第6話 水波盛

うっすら瞼を開けると、差し込んだ光が眩しくて、もう一度目を閉じた。何度か瞬きをすると段々と目が慣れてきて、ようやく完全に目を開くことが出来た。

上半身を起こすと、体の節々が傷んだ。おそらく、相当長い時間眠っていたのどろう。まだ少し頭の中がぼんやりする。


(あれ、確か井戸に落ちて……死んだ!?)


 しかしこうして意識があるし、体を動かすことも出来る。起き上がろうとすると、関節がきしんだ。


「痛い…… 」


 では、あれは夢だったのだろうか。

 うーん、と首を捻っていると、ようやくある事に気が付いた。

見覚えのない部屋。和室の真ん中に敷かれた布団の上に葵は居る。起き上がったせいで、和柄の掛け布団が力なく葵の膝の上でしわを作っている。

 布団の横には、時代劇で見るような木製の桶に白い手拭いが掛けられていた。

それは葵がこの家の者に拾われた事を意味している。


(あれ……? 井戸に落ちたんだよね?)


 直ぐに誰かに見つけられて引き上げられたのだろうか。それもと、井戸と思っていたものは実は海と繋がっていたのだろうか。

 経緯はわからないが、とにかく助かったのだ。

 こうして看病までしてくれていたのだから、家主はきっと良い人に違いない。


(でも……)


 葵は深い溜息をつく。心の片隅ではガッカリしていたのだ。


「まだ、生きてるんだ…… 」


 これから養父母やナナとの事もあるし、あのまま死ねた方が楽だったかもしれない。

 葵の心とは裏腹に、障子の向こう側から明るい日光が差し込んでいる。

 布団から這い出て静かに障子を開けてみると、目に飛び込んできたのは、キラキラと輝く水面と朱色の柱、床は木板が並べられており、日本でよく見る神社のような造りの屋敷だ。しかも驚くことに、この屋敷は水上に建てられている。辺り一面を見渡しても地面が見えない。代わりに水面がどこまでも続いていて、葵のいる屋敷の周りは塀で囲われているが、その先もずっと続いているようだ。水面が鏡のように反転した屋敷を映し出している様は、まるで天空にでも迷い込んだ気分だ。

 現実離れした美しさに圧倒され、もしかしたら本当は死んでしまったのではないかと疑いさえ持ってしまう。

 ここは〝あの世〟なのかもしれない、と。


「お目覚めになられましたか」


 突然背後から人の声がして、「ひゃっ!?」と、うわずったった声をあげてしまった。

 景色に見とれていて、人の気配に気が付かなかった。

 振り返ると、開けっ放しの障子の横に桃色のシンプルな着物を着た若い女が、うやうやしく床に手をついて軽く頭を下げている。まさに時代劇でよくいる女中さん、といったところだ。その仕草は上品で様になっている。


「……え、と、ここは? この家の人ですか?」


 女中は顔を伏せたまま答えた。


「ここは水波盛みなもりがご当主にして、神王みわおう惲薊うんけい様が管理するおやしろにございます。私は、巫女様のお世話をおおせつかっております。菊乃きくのと申します。なんなりとお申し付け下さいませ」

「……え、えっ? ミコさま?」


 随分丁寧な言葉遣いなうえに、聞きなれない単語を詰め込まれ、逆に混乱する。かろうじで聞き取れた単語だけをオウム返しするしか反応が出来ない。

 これではバカだと思われてもしょうがない。


「はい。水巫女みずみこ様であらせられます」

「……は? いえ……私は葵といいます」


 人違いでもしているのかは知らないが、断じてMiss.ミコという名前ではない。

 しかし菊乃きくのは驚くわけでもなく、深々と頭を下げた。


「では葵様、お目覚めになられた事をご報告して参ります」

「ちょ、ちょっと待った!!」


 失礼致します、と立ち上がろうとした菊乃きくのの手を掴んで引き止めると、菊乃きくのは目を見張った。それから慌てて葵の手を振りほどいた。

 そんな嫌がらなくても、と傷心していると、菊乃きくの再び座り直して深々と頭を下げた。


「も、申し訳ございません!私のような身分の低い者が巫女様に触れるなど……!」

「ど、どうして菊乃きくのさんが謝るんですか?」

「お断りもせず巫女様に触れることは、ご無礼にあたりますので! それから、わたくしのことは、どうぞ〝菊乃きくの〟とお呼びくださいませ」

「え……? は、はあ……」


(なにそれ、なんか怖いんだけど!)


