第2話 掌中の珠




 あの時以来、我の思考が止まらない。



 まるで生まれたばかりの赤子のように、自分自身の好奇心に歯止めがかからないのである。



 これまで人間の血の匂いを追い求め、それ以外に興味も示さなかった我であるが、人間以外の動物だけでなく花や樹木にまでその好奇の心が向いていく。


 そう、こんな名も分からぬ路傍の草までが、我の興味を惹かんと自己主張をするのだ。



 一体、何故こうなってしまったのか。



 風に任せてやってくる匂いを、フラフラと追いかけることももうやらなくなった。


 やらなくなって初めて気づいてしまった、我という存在は唯それだけだったのだということに。



 こうなった原因はやはりあれであろうか。



 人を喰らった事。



 そう、あの後からなのである、これほどまでに世界が一変してしまったのは。



 人を喰らった事で我の身に変化が生じた、そう考えるのが自然と謂えるだろう。



 となると、もう一度喰らえばさらに変化するのであろうか。その可能性は低くはない……。



 ならば、試しにもう一度人を喰ろうてみれば判る事である。





 匂いは風が運んでくる。



 これを利用すれば効率よく人間を狩る事が出来るのである。


 実に簡単な事で、風下で風を待ち受けてやればよいのだ。そうすれば様々な匂いが何もせずとも向こうからやって来る。これまでのように、匂いを探して彷徨う必要はないのである。



 こんな事にも気付かなった以前の我を振り返りみるといかにも滑稽といえよう。


 しかし、自身の愚かさまでが見えてしまうというのは何とも厄介というものであるな。



 さて、風に乗って運ばれてくる人間の匂いは三つある。そのうちの二つの匂いは同じ場所にあるので獲物は二か所に絞られる。


 どちらを狙うかといえば、やはり狩りやすい単体の方をという事になろう。




 そう思い立った我は、風下から向かい風に逆らいながら匂いを辿っていく。



 すると、獣道のような所に一人の人間の男がうつ伏せ状態で倒れていた。


 息はしているようなので死んではいないようである。死んだ肉などは喰らいとうはないからの、やはり喰らうなら生が一番であろう。



 この森では時折こうして人が倒れている事がある。これまでは深くは考えてこなんだが、この間の男たちのやり取りで合点がいった。


 これは我に対する供物であるのだ。


 我の縄張りを通る対価に身を差し出そうというのだ。


 そう考えると誠に殊勝なことである。



 供物であるならば遠慮などはいらぬな。まあ、元より遠慮などしたことはないのだが。



 倒れている男を黒い靄が覆っていく。



 喰らうといっても、我には口が無いので吸収すると表現したほうが近いものがあるのだが。



「……ぐっ! うああぁぁ!! ぎゃあああぁぁぁ!!!」



 我に吸収される際の痛みで男が目を覚ましたようだ。


 どうやらかなりの激痛が走っている模様で、地面を這いずり回りなが悶え苦しんでいる。


 こうして吸収に激痛が伴なっている様子を見ると、吸収というよりも喰らうというほうが相応しい気もしないでもない。



「がああぁぁぁ……。うぅ……。…………」



 男は次第に叫び声を上げなくなり、やがて息もしなくなる。


 最後に大きく痙攣したかと思うと、男は二度と動く事もしなくなった。



 死ねば肉の鮮度はどんどん悪くなる、そう思い男の全身を覆って急いで全身をこの身に吸収した。




 しかし、変化は起こらない。




 しばらくしても、前回のような全身を走るような快感は感じられなかった。



 何かが違っているのか……。



 何が違う? 



 いや、今こうして思考を巡らせても埒が明かぬ、現段階では思考の材料が乏しすぎるのだ。


 もっと人間を喰らって材料を増やさねば答えは見つからぬというものだな……。



 そう結論付けると、我はもう一つの匂いの下へと向かう事にした。





 森の中を通る一本の道。


 長い間整備がされていないために荒れ放題のこの道、その道幅は馬車がすれ違うのがやっとなのでそれほど広くはない。


 街と街とを繋ぐ幹線路となっているこの道は、この森に存在する唯一人間の手で作られた道路である。



 しかし、現在はこの道を使う人間は少ない。


 吸血鬼の噂に怯えた人々が、より目立ってしまうこの道を使うことを怖れたためだ。なのでこの森を通るときには、獣道などを利用して裏道を通るのが常識となっている。


 この道を通る者は貴族のような通行税を大量に用意できる者か、馬を全力で走らせて強行突破する者のどちらかであるのだ。



 尤も、どの道を通るかで狙われる者が変わるわけでは無いというのが真実だ。




 その幹線路を歩く二人組の姿。


 一人は大人の女性、もう一人はその息子であろう少年の二人連れ。



 頬がこけて痩せ細った風貌の親子が、誰も通らない道をふらふらと歩いている。


 明らかに不自然なこの二人、いかにも訳有りといった様相である。



「……ごめんね、アレク」


「そんなに何度も謝らなくてもいいよ、母さん……」



 母親の手を握る息子アレクの力が強くなる。


 その手の力を感じて、母親の痩せこけた顔がより一層の陰りを見せる。



「……お友達にさよなら言えなかったね」


「いいよ、またそのうち会えるし。……向こうで新しい友達も作るしさ」



 母親はアレクの頭を一撫でして、その瞳に涙を浮かべた。



「アレク、本当にごめんね私のせいで……」


「母さんが悪いんじゃないよ、こうなったのは全部アイツのせいだろ。……借金背負わされて、あげく仕事も無くなって。くそっ、僕はアイツだけは絶対許さない!」



 鼻息を荒くする息子に対し撫でていたその手を止め、少し声音を強めて母親は子を諭す。



「人を恨んではいけないよアレク。人を恨んでも、その恨みを誰かに利用されるだけなのだから。絶対にそんな隙を作っちゃダメ、この世の中はね騙される方が悪いの。アレクは母さんみたいになっちゃダメだからね」


