第7話 水面の鏡




 泉の水面を覗き込むと、そこに映るのは我の顔。



 大方予想していた通りの変化ではあるのだが、黒い影のようだった我の顔に肌の色が着いた。



 見た目などはどうでもいいと思うのだが、そうは言っても自分の顔というのは気になるものだ。


 気になる自分の顔を確認するために泉を覗き込んだ訳なのだが、先程から水面を鏡代わりにして色々と角度を付けて自分の顔をじっくりと観察しているのである。



 目はやや細いが大きく鋭い、鼻筋は通って高いが鼻翼は小さい、唇はやや薄めで顎は随分と細いな。


 ふむ、全体的になかなか端正で悪くはない、むしろ美しさすら感じる。



 自分の顔に美しさを感じるというのも自惚れが強いようで如何なものかと思えるのだが、それでもその後暫くはその水面に映った自分の顔から目が離せなかったのである。



 それにしても、人間の姿に近づくにつれ美意識というものが我の中に芽生えてきているような気がする。


 それ故か、次第に水面の反射率の低さに苛立ちを覚えるようになる。


 もっと鮮明に映し出せぬものか……。


 さらに風が吹く度に水面が揺れて顔が歪むのだ、これには興も醒めるというものなのだ。



 人間の持つ鏡のような物があればもう少しはっきりと見る事が出来るのだが。



 次から人間を喰らう時には、持ち物にも気にかけねばな。




 次に人間を喰らう時、そう考えた時に先程の甘美な味を思い出す。


 今まで食した人間のどれよりも極上の味覚と口当たり。


 頭の先からつま先まで、全身の骨が溶けるほどの快楽。


 恋とはあそこまで人間を濃厚にして豊潤な味わいにするのか……。



 それを思い出し、一つ身震いをした。



 是非にももう一度あの味を喰らいたい、そしてその悦楽に浸りたい。


 そんな身を焦がすほどの欲求が止めどなく湧いてくる。



 しかしそのように渇望しても、それが絶望的である事にすぐに気付くのである。


 何せ、ここは吸血鬼が出ると噂の森の中、こんな所に恋愛感情を燃やす人間などそうそうには現れない。


 最近は人間を探すのにも苦労している状態であるからな。



 何か恋をする女を誘き寄せる方法は無いものか……。



 しかし、そんな都合よく森の中に入って来ることも無いだろう……。



 いや、そうかこの森に現れないのなら、こちらから街に出向けばよいのか。



 なるほど、考えてみたら簡単な話ではあったな。


 どうも縄張り意識のせいか、この森を離れる事が頭に無かったようだ。



 と、そんな事を考えていた時である。



 風に乗ってやってきた匂いが我の鼻腔をくすぐった。



 錆びた鉄のような馴染みのある匂い、これは紛れもなく人間の血の匂いだ。



 さすがに連続であのような上質な食事にはありつけないとは思うが……。



 まあよい、確認だけでもしてやるか。





    ☆





「がああああぁぁぁぁ!!!」



 叫び声が響く森の中の幹線路、そこには数十人の人だかりができていた。



 その人だかりの中心には、右腕の肘から先を失った少年が鞭で打ち付けられている。


 少年の首には鎖で繋がれた首輪が嵌められており、そこから逃げる事もできず無抵抗のままに革の鞭で打たれているのだった。



 その革製の鞭は少年の体中の皮膚を破り、打つたびに血しぶきを上げ、その血が地面に滴り落ちる。



 騎士のような姿の男が、全く感情の無い無機質な表情のままその少年を何度も何度も鞭で打っているのである。



「ほらほらどうした! もっと泣き叫べ!」


「汚ねぇ奴隷が、ちょっとはお館様の役に立て!」



 周囲からヤジが飛ぶ。


 少年の意識はすでに朦朧としていて、周囲の罵声も何処か遠くに聞こえるのだった。



「お前の血の匂いが吸血鬼を誘き寄せる。さっさと吸血鬼をここに呼べ!」



 騎士のような男はそう言ってさらに鞭を少年に浴びせかける。



「あああああっ!!!!」



 少年は鞭を打たれる度に体を捩ってもがき苦しむ。


 薄れゆく意識の中で、体だけがその痛みに反応するのだ。




「ねぇ、お父様。吸血鬼はまだ現れませんの?」



 人だかりの中に、周囲を騎士達で固めた煌びやかな装いの一団。


 おおよそこの森には相応しくないであろう一角がそこに存在していた。



