ほんとうに人間なのでございましょうか
わたくしは公子を抱えてどたどたとお屋敷の廊下を歩きました。
ええ、公子を抱えてです。わたくしは大柄ですしいくらか体術の心得もございまして、幼子ひとり抱えて歩くくらいわけもありません。
ただ、少々特殊なと言いますか、つまりは人間の子にはいたしません抱えかたをしております。犬猫を抱えるようにですね、こう、両脇の下にわたくしの両手を入れて。公子としては両足がぶらんと宙に浮く格好になります。
こんな抱えかた。たとえば
当然です。これは、畜生に対する抱きかかえかたなのですから。
公子はなにも言いませんでした。ただ身体を固くしていました。通常人間の子して生きていたらまずこのような抱えかたはされないはず、遊びでもないかぎりね。しかしこの子は聡明ですし、これが遊びだなんてトンデモ勘違いはいたしませんことでしょう。
目的地にたどり着いて、はい、いったん下りなさい、とわたくしは公子を下ろしてやりました。公子はこちらをじっと見上げました。怖がっているのはわかりますがびい球みたいにきれいな目をしているのだなと、わたくしはあらためて感心いたしました。
……わたくしはしょせん不細工な大型犬ですが、なるほどこの子はチワワの才なのですねえ。おなじ犬でもそこは違う、か。
このふすまは薫子さまのお遊び部屋に通じております。……とてもだいじな仕切りなのです。俗世と聖なる世界を分ける扉、とでもいえば多少は伝わりがよろしいのでしょうか。
わたくしはちゃんと礼儀作法にのっとって、ふすまの前に正座、「薫子さま」とお声がけ、はい、というお上品なお返事を聞いてから、注意深く正確に、ふすまを開けます。
……薫子さまがそこにいらっしゃるのです。
お着物を涼やかに着こなして。ぴんと背筋を伸ばしていて。眼鏡をかけてご本を読まれているようでした。
周りには秘密になっておりますが、近視のための眼鏡ではなく老眼鏡でしょう。このかたもひと並みに歳を取るのだなあと思うと感慨深く、しかし御年五十を越え母も通り越し祖母となってもなお艶めかしくなっていくこのかたは、はたして、ほんとうに人間なのでございましょうかね。
天人、ではないかしら。
あるいは。輪廻転生からあえて解脱せず、人間よりも上位の存在として、桃源郷のようなところでただただ愉しくはしゃぎまわる天人。
このかたは……ずっと、そうです。ええ。女学校で出会ったときから、そしていまこの瞬間まで、ずっと……。
薫子さまはそっ、と微笑みました。……ああ。なんと、おうつくしい。
そしてそんなにもお上品で完璧で選ばれし者だけにゆるされる微笑をもってして、わたくしを慈しむのです。
「あら飯野。どうしたのですか、騒々しい」
「犬がやって参りましたので、首輪をつけてやろうかと」
「あらあら、飯野。そんなに焦ってはいけません。……ねえ、公子ちゃん。おばあさんとお話しないかしら?」
にこり、と。この哀れな子どもに、微笑みかける。まるで単なる優しい老婦人のようなふりをして。
わたくしはぞくりとするほかない。
――これから畜生に堕ちるこの子にこのかたは、ああ、なんて残酷なのだろう。
じっさい、公子は怯えながらも……すこしばかり、ほっ、としたような表情を浮かべるのでした。
聡明といえども、幼子は幼子。――これから薫子さまにされる仕打ちなど、想像だにできないに違いない。
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