ワンと鳴け

 こちらの気配に気がつくと、公子は体育座りの腕のあいだにうずめた顔をわずかに持ち上げました。



 まあまあ、なんと暗い目をしている。黙秘の目ですね、これは。いえ、よくあるんですよ、こういう目ってね、弱者がよくこういう目をするの。卑屈で。叫び声さえ上げられずに。ただただひとのせいにしていく。自分はまったき被害者だと信じて疑ってないから、せめてこうやって視線の湿度を下げることで、まあ、どうにか自我やら自尊心やら保ってるんでございましょ。



 ……なるほど。ふうむ薫子さま、貴女さまの直感といえば空恐ろしい。



 この子ども、天賦の才がある。……わたくしとおなじたぐいの才能ですよ。ええ、この子どもとわたくしは、おなじ種族です。だれかの足もとにひざまずかないと生きていけない哀れな種族。




 だが逆に考えてみればよろしい。この子どもは、弱冠五歳にして、あるじとめぐり会えたということなのかもしれませんよ……。




 わたくしが腰を下ろすこともなく公子を見下ろしていたので、どうも戸惑っているようでした。うつむいては、見上げ。うつむいては、見上げ。きゅっ、とその腕が自身のズボンを掴みます。不安なのでございましょう。無理もない。



「……あ、あの、」



 公子がなにかを言いかけたタイミングを逃さずわたくしはすかさずやんややんやの会議のほうに声を飛ばし、ます。




「それではみなさん、いかがですか、公子ちゃんはうちのペットということでよろしゅうございますかね?」




 場がゆっくり静まり返り、戸惑いの雰囲気。

 ……反応したのは使用人のだれでもなく、公子でした。

「……こーこ、ペットになるの……? ペットって、ペットってね、ワンちゃんとかネコちゃんのことでね、」




 一生懸命なにかを説明しようとする公子に、――だからわたくしは慈悲などひとつも与えませんよ、

 腰を落とし、

 その襟首をつかみ、

 呼吸が苦しいながらもできてしまうぎりぎりのところで、止めてやります。




「……ぁ……」





 公子はなんもかんも理解していないという顔。そりゃそうでしょう。――驚きだなんて気の利いた反応ができる歳でもない。



 周りは、止めません。止めるわけも、ないのです。……わたくしはそういう汚れた役回りです。



「いいですか公子。いえ。……捨て犬」

「す、て、いぬ……?」




 ああ、涙が、幼い少女の涙がぽろぽろと馬鹿みたいにあふれ出てくる。




「捨て犬というのは、あんたのことです。これからようくしつけてやりますよ。手はじめにワンと鳴いてみなさい」

「……え、うぅ、で、でもこーこは……ワンちゃんじゃないですよ……?」



 ふむ。この歳にして敬語を使えるか、なかなかのもの。――そう思いながらもそんな感心わたくしはおくびにも出しません。



「いえ。犬です」

「……犬じゃないです」



 わたくしは、ぎゅっ、と襟首に込める力を強めました。もちろん、調節はしております。そんなところでヘマはしない。これでも薫子さまの酔狂のためだけに、あらゆる武道を修めてきましたわたくしです。



 苦しそうにしている。しかし、悔しそうでもある。……怒ってもいる。かわいい顔でこっちをぎりぎりと睨みつけてくること。



「どうしても、言えませんか? そのたったひとことが、どーうしても、言えないと?」

「……だ、って、こーこは犬じゃないもん……」




 ……まあ、ここらが塩梅でしょうかねえ。




「犬。もういちど捨てられてもいいのですか?」




 捨てる――その単語が出た瞬間のこの子どもの驚きようと言ったら、まあ。




「ほら、見てみなさい。あすこに池があるでしょう。悪い犬はいらない。だからあすこに投げ捨てます」




 がたがたがたがた、と。

 ああ、みごとなまでに、――怯えてしまって。




「でも、いまここでひとこと犬として吠えてみせれば――とりあえず生き延びられますけど」





 いざ、とどめ。





「……生きるか死ぬか選べってことなんです。わかりますか?」



 青と、赤。

 この子どもの表情は、青と、赤。

 恐怖と、羞恥。



 この子どもの血管のすじはどちらも複雑に絡み合って――

 蹂躙された人間としてまだまだまだまだ傷つけられていて、



 泣きそうな顔で、

 ……ぽつり、と、




 でも、鳴きました、――大変いい子に鳴けました。

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