 その一団の中心にはでっぷりとした体格の中年の男が豪奢な椅子に座り、その隣には牡丹色を基調とした派手なドレスを着た化粧の派手な女。



 男の事をお父様と呼ぶその派手な女は、退屈そうに奴隷の少年が鞭で打たれるのを眺めていた。



「まあそう焦るなイザベラ、狩りというのは短気を起こしちゃいかんのだ」



 男はそう言いながら指を二本立てる。


 すると傍に控えていた黒服の男が葉巻を取り出し、その指に添えてから指先に火を灯して葉巻に火を点けた。



「お父様、わたくし飽きてきましたわ。吸血鬼が見られるって言うからついてきましたのに、さっきから何も現れませんもの」



 父親からイザベラと呼ばれるその女は、気だるそうな少し粘りのある声を出す。



「確かに一向に現れんというのもつまらんな。よし、では儂がやろう。おい、ガキを治療しろ」



 男がそう言うと、白いローブを着た男が鞭で打たれていた少年に近づき手をかざす。


 すると少年の傷はみるみる塞がっていき、やがて意識もはっきりとしてくる。



 男は椅子から立ち上がると、革製の鞭を手に取りパシリと一回地面を叩いて見せた。



「ふぇっふぇ、この音がたまらんのう。おいガキ良い声で鳴いてはよ吸血鬼を呼ぶんだ、よっ!」



 男が渾身の力で振るった鞭が少年の肌を強打する。


 その鞭の強打に、先ほど治癒の魔術で治療したところが再び裂けて血しぶきを上げた。



「ぎゃああああぁぁぁぁぁ!!!」



 その少年の叫び声に、男は頬を上気させる。



「ふぅっ、ふぅっ、いいぞ。もっと鳴け! ほら、もっと鳴けっ!!」



「あああああああぁぁぁ!!!」



 男は何度も何度も少年を打ち付けていきながら、自身の嗜虐心を満たしていくのである。



 少年は血しぶきを上げながら、またもや意識を朦朧とさせていく。




  ☆




 遠くに見える人だかりを眺めながら漂ってくる匂いを嗅ぎ分けていた。



 あの一団の中に随分と良い匂いをさせている者がいる。


 血の匂いとは別の、ある種の感情が発する特別な匂い。



 悲痛や恐怖からくる感情とは違う、これは悦楽に興じた者が興奮して発する匂いだ。



 あれを食したい。



 我は舌なめずりしながら一団を見つめた。



 そして我は考える。


 恐怖を与えてしまってはせっかくの感情が台無しになる。


 どうやって恐怖を与えずに喰らう事ができるのか。


 あれだけの人数がいるとなると、気付かれずに近寄るのも至難の業というもの。



 さて、どうするか。



 しばらく考えて結論に至る。



 結論というほどのものではないが、至って単純な事なのだ。


 要は気付かれる前に殺し、そして鮮度の落ちないうちに喰らえば良い事なのである。


 たったそれだけの事、実に簡単である。



 そして、再び一団に視線を向ける。



 彼我の距離はおよそ二キロ程。



 ふむ、やってやれぬ事は無さそうだな。



 そう判断した我は、しっかりと獲物の方角を見定め地面を強く踏みしめた。



 そして力を籠める為に身を低く構えると、勢いよく地面を蹴って獲物に向けて飛び出した。



 ほんの刹那の間に景色は一変する。


 二キロ程の距離が、瞬きもしないうちに我の眼前に吸い寄せられてくるのである。


 

 一瞬の内に男に接近した我を誰も気付くことが出来なかった。その速さに誰も視認する事が出来なかったのである。



 その勢いのまま獲物となる男に接近し、男の首を手刀で切り飛ばす。



 そのあと地面を横滑りしながら両手と両足で地面を掴み、その場にブレーキをかける。



 そして右手を水平に伸ばすと、先ほど切り飛ばした男の首が右手の上にストンと納まった。



「な、なんだお前は!?」



 まだ何が起こったのか判らないでいる騎士や兵士達は、突如現れた女に動揺する。



「き、きゃあああぁぁぁぁ!! お父様ぁぁぁ!!!」



 首を飛ばした男の娘、イザベラの叫び声が辺りに鳴り響く。



 その声を聞き、その場の者たちが徐々に状況を把握し始めた。




 我はそれを横目に男の頭に齧りつくのだった。


 




 


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