第5話 呼声
気が付いたら葵は、いつもの
呆然としていたせいで、どうやってここまで来たかよく思い出せない。夜に制服姿で徘徊していたのに、
一番信頼していた人に裏切られていただなんて、もう何を支えに生きればいいのかわからなくなった。
(行き場がない……)
どんなに馴染もうと努力しても、こんなにもあっさりと世界から弾き出されてしまう。それもこれも全て、生まれつき〝
暗闇に包まれた祠は妙に居心地が良かった。陰気な雰囲気が、葵の心に共鳴しているように感じた。
脚に力が入らないのは歩き疲れたせいだけではないだろう。
その場に崩れ落ちるように、地べたにへたりこんだ。日に当たらぬ地面さえぬるく感じた。もう涙すら出ない。
(このまま消えてしまいたい……)
自分など、最初から存在しなかったことになればいいのに。
(いっそ、高校も辞めて、このままどこか遠いところへ行こうか……私の事を知ってる人がいないどこかに……)
その想いだけが心を支配して、存在するはずのない神に懇願した。
『……み……さま』
ふ、と耳を掠めた誰かの声。気のせいかとも思ったが、念の為周りを見回してみる。
暗くて遠くまでは見えないが小さな島だ、もし誰か居たなら気配があるはずた。しかしその気配すらないのだから、やはり気のせいだろう。
『……みず……さま…… 』
いや、確かに聞こえる。
幼い女の子の声だ。
「……誰?」
耳をすまして声の主を探すが、姿が見えない。
その時点で、生きている人間ではないと予想もできたが、その声を無視する気にはなれなかった。どこかで聞いたかはわからないが、聞き覚えのある声だったからだ。
携帯のライトを点灯させて、周辺をくまなく探す。
「誰なの?どこに居るの?」
集中して声の出処を探り、振り返った先に目に入ったのは、ひときわ存在感を放つ井戸だ。
(まさか、井戸の中?)
深さは知らないが、人が落ちたら自力で出ることは不可能だろう。
蓋は閉まっている。
やはり人ではないものか……? でももし、生きている人間が、誰かに突き落とされたのだとしたら……?
「大変!」
葵は木製の井戸の蓋をズラそうと体重を掛けて押した。
思いの外あっさりと蓋がズレて、井戸の真っ黒な穴が三日月形に口を開けた。半月程度になるまで蓋を押しのけ中を覗くが、暗くて何も見えない。
これは相当深そうだ。
「大丈夫!? すぐに助けを呼ぶから、もう少しだけ頑張って!」
井戸に身を乗り出して声の主に話しかけるが、返事がない。
もし井戸の底で力尽きてしまっていたら、と不安が押し寄せる。スカートのポケットから携帯電話を取り出して、画面をタッチした。
震えながらロックを外す。
(警察? いや、消防だっけ? ……もうなんでもいい!)
番号を押そうとした途端、井戸の中から白い手が伸びてきて、葵の手首を掴んだ。
携帯が滑り落ち、井戸の脇に転がった。
「……っ!?」
しまった、と思った時にはもう遅く、物凄い力で井戸の中へ引っ張られる。
咄嗟に井戸の縁を掴んだ手は
落ちながら、物悲しげな声が耳元で囁いた。
『お頼み申した』
井戸の傍に取り残された葵の携帯電話が、スリープ状態へと切り替わり、唯一の光が虚しく消えた。
***
「だ、誰か! 誰か!!」
まだ日が登ったばかりの早朝、しん、と静まり返った
まるで城のように広い
その程度の物ならば後でまとめて始末した方が効率がいいのだが、そうしないのは、時折それに混じって、
眠気眼で朝の見回りをしていた下女は、気だるげに長い廊下を歩いていた。どうせ手で拾える量のゴミしかないだろうと、欠伸をしながら裏門にやってくると、朱色を基調とした大きな鳥居が、霧の中でも目立つくらいにその存在を主張している。もう何十年と見慣れている光景で特に感動もなく、とにかく早く布団に戻りたい一心で鳥居の間を覗き込んだ。
流れ着いた
「誰かおりませぬか!?」
張り上げる声が誰にも届かないことに痺れを切らし、下女は足をもつれさせながらも、とにかく人を呼んでこようと身を翻した。
しかし、そこにあるはずのない壁に顔面をぶつけて盛大な尻もちを着く。痛む尻と、危うく潰れかけた鼻を抑えながら視線を上げた下女は、一気にその痛みが吹き飛んだ。
「み、
下女が仕える
大柄な惲薊によってすっぽり隠れていて見えなかったが、華奢な体から溢れんばかりの威圧感を放っている。肩あたりで切りそろえられた白髪が揺れ、霧に覆われた空間では
その冷酷な眼差しを向けられると、下女は身体が凍ったように動かなくなった。
「よい、リン」
リンと呼ばれた青年は腰の刀から手を放した。
それを見た下女は、今まさに自分が首の皮一枚で命が繋がったのだと、ようやく自覚し、身震いした。非礼を詫びる間すら与えてもらえないのだ。
「も、申し訳ございません!! どうか、どうかお許しください!!」
下女は顔を真っ青にしながら慌てて座り直し、両手を地面に着けて
早朝に突然訪れた騒動に、近くの部屋で眠っていた下働きの者達が、ちらほらと顔を出しはじめ、なんだなんだ、と状況を伺う。
「う、
「
「皆の者、さっさと起きろ!!」
「
言い終わる前に目に飛び込んだ光景に言葉が詰まった。
────少女だ。
下女の背後見ると、本殿の裏門、水上に浸かっている鳥居の間に、段差にしがみつくようにして少女が倒れている。
身体が水に浸かっているせいで体温が奪われたのだろう、あどけなさの残る顔は青白く、死体と見間違えるほど血色が悪い。
しかし
どこかで見たような顔立ちだった。忘れもしない、遠い昔に知っていた幼子の顔。
「
まるで、成長した彼女が戻ってきたかのようだ。
少女を見る
「有り得ません。
惲薊も納得せざるを得なかった。なぜなら、あの場に自分も居合わせ、確かにこの目で見届けたのだから。
(ならば、この
惲薊は鳥居の下で横たわる少女を見やった。
「リン」
「はい」
名を呼ばれて、
「十年……、この時を今か今かと待ちわびていた。ようやく、
物思いにふけるような声を静かに聞いた。
「失敗は許さぬ。二度と」
「……はい」
新たな任を受けたリンは、朝方の冷えた湖の中へ
少女は、見た事のない
(異国の者だろうか?)
首に指をあてると、小さく脈打つのを感じ取った。
「起きなさい」
頬を軽く叩いてみるが、当然返答はない。すっかり冷えた少女の体を抱き起こし、髪をかきあげて首の後ろを確認した。
その
「
「確かに」
リンの答えに、惲薊は一瞬歓喜と安堵が同時に押し寄せたような顔をしたが、直ぐに真顔に戻ると、その場に立ち合っている全員に向けて、声を張り上げる。
「次の
リンは近くに控えていた
少女の姿を見送りながら、惲薊は急に不安を
「あれは
胸騒ぎがするが、それが歓喜によるものなのか、はたまたこれから巻き起こる
(今度こそ、無事に済めば良いが…… )
黒い雲が空を覆っていき、ぽつりぽつりと雨が降り出し、たちまち霧がより濃くなって社を包み込んでいく。
まるで不吉な予感を
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