 なんだか大袈裟おおげさあつかいを受けているが、葵はただの高校生であって、そんな待遇たいぐうを受ける覚えはない。悪い気はしないが、居心地が良いとも言えない。

 葵は視線を合わせようと、菊乃の前でひざをついた。


「私から触ったんだし、たとえ菊乃さ……、が私に触ったとしても、謝るようなことじゃないです。どうか、頭をあげてください」


 おずおずと顔をあげた菊乃と、ようやく目が合った。歳は二十代前半くらいで、化粧もせずに身なりは質素しっそだが、楚々とした可憐な顔をしている。


「むしろ、助けてもらったのは私の方で、ずっと菊乃さんが付き添っていてくれたんですよね?」

「それがわたくしの役目にございます」

「それでも、見ず知らずの人間のお世話なんてなかなか大変だと思うから。本当に、ありがとうございます」


 改めて礼を言うと、菊乃は照れたように頬を染めた。そのおかげか、二人の間には和やかな空気が流れる。

 葵はここぞとばかりに疑問を投げかけた。


「ところで……ここはどの辺ですか?」

「……?」


 返事がない。今度は菊乃がぽかんとしている。

 突然黙り込まれると、何か変な事を言っただろうか、と不安になる。


「ほら、県名とか……私、かなり流されたんですかね?」


 言い回しや着ている物を見ると、かなり辺鄙へんぴな所まで来てしまったように思える。

 菊乃は考える素振りを見せたあと、罰が悪そうに頭を下げた。


「……あの……私の知識が及ばず、そのような〝県名〟とやらは耳にしたことがなく──」

「──い、いいんです全然! 知らないなら……えっ、ほんとに? 県名知らない?」


 耳を疑ってもう一度聞き返すと、菊乃は額を床に擦り付けんばかりに謝罪した。


「も、申し訳ございません! なにぶん勉強不足にございまして──」

「いやいやいや! こちらこそ、なんかごめんなさい!!」


 菊乃に習って手をついて頭を下げた。廊下のど真ん中で、互いに土下座で謝る様は、はたから見たら奇妙な光景だろう。

 どうやら本当に関東や、外国の人ですら知っている東京すらも知らないようだ。にわかに信じ難いが、涙目で平謝りする菊乃が嘘をついているようには見えない。


(だったら、私は今どこにいるんだろう? 言葉だって通じてるんだから、国内には違いないだろうけど……)


 ちゃんと家に帰れるのかという不安が押し寄せる。帰ったところで、家の中に入れてもらえるかは分からないのだが。

 しばらく謝り合戦をしていると、先に菊乃が「──でしたら」と思い立ったように口を開いた。


「おくり子様が此方こちらへいらっしゃるでしょうから、聞いてみてはいかがでしょう?」

「……おくり子さま?」


(また聞きなれない単語が出てきた)


 菊乃は突然、焦がれる少女のように目を輝かせた。


「はい! 気を失っていらっしゃる葵様を、おくり子様が此方こちらまで運んで下さったのですよ。葵様のおくり子様は水波盛みなもりの──」

「何をしている」


 菊乃が説明しようとしたのを凛とした声がさえぎった。その声が誰のものか見ずとも分かったのか、菊乃はさっと方向転換をすると、慌てたように平伏ひれふした。その素早さといったら、瞬きする間もない程早かった。

 菊乃の態度に戸惑いながらも、葵は声の方を見やった。


(……白い)


 それが第一印象だった。

 肩で切りそろえられた髪は雪のように白く、氷のように冷ややかな眼差しが、昔からある怪談で定番の妖怪をも連想させる。ただし相手は男であるが、女性的な顔立ちが相まって、より人外的な雰囲気を際立たせている。

 男が来た途端、菊乃との和やかな陽気はかき消され、ピリッとした空気に包まれた。


(もしかしてアルビノなのかな? 初めて見た……)


 生まれつき色素の薄い、珍しいやまいを抱えた海外のモデルをネットで見た事がある。そのモデルは髪も肌も透き通るように白く、妖精のように美しい人だったが、まさしく目の前の男もそれなのだろうか。

 男はわずかに目を細め、菊乃を見下ろした。


「目覚めたのなら、すぐに知らせるべきでは?」


 菊乃の頭の前で立ち止まると、無感情に言った。最初はなから何も期待していない、そんな物言いだった。


「も、申し訳──!」

「名は?」

「こ、この方は葵様と──」

「お前に聞いたのではない」

「──失礼、致しました……」


 菊乃の返事をことごとく遮った上にトドメをさした。まるで、お前は喋るなとでも言っているかのように。


(ひ、ひどっ!!)


 蚊の鳴くような声で謝罪する菊乃を横目に、葵はいたたまれない気持ちになった。菊乃の肩が震えている。最初は悔しさのせいかと思ったが、すぐに違うとわかった。


(怖がってるんだ……)


 初対面でありながら、葵もこの男が怖いとは思うが、菊乃が抱えているそれは、ではないのは目に見えてわかる。それ程までに、相手は畏怖いふすべき存在なのだろうか。確かに、見た目の年齢に似合わず、有無を言わせないだけの威圧感はあるが……。


「そなたの名は?」

「……あ、葵です」


 ぽかんと見上げていた葵は、はっとして間抜けた声になってしまった。言い回しが時代劇ばりに古臭いのも気になったが、つっこむ度胸は流石に持ち合わせていない。それよりも、その言葉遣いがなかなか様になっていて、もしかしたら本当にあやかしたぐいなのかも、と錯覚しそうになる。

 男は気にした様子もなく、葵の前に片膝をつくと、若干声色を和らげた。


「私はリン。 この度、当主より巫女のおくり子役を仰せつかっている。 葵のことは、この私が責任をもって送りとどけよう」

「……あ、はい……あの、ここまで運んでくれたって聞きました。助けて頂いてありがとうございます」


 頭を下げながら、リンという男が言ったことについて解釈をする。


(つまり、おくり子っていうのは、家まで送ってくれる人ってこと? 運転手ってことでいいのかな?)


