机ひとつ、取ってみましたって
一見すればまあ単なる和室。
それも、奥の和室、とお呼びになります。玄関からもっと近いところには、より広く掛け軸の値打も高い、いわば応接室の役割を果たす和室がきちんとある。当然といえば当然のこと。ここは、天下の天王寺家のご本家なのです。
だが奥とそっけなく呼ばれるこのお部屋は、薫子さまが余暇のほとんどを過ごされるお部屋なのです。一見すればただの和室であっても、そのじつただの和室であるはずがない。
ご遊戯部屋。天王寺家の使用人どものうちでも上の立場の者たちは、この部屋の正確な名称はそうであることを知っております。
たとえば、薫子さまの愛用されている背の低く表面積の大きな書き物机ひとつ取ってみましたってね、なんてことないさりげない机に見えますが、この机は薫子さまが幼少のみぎりよりご愛用されている、歴史と格調ある物でございます。
もっともわたくしにはこの机の歴史の価値はよく理解できても、格調、のほうはじつはさっぱりなものでして。
薫子さまのお母さまが人間国宝級の職人につくらせたものらしく、技術も木材もまあ庶民の一家の一生など軽くまかなえてしまうほどの価値があるらしいのですが、わたくしは薫子さまになんどそう説明いただいても、この机が庶民の居間にもあるまあるいちゃぶ台を四角くして大きくしたようにしか見えないのです。わたくしには美的感覚が備わっていない。
わたくしとてそりゃ、戦後の時代に女ながらも学校に、しかもおそれおおくも薫子さまとおなじ学校に通えるほどだったのですし、まあ良家の娘と言える程度の立場ではございました。いまとなっては遠い異国の話のようですが、わたくしも、若い時分には小さな屋敷でお嬢さまお嬢さまと呼ばれて蝶よ花よと育ったのです、
……蝶よ花よだなんてそんな言葉、女学生のころのわたくしがたどたどしく薫子さまに放ったら、おなじ制服を着ているのに別世界の存在みたいにうつくしいあのかたはあのときもぷっと噴き出したものですが。いまでもあの言葉は聞こえてきますよ。いまよりちょっとは生娘らしく高いがお喋りの抑揚はいまともそう変わらない声でね、あのかたはあのときも、おっしゃった。
『まあわたくしったら、嫌よ、はしたなくてね、人前で笑ってしまうなんて、これは失礼。ですが、あなた。そのなりで、まさか本気で、蝶よ花よとおっしゃっていて?』
……天は人間を平等につくるわけがない。
わたくしは生まれつきが恵まれた環境でした。戦後の動乱のなかであの時代のこの国で、あんなにもおっとり育つことができたのはひとえに、わたくしの生家が成金貴族だったからでございます。わたくしの生家がのしあがった詳細を申し上げることさえも窮屈な新年号の、いまはすでに、平成という世になってしまいましたが、まあぼかして言うならば、わたくしの家はいわゆる闇市で稼いだ元手でとある薬品の商売を成功させた家でした。金はあったが、格はない。しかしわたくしはそんなことにさえ気づかないほどおっとりと、鈍感に娘時代を過ごしたものです。自分はお嬢さんだということになにひとつ疑いをもたない幼少時代でありました。
薫子さんにお会いしたからこそ、わたくしは、でっぷりと醜い愚鈍な犬のごとし自分を知ることができたのです。
……感謝しております。ええ。わたくしの人生をすべて変えていただいたことに。わたくしはけっして仕えられるがわではなく仕えるがわなのだと人生の早くに教えていただいたことは、わたくしにとっては僥倖でございました。こうしていまも貴女さまのおそばでお仕えできることはほんとうにわたくしの身に余る仕合わせ。
ええ、ええ、ほんとうにそうでございましょうよ。
だって。較べることさえおこがしましいことといまはよくよくわきまえておりますが、しかし薫子さまもわたくしも、お嬢さまと呼ばれて育ち、いっときではありますがいっときゆえに永遠のごとく煌くあの女学校時代に、おなじ制服を着ていておなじ学校の生徒として過ごしていたのです。先輩後輩の差はあれおなじ学校ということはおなじ立場。
ああ。そんなこといま考えるとわたくしは非常にくらくらするのです。眩暈がいたします。
……だって。世界の圧倒的上位者である薫子さまと、薫子さまからしてみれば虫とほぼ等価のわたくしが、完全なるとんちんかんとはいえ、おなじ人間であると扱われていた時代がたったいっときでも存在しただなんて!
さぞかし滑稽だったことでしょうよ。ええ。
わたくしの生涯の価値とは薫子さまに無様にも尻尾を振り続けることにのみ存在するものであります。
せめて、虫ではなく、犬猫くらいに思ってはくださらないことか。
そして願わくは、――傲慢という罪と承知のうえで、不細工ながらも愛嬌のある犬、程度に思ってくださらないことか……。
ずっと、ずっとずっと、そうやって生きてきた。
……だからわたくしはじつはこれでいて最大級の矜持があるんです。
わたくしは天王寺薫子さまという存在のおそばで無様にも尻尾を振り続けることを許された、数少ない人類のうちのひとりなのだ、と。
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