第27話 古傷
「その血を落としたら、すぐにここから離れる。川沿いは見つかりやすい」
「……わかった」
まだ歩くのか、と内心ではうんざりするが、文句は言えない。追われる身というのは、酷な生活を強いられる。まだ一日と経っていないのに、もう音を上げてしまいそうだ。
(着付け出来ないんだけど……)
着物の帯を解いてしまえば、もう結び直せない。そうなれば、浴衣の結び方で誤魔化すしかない。
一番上に着ている着物だけだったので、帯を解き、
「お前はそういう奴だよな」
「なにが?」
呆れたように言うリンをきょとんと見やる。
リンの隣で、テツが困ったように視線を泳がせている。
「お前が通っていた学び舎は、
「くる……はああ!? ち、違うし!! 普通の学校だし!!」
「寝間着で歩き回る根性もそうだが、あのやたら脚を出す〝制服〟とやらも、正直どうかと思う」
「変な言い方しないでよ!! 別に普通じゃん!!」
「男の前で平気で下着になる奴が、普通を語っても説得力がない」
リンはため息をつくと、
(……下着?)
取り残された葵は、ぽかんとする。
自身の出で立ちを改めて確認した。薄い純白の
葵の思う下着とは異なるが、長襦袢というのはそれと同等の姿らしい。
「──隠れてるのに……?」
普段、着物など着る機会がないのだから、そんなことを言われてもいまいちピンとこない。
(でも一応、気をつけよう……)
漠然と思いながら、冷えた川に足を沈めると、大きく身震いした。
「はあ……何回ずぶ濡れにならなきゃいけないんだろ……」
顔や髪についた血を入念に洗い落としていく。赤く染まった水は上流へと登っていくにつれ、薄まって消えていった。
逆流しているのは水神の川のみらしいが、見れば見るほど不気味に思う。
森でサバイバル中なのだから仕方がないことはわかっていても、野外で水浴びというのは非常に辛いものがあった。
(お風呂、はいりたい……)
巫女の間での露天風呂がどれほど贅沢なことだったか、今となっては身にしみてわかる。
血痕だらけの着物を手で揉んでいると、お腹の虫が大きく鳴いた。
「お腹すいたな……」
だが、この森の中でまともな食事にありつけるのか
吹きつけた風によって、汗が急激に冷やされて身震いする。
「寒っ……」
付着してから時間の経った血痕は、完全には落ちない。諦めて、着物をまるめて絞り、水分をできるだけ抜くと川からあがった。
木の陰では、テツが一人で待っていた。辺りを見回してもリンの姿がない。
もしやまた喧嘩でもしたのだろうか、と心配になって訊ねる。
「……あれ、リンは?」
「ああ、あいつは──って、おまっ……!? いつまでそんな格好してんだよ!!」
葵の姿を見るなり、テツは慌てたように顔を逸らした。
「だってしょうがないじゃん。濡れた着物なんて重いし寒いし、着てられないよ」
「──はっ!! それもそうか……」
不貞腐れたように言い返すと、テツはすんなり納得した。すると突然、テツが着物を豪快に脱いだので、今度は葵が慌てて顔を逸らす。
「──ぎゃっ!? ちょっ、なんで脱ぐの!?」
「俺のを貸してやるから、乾くまで着てろ!!」
「い、いらないよ!! なんか汚いし!!」
「ひどっ!! き、汚いって……おまえ……」
「いやいや、違くて!! だって泥だらけだから!!」
ショックを受けているテツに、慌てて弁解する。
リンと揉み合いになったせいで、土汚れのついた着物はお世辞にも綺麗とはいえない。それよりも、ずっと
「我慢しろよ!!」
「我慢もなにも……別に恥ずかしくないもん」
「そういう問題じゃないんだ!!」
はだけた着物でずいずいと迫られて、なんとかテツを視界に入れまいと目を覆う。
「裸でうろつかないでよ変態!!」
「お前がそれ言う!?」
二人で言い合っていると、どこへ行っていたのか、リンがが戻ってきた。手に抱えた巨大な葉には、木の実や木苺が積まれていて、葵の視線は一瞬で釘付けになった。
「放っておけ。そいつはそういう女だ」
「私、どんなイメージだよ」
リンはそれには答えずに腰をおろすと、今日初めての食事を葵の前に差し出した。
「野宿するなら川のそばが良いだろう。見つけるまでは休めない。今のうちに食っておけ」
「────か、神!!」
「……は?」
首を傾げるリンを他所に、葵は歓喜の声を上げて木の実をつまんだ。疲労した身体に甘味が浸透し癒していく。二口目からは手が止まらなくなり、無我夢中で食べ進めていく。
ふと視線を感じて隣を見やると、口に運ばれていく木の実を、テツが物欲しそうな目で見ていた。半開きの口からは涎がダラダラと垂れ流している。
「食べないの?」
「……いらない!!」
テツは食欲を力ずくで押し殺したように目を逸らした。
「お前も腹に入れておけ。後で足でまといになっても困るからな」
「いいって言ってるだろ!!」
「見張りを任せたのは貴様の方が逃げ足が早いからだ。いざとなれば、それを使うことになる」
テツは俯き押し黙った。膝に置かれた拳に力が込められる。テツ自身、まだ腑に落ちない部分があるようだった。
それを冷めた目で見下ろすと、ピシャリと言った。
「食え。遅れをとれば置いていく」
意外だった。
てっきり、テツのことは戦力外としているかに見えたが、安全に森を抜ける為に適材適所を考えている。だが、森を抜けた後のことはわからない。テツに面と向かって殺害を宣言しているし、葵を本殿に連れ戻したら自害するとまで言っていた。
(本気、なのかな……?)
