7-2 2018年9月10日 - 二人の嘘

 こうなると、多分、明日は復讐のボケが来るだろう。何ができる? 何もできない。ただ、不安を誰かに打ち明けて楽になりたい。高加良なら、こんなときも笑い飛ばしてくれるはずだ。

 俺が教室に戻ったとき、高加良がどこにいるのか分からなかった。

 「高加良」という名字で呼ばれている人物ならいた。そいつは自席に座って校庭を見ている、フリをしていた。その目線は遠くにあって、世の全てを半分見つつも半分目に入っておらず、悩める哲学者のように黙考していた。

「高加良……」

 俺は呼びかけるのに少し遠慮した。

「……楠木か」

 振り返った高加良の顔に笑いはなかった。真面目な人格者に見えるその顔は、評価は上がりそうだが、生気に欠けていた。

 ここは俺の愚痴を打ち明けるどころではない。俺は隣の席に座って高加良の顔をのぞき込む。

「高加良、何か悩み事があるか?」

「笑いって、こんなに卑しいものだったか?」

「卑しいって……」

「俺はこんな下卑たものを信じたのかな?」

 高加良は、半分俺を見つつ、半分でどこか遠いところを見ていた。ため息はつかなかった。

 それ以上は言わなくても分かる。語尾は疑問系だったけど、心の一番奥で得心している。bocketは人間の卑しいところを解放して、それが笑いなのだと認識を迫っている。高加良が信じたものが汚された、いや、初めから腐っていたと認めざるを得なくなっていた。

 そっちに行っちゃダメだ。でも、真正面から呼びかけて青春ドラマを演じるのは俺たちの間柄にそぐわないようで、遠回しにおちゃらけたことしか言えない。

「こういうときこそ、笑えば良いと思うよ、だよ」

「その笑いって、他人を貶めるものなのかな。俺は自信がないよ」

 半分遠くを見ている視線は、戻ってこなかった。

「高加良。今ここで笑いを信じられなくなったら、おまえには何にも残らないだろ。おまえは信じた道を進め」

「楠木、俺を買いかぶりすぎだよ。笑ってられないときもあるんだ」

 俺と高加良の間で、九月なのに、冷たい空気が流れる。骨の髄が冷える。

「楠木」

 高加良の方から呼びかけてきた。

「文佳には、このこと、黙っていてくれないか。文佳は、表面は強いけど、奥底が乙女だから、支える人がいないとダメなんだ。俺のこんな姿は見せられないよ」

「分かった」

 あの相沢さんが? とは思うのだけれど、友の頼みを無下に断る空気じゃない。

 そこでチャイムが鳴った。

「さあて、平常運転に戻らないとな」

 高加良は座ったまま伸びをした。腕を下ろしたとき、いつもの半分笑った顔が戻っていた。

 さっきのは気の迷いだ。幻影だ。BL妄想だ。

 そう思えれば楽だったんだけれど、高加良を見ていて、普段にはない影が見える。

 授業が終わって、これからの計画を話し合うのに、一度ぐらいはドーナツショップにでも行ってみないかという話になったのだけれど、学校を出るときに高加良が「ちょっとトイレ。先行っといて」というので、俺だけ登校口に向かった。「大だから時間かかる」と言っていたけど、実のところ、どうだろう、心の澱を流すのは時間がかかるのだろうか。

 下足に履き替えて校舎を出たところで相沢さんがいた。

「あれ? 高加良は?」

 俺の名を呼ばないところが相沢さんらしい。もう諦めたよ。

「トイレ。女の子に言うことじゃないけど」

「そう……」

 相沢さんは、横にいた俺をほったらかして真っ正面を向いて、そのまま黙っている。

 このままじゃ間が持たないよ。

「相沢さん、悩み事あるの?」

 相沢さんが俺を見た。

「悩み事なら誰にだってあるわよ」

「話したら楽にならない?」

「あんたじゃダメね」

 カチン! ……ときたけど、ここで怒ったらぶち壊しになるからやめだ。

「じゃあ、高加良は?」

「悠一なら大丈夫よ」

「そんなに高加良を信用してる?」

 相沢さんは、恥ずかしそうに(相沢さんでも恥ずかしそうにするのか!)、俺から目をそらした。

「私だって、心の中はグチャグチャ、迷ったり怯えたりするわよ。でも、悠一は、いつも笑いで包んでくれる。悠一がいるから、私は強がっていられる。あんた、悠一と付き合いが長いのに、悠一のこと何にも分かってないのね」

 じゃあ高加良と別れて大人しくなって欲しいな。

 と思ったけど言えなかった。

 それに、もう一つ言えないことがある。

 高加良はそんな聖人じゃない。今、現に、苦境に立たされて潰れかかっている。

 相沢さんが見ている高加良の姿は幻影なんだ。高加良にも支える人が必要なんだ。

 それを言うのは、高加良から口止めされていた。

「待たせたな」

 後ろから高加良の声が聞こえた。

 俺は高加良の表情を確認したくて首が痛くなるほど早く振り向いた。

 高加良はいつものように笑っていた。

「悠一、やっと来たの?」

 相沢さんもさっきまでとはうって変わって明るい声で答える。

「男にはいろいろ用事があるのさ」

 高加良の言葉はぼかすときの常套句だった。何をぼかしたのか。それは隠されていた。

「高加良がいないと私たちのグループはまとまらないんだから。しっかりしてよ」

「俺がいたって笑ってるだけだぜ」

 いつもと変わらぬ、バカップルの軽いやりとり。

 その奥底は、心を閉ざしかけている男と、男に頼り切りの女。

 俺の耳に、破綻の足音が聞こえた。

「ところで佐倉さんは? そもそも来るの?」

 相沢さんの一言多い問いかけ。俺はスマホを取り出した。

「日直だから遅れるって。あ、それ、全員のStringに届いてるじゃん」

「あんたならもっと詳しいこと知ってるかと思って」

「佐倉さんとの仲の買いかぶり、ありがとうございます」

 俺たちはドーナツショップに歩き出した。

 ドーナツショップは楽しかった。子どもに見られたりしないし。かわいい佐倉さんがドーナツをゆっくりと食べるところを見られて、ダブルデートってこんなんかな、という妄想にも浸れた。でも、高加良と相沢さんの先の見えない明るさが気がかりで、ドーナツもコーラも甘くなかった。

 夜になって、高加良と相沢さんに署名付きボケを送って、佐倉さんには匿名のボケを送った。きっとなんの防御にもならない。そのことが気がかりで、眠れなかった。

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