第9話 襲来

 子を抱いた物乞いの女や、ずっと力なく座り込んでいた者も散り散りになって逃げ出した。

 道の真ん中で親とはぐれた子供が泣いている。けれども誰も、他人を庇う余裕はない。


 中心部の方からは鐘の音が忙しなく鳴り続けている。おそらく、この国での警報なのだろう。

 葵は、川に浸かったまま動けずにいた。目の前の妖獣から目を逸らせない。少しでも動いたら丸呑みされると、本能が告げている。

 なんとか川から上がらなければと、少しずつ後退していく。緩やかに流れる川の色が濁っていることに気が付いた。木屑きくずに混じって生活用品や着物なども流れてくる。

 とん、と重みのある塊が葵の腕にぶつかった。

 葵はそれを柔らかいマネキンだと思った。それが幾つもぷかぷか浮かんで流れてくる。五体が揃わず、不完全なものも少なくない。なんともシュールな光景だった。

 葵はそのうちの一体を目で追っていた。見慣れないものを受け入れるまで時間を要したのだ。

 すぐに死肉の匂いがつんと鼻をついて、ようやく川を染めているものが何なのかを理解した。


 恐ろしさのあまり、悲鳴をあげるまで自分を狙う妖獣のことをすっかり忘れていた。

 気づいた時には獣の口が目前に迫り、葵の頭を吸い込もうとしていた。


(────死……)


 それを本当の意味で理解したと同時に、視界が暗転した。

 人生の終わりには走馬燈が見えるというが、あれは嘘だ。葵には見えなかった。死に際に見せる程の内容などなかっただけかもしれないが。

 しかしすぐに視界が開けた。その先には鮮やかな血が降り注ぎ、胸焼けをおこすような生臭さに嘔吐した。


(た、食べられたかと思った……)


 確かに喰われたのだが、通り道だったはずの鳥のくびはスッパリと斬り離され、赤黒い断面が葵の方を向いて転がっていた。


「本殿から出るなと、言ったはず」


 やけに落ち着いた声がした。この地獄絵図のような惨状に似つかわしくないのに、妙にしっくりくる。

 けれど、今は一番聞きたくない声だ。


「──リン……」


 辺り一面の赤色では充分すぎるほど目立つ配色だ。

 片手に握られた刀から獣の血が滴り、真っ白な水干すいかんについた返り血が生々しい。

 リンは鳥頭の断面から頬に向かって刃を入れて切り開き、葵を解放した。


「どうして……?」

「本殿の周りは断崖絶壁。外へ出る道は正面しかない。それに私が居た書庫からは楼門ろうもんがよく見える」


(最初から全部見られてたのか……!!)


 手を差し伸べられたが、罰が悪いのと悔しさで躊躇ちゅうちょしてからその手をとろうとした。

 しかし互いの手は重なることはなく、葵は首根っこを掴まれて網に掛かった魚のごとく引き上げられた。

 首が締まって「うぐっ!!」と呻き声を漏らす。


「だから雑なんだって!! なんでそこ掴むの!?」

「巫女には触れたくない」

「人を汚いものみたいに……!?」


 確かに血や諸々もろもろで汚れてはいるが、そんな言い方しなくてもいいじゃないか。

 不満を眼で訴えるが、相手は気に留める様子もなく、紐の端をくわえて器用にたすきをかけている。


やしろに戻るぞ。決して離れるな」

「でもまだバケモノが!!」


 あんな大きな獣を一発で仕留めたなら、襲われている人々を助けられるはず。そこらじゅうで


「それは私の仕事ではない」

「……な、何言ってんの? あんた神子みわこなんでしょう!?」


 耳を疑った。仮にもこの国を納める王の息子から出た台詞とは思えない。


「巫女の命が最優先。大勢を庇いながらお前を護れる程、妖獣狩りは容易ではないよ」

「私はもう助かったから、他の人を──」

「たとえ己の命にかえようとも、災蝕さいしょくまで巫女を護り抜く事、それがおくり子の役目の一つ。私とて例外ではない」

「でも人が死んでるのに!!」

「ならばなおさら今はこらえろ。お前が災蝕を止めれば妖獣アレもいなくなる。さすれば大勢の命を救えるのだ」


 ピシャリと切り捨てられ、また猫でもつまみ上げるように襟を掴まれた。

 知らない世界で、わけのわからない災害を止めろだなんて押し付けられたって、ただの学生に何が出来るというのか。


(今だって喰われそうだったんだ! ────こんな怖い思い、二度とごめんだ!!)


