未来とコロのはじめての夜(2) 未来

「……こ、こっ、あ、あう、こ、こ……」



 こ、とは犬は鳴かないはずだが、未来はとくに止めもしなかった。どころか、より顔のおとなっぽい優しさをまして、うん、とコロのすべてを促すかのように、力強くうなずいた。

 コロはいまだに未来をうかがっている。これでいいのかと、迷っている。この半月の経験は少女をそこまで卑屈にするのに充分すぎるものだった。しかし未来はこれでいいともういちど言わんばかりに、うん、ともういちど、もっと力強く、うなずいた。

 コロは犬の肉球を模した手袋を固定された哀れな両手、前足としての両手で、ケージの鉄格子を掴もうとしている。この半月でそれなりに使いこなせるようになったとはいえ、その手は、人間としてあるべきそれと比べてしまうとあまりにも不自由で、哀しい。飯野が風呂には入れているが、清潔かどうかという問題ではなく、常識的で良識的なひとびとがこの子を見たらまず不快感で顔をしかめるのであろう。この子はいま、人間というには足りず、獣というには過ぎていた。腰の近くまでもある不自然に長い髪は結ばれることもなく、この子どもが知恵遅れのあの母親と四畳半のお城で暮らしていたころと違って、飯野がただがしゃがしゃと乱暴に頭皮をひっかいてシャワーでざざっと洗い流すだけなのだ、当然トリートメントもドライヤーもなされない。この屋敷に来たときには艶やかであった髪はずいぶんと傷んでしまっている。髪だけではない。肌も荒れ、目も落ちくぼんだ。言うまでもなくストレスもものすごいから髪も肌もどこも荒れるし、四つん這いで犬食いをすることにはいまだ抵抗があるから、栄養もろくに摂れない。いくら栄養的に問題がないとはいえほとんど残飯のようなものをぐちゃぐちゃにされてエサだと出されれば食べたくなくなるのは仕方がない、人間の子であったのだから。生まれてから、いままで、この子はずっと、自分が人間で、そのことだけは疑ったことがなかったのだから、――たとえ詐欺師の父親が遠くある南の島のことは疑ったとしたって。

 コロ自身は容姿のすぐれた少女であるのに、そのあまりの虐待の痕跡は、この子どもを見るに堪えない気持ち悪い存在にしていた、――人間未満で、獣以上。

 コロはかしゃん、と鉄格子をわずかに揺らした。おとなが自らの手を額に当てて苦悩するかのように、この子は、鉄格子におでこをくっつけて哀れ拘束された右手をその隣に当てている。



「……こう、こ、あ、う、……コロね」



 ちゃんと、言い直した、――えらい。呑み込みがとても早いのだ、この子は、――それゆえこの歳にして絶望することさえも可能であった。天王寺薫子もそこは認めるであろう、すばらしい素質……いや。もしかしたら、それはやはり、才能、なのかもしれない、と。



「こ、コロ、ね」



 たどたどしく、しゃべる、じつに七日ぶりにひとの言葉を、しゃべる。


「……あぅ。コロ、しゃべっても、怒りませんか?」

「怒らないよ。僕はそんなにコロを怒りたくないんだよ。しゃべってみ?」


 未来は相も変わらずおとなぶることが得意だ。


「……こ、ろ、コロね」

「うん」

「コロ、……やだ、やなの、いやなの」

「なにがいやなの?」

「……ぜんぶ」


 コロのガサガサの肌に涙の川が二本、つうっつうっと流れる、――砂漠の川がいまこの子どもの肌に顕在している。



「……やなの、やだ、やなの、あのね、寝てもね、取れない。取れないの、きもちわるいのが取れないの、あのね、コロはね、夜はね、寝ててもいいの、そう言うの、けどね、なんかね、やなの、ずっと、ずっとずっとずっとね、いやなの……あぅ……いやなの、いやなのおー……」

「コロ、落ち着いて、なにがいやなの? なにが、とれないの?」

「……コロ、四つ足でなんか、歩きたくないよお……」



 がしゃん、と。



「歩いても、歩いてもね、コロね、ずっとおなじなのね、きもちわるいの、コロね、あのね、良い子だからね、歩くんだけどね、行けないの、良い子になれないの、だからコロってずっと悪い子なのね、歩いてもね、歩いてもね、壁がね、あって……コロ、汗かくの、汗っかきじゃないってママ言ってたのに、コロ、汗かくの」

「……汗が、きもちわるいの?」



 コロは泣きながらこくりとうなずいた。



 ランニングマシンでの四足歩行の訓練は当然、汗を大量にかく。真夏であるから空調には飯野がよくよく気をつけてはいるが、それだからといって過剰な運動をさせれば、汗はかく。



 その感触がまとわりついて離れないとコロは泣く、――極限状態。

 とても、つらそうに、泣く。



 癇癪を起こして爆発的に泣いたときのことは別として、この子の泣き声はけっして、うるさくない。ただ哀しそうに泣く。うわーんでもうえーんでもない。ただ、うっ、ううっ、と泣く。おとなに主張するために泣いているのではないのだ。泣かねばならぬから、泣いているのだ。



 未来は自身のベージュ色のシルクのパジャマを着た首もとを見下ろした。一見するとダルッとしたネックレス――しかしその役割は本質的に違う。


 未来が就寝時も首から提げるよう飯野から言われているのは、コロのケージの鍵だった。その指示の残酷性そのものをいまの未来が理解することは天王寺薫子も飯野も期待していない。ただ鍵を主人がつねに首から提げるということの残酷性を熟知しているからこそ、天王寺家のとち狂ったおとなたちはこうやって未来に格好のいいネックレスのごとく、ケージの鍵を、提げさせて、所有させる、――主導権の象徴を握らせている。


 未来は、とても、困った顔をしていた。悩んでいるのだ。なにせ祖母から、未来がうまくしつけをできなければコロは川に捨ててくると言われている。そして天王寺薫子とはそれをためらいなく実行できる存在でもある。罪かぶり役は飯野がいるし、じっさい川の土手に捨ててでもいいし、まあ売り飛ばすなり玩具にするなり、このレベルの見た目の少女であれば利用価値があると天王寺薫子は平気で思っている人間だ。そこまでの祖母の本性はまだ、孫である未来は知らないのであろうが。それでも、ただコロが自分のせいで捨てられたらいけないと、がんばって、コロの主人たろうとしていた。


 だが……天王寺薫子が天性の神的存在であったとしても、この少年ははたして、と――。

 未来は、鍵を、きゅっと握りしめた。

 そして、ごく自然な流れで、鍵を差し込み、そのケージの南京錠を開けてやった。

 キィ、と扉が開く。コロは、きょとんとしている。



「……おいで。コロ」



 未来は、やはりいまも、なにか悲壮な決意をした英雄のような顔をしていた。

 いや。英雄と言ってもこの少女には足りないのかもしれない。救世主。神。……いや。



「……未来、……さま」



 少女がそう呟いたごとしなのだ、そう、――未来!

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