 なぜわざわざ回りくどい言い方をするのか、いまいち違和感が拭いきれないが、送り届けると言ってくれているのだから、きっとそうなのだろう。

 いくら態度や口調が冷たくても、悪い人ではないのかもしれない。


(菊乃さんへの扱いは、だいぶキツいけど……)


 しかし、この屋敷の当主とやらに命を助けられたのは事実。その家に仕える人ならば、無愛想でもきっと良い人だ、と思い直した。というより、そう思いたかったのだ。


「それと、今しがた確かめたいことがある」

「確かめたいこと……?」


 リンの白い手が伸びて、葵の後頭部に触れた。雪のイメージとは裏腹に、その手には温もりがあり、生身の人間であることを証明している。

 そのうえ真顔でじっと見つめられると、居心地が悪くなって身をよじった。


(えっ……、な、なに?)


 酷く戸惑いながら、菊乃に視線を送ってフォローを求めたが、相変わらず突っ伏したままで、気付いてはもらえない。

 リンとの距離が徐々に縮んでいく。

 葵は緊張していた。なにか、得体の知れない恐怖に、半ばやけくそに両目をギリっと閉じた。


 しかし突然、頭に圧力がかかり、葵は支えきれずに前のめりになった。

 後ろ髪をかきあげられて、首の後ろがさらされる。


「……名前の由来はこれか?」


 その言葉で、首の傷痕きずあとのことだとわかった途端、葵の顔は火が吹いたように熱くなった。


(い、言ってよ! そう言ってよ先に!! びっくりしたじゃん!!)


 至って平然と問われると、めちゃくちゃ恥ずかしい。

 バクバクと鳴る心臓を落ち着けてから、なぜあとのことを知っているのか、疑問が浮かぶ。咄嗟に湧き上がった警戒心でリンの手を振り払い、痕を手で隠すように覆った。


「そ、そうらしいです、けど……」

「アオイには見えないな」


 どういう意味かはとても聞けない。表情が読めなくて、悪気があるのかないのか分かりにくい。


「異例のことにて、聞きたいことが山ほどある。後に当主とのお目通りがかなうが、くれぐれも失礼のないように」

「あ、はい。……あの!」


 背を向けようとしたリンを慌てて呼び止めると、無感情な視線を再び向けられた。


「ここって、どの辺りなんですか?」

「国の中心部にある御神山ごしんざんに決まっているだろう」

「ごしん……? ほ、本州のどの辺り?」

「何を言っている? ここは我が一族が治める水波盛国みなもりこくだ。それ以外に呼び名はない」

「────は?」


 これまでの人生で、一番間抜けな声が出た。


「……は、え? あの……えっ?」

「我が水波盛家みなもりけが治める水波盛国みなもりこくと言った」

「だからどこなのそれは!?」

水波盛みなもりは水波盛だ。それ以外になかろう」

「いや、日本でしょ? ……日本だよね!?」


 人間、ひどく混乱すると礼儀も何も、すっ飛んでしまうらしい。助けを求めるように、隣で頭を伏せている菊乃の肩を揺する。菊乃は戸惑った表情で見返すだけで返事をしない。

 その様子に、リンは怪訝けげんそうな眼を向けていたが、少し考えると、一つの可能性を口にした。


「……頭を打ったのか」

「い、いやいや! そんなんじゃないです!」

「ではもとからか」

「ちょ、どういう意味ですか!?」


 勢いで喰いかかってしまったことにも気付かず、今度は菊乃を問い詰める。


「嘘でしょ? 嘘ついてない?」

「あ、葵様……! おやめくださいぃ!」

 

 そうだと言って欲しい。すがるように菊乃の両肩をさらに強く揺さぶる。菊乃は目を回しながら顔を真っ青にしているが、今の葵の耳は都合が悪い回答は受け付けない状態だ。もはや収拾しゅうしゅうがつかない。

 騒がしい中で、リンが落ち着き払って言う。


「落ち着きなさい」

「む、無理です! だって意味わかんないし! 無理無理!!」

「無理ではない」


 口調が強くなって、思わず葵の手が止まる。


(そんな無茶言う!? 普通、混乱するでしょう!!)


 信じられない、と目を向けるが、相手は相変わらず無表情だ。


「詳しくは当主に謁見した際、全て話してもらおう」


 元々感情を表に出さない性格なのか、やけに落ち着き払っている。どうせ他人事ひとごとくらいにしか思っていないのだろうが、今はそのおかげで場が収まった。釈然しゃくぜんとしないけれど……。

 二人の言うことに半信半疑のまま、一番の心配事を口にした。


「私、帰れるんですか?」


 嘘でもいいから頷いて欲しい。そう願った。

 しかし涙目の葵に返ってきたのは、厳しくも現実的な言葉だった。


「……気休めは言わないことにしている」

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