 立ち上がらせようと引っ張られた瞬間、思いっきりリンに体当たりをすると、不意をつかれたリンは川へ落ちた。


「だから私には無理なんです!!」


 水に浸かったままのリンに捨て台詞をはくと、葵は振り返らずに全速力で退散した。



***



 残されたリンは、受けた仕打ちに胃が沸騰するのを感じていた。


「────おのれ、あのアマ……」


 ギリッと奥歯が音を立てる。

 この屈辱は倍で返してやろう。けれど今は、役目を果たさなければならない。


(逃げられやしない)


 リンは自信があった。

 誰ひとりとして、自分から逃げ仰せた者はいない。そしてそれは葵も例外ではないのだ。



***



 きっと今頃、リンあの男は怒り狂っていることだろう。次捕まったらきっとただでは済まない。


(妖獣も怖いけど、あいつのがめちゃくちゃ怖い……!!)


 もう捕まるわけにはいかない。

 二度と追いつかれないよう、狭い路地を縫うように駆け抜ける。


 うまく距離を離したはいいが、初めての村で、こうも建物が入り組んでいては、迷子になるのにも時間はかからなかった。さっそく行き場を失うが、それでも目の届く所では人が死んでいる。見たくないものばかりが目につく。


 突然、前方から妖獣が急降下してきたので、葵は咄嗟に伏せた。間一髪、爪が髪を掠った程度で済んだが、代わりに後ろで逃げ惑っていた男が捕まり、空へ攫われていった。もう一匹の妖獣が餌を横取りしようと襲いかかり、上空で奪い合った末に手足が裂け、一番大きな肉塊は喰い損ねる結果となった。


 恐ろしさのあまり物陰に身を潜め、震える体を抱くようにして蹲った。

 耳を塞いでも、人々の泣き叫ぶ声を完全に遮ることは出来ない。

 生身の人間が次々と餌食になっていく。血肉が裂ける耳障りな音が、葵の精神を追い詰める。

 次は自分だ、と死が迫っているのを本能で感じる。

 一度味わった死の恐怖は、確実に胸に刻まれていた。


「嘘だ……こんな、こんなの……」


 こんな惨状を目の当たりにしてようやく、今居る場所が自分の知っている日本ではないことを理解した。


「そこの方! 大丈夫ですか?」

「──いやっ!!」


 突然、誰かに肩を掴まれ、反射的にそれを振り払った。完全にパニックを起こしていた。

 顔を上げると、同じ年頃の少女が、心配そうに葵の顔を覗き込んでいる。着ている着物は色褪いろあせているうえに土埃で汚れおり、裾はすねあたりで破れている。

 少女は葵の腕を掴んで立たせると、驚愕したように目を見開いた。上から下、そしてまた上へと視線を移らせた。


「まさか、巫女様──!? なぜこのようなところに!?」

「えっ?」

「ここへ来てはいけません!! 早く本殿へお戻りください!! ここは──!!」


 突如鳴り響いた重厚感のある音が少女の声を遮った。

 おそらく法螺貝だろう。前に観た映画でその音を聴いたことがある。

 すぐに男達の物々しい雄叫びが近付いてきた。


「兵士が来ましたよ!! 安全なところへ身を隠しましょう!!」

「や、やだ!! 戻りたくない!! 早く家に帰りたいの!!」


 引かれた手を振り払い、その場に縮こまった。

 少女が息を飲んで見張っているのが伝わってくる。


「────どこに?」


 顔を上げると、少女はその大きな目で葵を見つめている。驚きというよりも、同情しているような表情かおだ。


「どこに帰るというんです?」


 声色には哀愁あいしゅうが込められている。


「帰る場所など……」

「私にはある!! お母さんも友達もいるもの!! きっと私を心配してる!!」


 葵は噛み付くように言い返した。

 身の内で渦巻いていた感情ものが、せきを切ったように溢れ出た。

 少女は口を閉ざし、ただじっと葵を見つめている。


「巫女がどうだとか、私には関係ないし!! 巻き込まないでよ!! 私は帰りたいの!!」


 この少女こそ無関係だというのに、全てのいきどおりをぶつける。八つ当たりだ。

 だが、少女は怒るどころか、慈愛に満ちた微笑みを向けている。


「私は、紗華さいかと申します」

「……あおい

「葵様、素敵な名でございますね」


 紗華さいかは周囲を見回したあと、数メートル離れたところに建っている小屋を指さした。耐久性は期待出来ない見た目だが、背の高い家に囲まれていて、あまり目立たない。


「あそこまで走りましょう! 大丈夫です。私がついていますから!」


 同年代の女の子なのに、この状況で落ち着いているうえに、他人ひとを気遣う余裕を見せつけられ、葵は取り乱していた自分が恥ずかしくなった。

 上空を伺い、妖獣が通り過ぎた隙に二人で全力で走った。その間も紗華さいかは葵をかばうように後ろに付いている。

 走ってほんの数秒の距離なのに、とてつもなく長く感じる。


(────もう少し!)


 突如前から突風が吹き荒れ、巨大な鷹が降り立った。驚いて尻もちを着いた葵を飲み込もうと、またあの鋭く大きなくちばしが迫る。


「葵様!!」


 悲鳴をあげる間もなく、葵は目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る