リンの
葵は木苺を見つめながら、ぼんやりと考え込む。
「──あっ!!
「──ぐっ!! 貴様なにすっ……!?」
テツとリンが騒がしい。葵は思考の沼に浸かっているため、何を揉めているのか、耳に入ってこない。
リンが地下牢から連れ出されてから、巫女となる赤子が
(それって、単に不運が重なっただけなんじゃ……?)
だとしたら、早まる前になんとかしてリンの考えを変えなければならない。
「なーに恥ずかしがってんだ、男のくせによ」
「違うわ!! 貴様、自分のがあるだろ!!」
口を動かしながら黙々と考え込んでいると、いつの間にかまた二人が言い争っている。その声がうるさくて、考え事に集中できない。
「もう、また喧嘩してっ──!?」
またか、と呆れつつも、止めようと二人を見やって言葉を詰まらせた。
前が全開のテツが、リンの着物を無理やり脱がそうと
「俺のは葵に貸す。だから
「誰が貸すか!!」
「じゃあ、
「ふざけるな!!」
「
「死ね!!」
(──なに、この状況!?)
葵は混乱した。
不仲の二人のことだ。きっと喧嘩なのだろうが、見方によってはその真逆にも見える。
葵は恐る恐る声をかけた。
「──な、なにしてんの……?」
困惑する葵に、テツが無邪気に笑いかける。
「待ってろ。今着るものを調達するから!!」
「はあ!? 誰が貸すと言った!!」
「俺だ!!」
「お前が言うな!!」
胸を張って答えるテツに、リンが噛み付くように言い返す。
やはり喧嘩だ。葵はほっと胸を撫で下ろした。
「な、なんだ……。なにを見せられてるのかと思ったよ……」
安心している自分と、妙な高揚感を抱く自分が身の内にいる。しかし、すぐにはっとして仲裁に入った。
「お、追い剥ぎは良くないよ!? 私のことはいいから──」
「聞いたか。そんな恥じらいの欠けらも無いような奴に、手を出す物好きなどいるわけがなかろう。ほっといても平気だ」
リンの言い草に、自分の中の何かが、ブチッと切れるような音を聞いた。
「ありがたくお借りします」
「まかせろ!!」
「このくそ
にこやかに微笑みかける葵に、リンは粗暴に悪態をついた。それがさらに、怒りの火に油を注ぐ。
「──ふんっ!! 人を雑に扱うからよ!!」
戦闘ではリンが
「二着もってんだからケチケチすんなよ」
「この、いい加減に──っ!!」
テツが襟首を掴んで思いきり引っペがすと、リンの白い背中が半分ほど
テツの手が止まる。大きく開かれた目は、その背中に釘付けになった。
リンの背中一面には、無数のみみずばれが隙がないほどに刻まれている。
「──お前、これ……」
「どけ」
唖然としているテツを乱暴に押し退けると、着崩れた着物を手早く直した。
「ゆっくりし過ぎた。残りは歩きながら食え」
怒ることもなく、妙に落ち着いた声色だった。葵が最初に出会った頃の、無感情な
リンはとくに気にした素振りもなく、ぼんやりしている二人を置いて先を急いだ。
「──ま、待ってよ!!」
二人は慌てて残りの木の実を掻き集めると、リンを追いかけた。
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