫子さまのお隣に控えるようにして座ります。
「養子にしますから。わたくしの養子ということにするわ。形式上とはいえ犬を子にするだなんて気持ち悪いけど、良子がわたくしの実子な時点でまあそのあたりは、いいわ。諦めてるわ。ねえアコだって良子は不出来と思うでしょう? このあいだだってあの子株主総会で……」
「はあ……はいはい。そうですね。それで公子さんは薫子さんの養子、という方向性でよろしいのですね」
「そちらのほうが話も早いですでしょ。ほんとはそこもアコ、おまえにリスク取ってほしいんだけどねえ、それだと未来とおなじ天王寺の苗字にならないから」
「そのあたりがだいじなのでありましょうか」
「きょうだい、いえ。ふたごみたいにあの子たちを育てることが夢ですれば。犬と飼い主のふたご。あはは、みごと。みごとね。対になってるわねえ。いいわねえ」
薫子さまはこれからはじめるであろう楽しいお遊びにすっかりうっとりしてしまっている。公子はともかく……未来さまは、このかたの、血のつながったたったひとりのお孫さまであらせられるのに。
「天王寺の使用人の責任は末端の者のそれであっても当主のわたくしであると申せばそう反発もありませんでしょ。内外には慈善事業ということにしておくわ。やっぱこういうときのためにどぶどぶ福祉事業に寄付しとくものねえ」
「薫子さんのイメージはばっちりですから……しかしお家の一族のかたがたは反論を続けるのでは。……良子さんも」
「ああ、ああ、いいですいいですあんな娘はほっときなさい。しつこければこう言えば黙るわよ。じゃああんたこの子どもを引き取って育てる? って。なにもわたしあの子を殺そうというわけじゃないでしょ? 猿並みの性欲と霊長類未満の馬鹿女から生まれたという地獄をね、このわたしが助けてあげようというのです。どうせ畜生の子なら畜生として育てるのは道理でしょう? それに天王寺の家のほうがよっぽどうまく飼ってあげられるはずだわ。これはね慈善事業を超えた救済行為ですよ。ねえ。……アコも、そう思うでしょう?」
「……そうですね」
薫子さまは満足そうに、にいっと笑いました。
「で、もし訴訟沙汰になったり犯罪扱いになったりしたら、そのときはアコがすべての罪を被ってね。だいじょぶよ、あなた子どもを拉致監禁して変態飼育してても違和感ない感じだから。ね、アコ、いいでしょう?」
すらっと――おっしゃる。
「むしろスリルがあっていいじゃない。児相とか教師とか、うっとうしいやっかいなめんどうものの相手をするのはいつもあなたというわけですよ。あなたそのあたりの対応もうまいじゃない。あなたが虫けらともコミュニケーションできるのわたしいつもすごいなって思っていますよ?」
ああ、そんな褒められかたをされてもなお――わたくしは、嬉しい。
「……それともこういったほうがわかりがいいかしら?」
薫子さまは、とてもきれいな笑顔を、しました。首をかすかにかたむけて。
「そのようにしなさい。――これは命令ですればね、と」
わたくしは思わず天井を仰ぎました。
ああ。……ああ。
そういうかたちで、命令というかたちなんかで言われて――わたくしが、拒めるわけ、ないのだ。
たとえいざというときは幼女拉致監禁変態飼育というまあまず余生を刑務所で過ごすという人生終了レベルの犯罪者となれという、めちゃくちゃなご命令でも――いえ、だからこそ、甘いのだ、とても甘美なのだ。
そんなめちゃくちゃで残酷なご命令をほかのだれでもなくわたくしにしてくれることが堪らない。
わたくしは恭しく頭を下げる。
「……承知、いたしました」
――逃げ切ろう。犯罪者になるという道から。そしてこの御方に認めてもらおう。ただ愚直に動く指のひとつとして。ただ、ただ、そのために。そのためだけに。
そういった意味では、いまこの瞬間から、公子とわたくしは運命を争い合う関係性となったのです。
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