仕事とはいえ
公子はわかっているのかいないのか。だが薫子さまはこれでよいと判断されたようです。公子から離れると顎をわずかに突き出して、下げなさい、と言いました。……下げなさい、ね。下げる。ああ、もうすでに、この御方には公子がひとの子ではなく犬に見えているのでしょう。そういう御方です。事実を自身の好きなように歪んで見つめて、それを恥どころか神に選ばれし人間の特権だと思ってらっしゃるのです。
わたくしはこのお部屋に入ったときのごあいさつ以来で、喋ります。
「はい。それではいますぐこの子の支度を……」
「いえ飯野、あなたには確認があります。適当なひとを呼んでこの子は世話させておきなさい」
「……はあ。確認」
わたくしの呟きに薫子さまはなにも言いませんでした。わたくしはお屋敷のなかでだけ使える使用人用の業務用PHSを鳴らしました。相手はすぐに出ます。
「はい、桜井です」
「ああ、桃さん。いまはお手すきですかね」
「あ、はい。苗床のお世話してましたー」
「奥の和室に来てください。公子の支度を手伝ってください」
「……はいー。それではいま行きますー」
桃さんの妙な間。まさかほんとうに犬として子どもを飼うのかと訝っているのでしょう。桃さんは常識人です。すくなくとも、ただの常識人としてふるまえる程度には。短大卒で婚約済みの常識人の若い女。だがわたくしは桃さんのことを仕事の後輩として信頼しておりました。……桃さんの外界への無関心さはひとつ才能です。たとえ公子が泣き喚いて愚図ろうとも、困ったように薄い笑顔を浮かべながらも、頑としてこちらの命令を守ると、雇い主である薫子さまそして上司のなかではもっとも立場が上のわたくしの言うことを、守るだろう、他人の子どもの泣き顔にほだされることなどなく仕事をやってくれるだろうという確信が、桃さんに対しては、ありました。……自分の子ならいざ知らず。桃さんは、そういった素の冷たさをもつ娘だとわたくしは判断しております。
だからそうやって一瞬戸惑っても、すぐに、そういうことだ、と受け入れてくれるでしょう。桃さんは。……人道が倫理が家の傷がリスクがと声高に機械のように繰り返す天王寺のご一族のかたがたより、ずっと、桃さんは現実的に涼やかなのだ。
「はい、それじゃ。頼みますよ」
わたくしのほうからPHSを切りました。桃さんはピチピチの女性でもあるのにしっかりと教育が行き届いていて、業務用PHSであっても、目上の人間と話すときにはけっして自分から通話を切断しません。
一分間もしないうちに桃さんが来ました。とりあえず準備済みの使用人室のひとつに公子を連れていき、支度をしてくれるよう頼みました。桃さんは神妙にうなずきます。いくら仕事とはいえ、嫌なのでしょう。桃さんは淡々とやってくれる。そう思うから任命したわけですが、桃さんとしてはきょうの仕事は外れクジだと思っているやもしれません。
そりゃ、嫌でしょうよ、ふつうのひとはね。ましてや婚約者もいるうら若い女性だ。仕事とはいえ、では、婚約済みの恋人に話せる仕事であるのか。愚痴にするにはちょっとしんどい仕事であるでしょう。
仕事とはいえ――幼子に首輪をつけるだなんて。
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