「……違うよ、母さんはちょっと運が悪かっただけだよ。向こうの街に行ったら運も変わるって。それにさ、あっちに行ったらもう借金取りは来ないでしょ。大丈夫、今より絶対良くなるよ」



「……アレク」



 そう言って笑顔を見せるアレクの横で、涙の落ちるのを子供に覚られまいと横を向く母親。



 そんな二人の匂いをはっきりと捉えられる所までやってきた。



 獲物としては痩せ細っていて小振りと言えるが、狩りの目的は量ではなく質である。


 先程は不発であったが今度のは二匹もいる。二匹もいればどちらかが当たりという事もある。ともあれ、これ程までに人を喰らう事をを楽しみにしているというのは初めての事である。



 徐々にその親子に近づいて行くと、母親の方が目の端でこちらを見た。



「ねえアレク、母さんちょっと忘れ物しちゃったみたい。すぐに追いつくからアレクは先に兄さんの所に向かっててくれない?」


「ええ、やだよぉ。戻るなら一緒に行く」



 母親は渋るアレクの両肩に手を置いて言い聞かせる。



「ごめんね、今日中に兄さんの所に着きたいのよ。お母さん一人だったらすぐに戻ってこられるから、ちょっとの間だけ一人で先に行ってて」


「……い、一緒に行く」



 アレクは目に涙を溜めて母親に縋る。



「大丈夫だよ、アレクは強い子だから。それに、この道は街まで一本道で迷う事はないから心配なんて何もないの。ほんの少しの間だけだから、ね、お願い」


「……うぅ、…………」



 母親は手を置いていた肩を掴んでくるりと反転させて、アレクを目的の街の方向へと向かせた。



「街の入り口の所に兄さんが待っててくれてるはずだから、母さんがそれまでに間に合わなかったら兄さんと一緒に街に入ってて。私が行くまで兄さんの所で良い子にしとくんだよ」



 アレクは黙って一つ頷いた。



 母親はアレクの耳元で「良い子」と呟き、その頬にキスをしたあと軽くその背中を押した。





 我が子の背中が遠くなるのを見届けた母親は、覚悟を決めたようにこちらを睨みつけてきた。



 そして、懐から短剣を取り出したかと思うと、自らの腕にその短剣を突き立てたのだ。



 この女、我を誘っている。


 供物は自分であると、血の匂いを放って我を惹き付けようと。



 顔色を青白くさせながら、血の流れるその腕をこちらに向けて突き出してくる。



 自分から喰われようとする者は初めてなので少し興味を惹かれるが、今は別の目的のほうが優先される。


 この女を喰らって我が身を変化させるという目的を。



 我が身を差し出すその女の躰を、やがて黒い靄が覆っていく。



「――っ!!!!!!!」



 女は身を悶えさせ激痛に苦しんでいる。


 しかしどんなにその身を溶かされようとも、どういう訳か呻き声一つ上げないのである。



「――!!!!!!」

 


 血を吐き、涙を噴き出しながら悶絶している。


 女は地べたを這うように靄のような我から逃れようとするが、女の躰に纏わりつくその靄が離れる事はない。



 躰が徐々に失われていく激痛に、女の意識も段々と薄れていく。



 先程まで激痛に反応していたその躰も次第に動かなくなってくる。



「……、……ああ、……アレク……」



 どんな激痛にも耐えた女であったが、意識を失いそうになった時ついにその口から言葉が漏れた。



「……強く、……強くなって……」



 薄れゆく意識の中で、呟き声だけが漏れ出る。



「……、……アレク……」



 目も霞み、今まさに女の意識が失われようとしたその時だった。




「…………さん……。……あさん……。……母さん……。……母さん!!」



 その聞きなれた声に、女の手放しかけた意識が呼び戻される。



「……あ、アレク……。……なぜ……、……なぜ戻ってきたの!?」



 力の入らない腕を震わせながら、アレクへと手を伸ばす。



「化け物め、母さんを離せ!! くそっ、こいつめ!」



 アレクは手を振り回して母親に纏わりつく靄を振り払おうとするが、触る事すらできないそれを振り払う事は出来なかった。



「……ア、アレク……、……早く、……早く……引き返し……なさい」


「駄目だ! 母さんは僕が守るって、父さんと約束したんだ! ちきしょう、こんなもの!!」



 アレクは母親の腕を掴み、この黒い靄から母を引きずり出そうとする。



「……あ、……アレク……、……私は……もう……」


「母さん、すぐに助け出してあげるからね。そしたら一緒に、伯父さんの所へ行……」



 母の腕を引っ張り、靄から引きずり出したその姿にアレクは言葉を失う。



 アレクが必死に靄から引きずり出したときには、母の姿はもう腰から下が既に失われていたのである。



「………………………」



「か、母さん……。母さん!! 母さん!! うわあああぁぁ!!!」



 母はもうアレクの呼び掛けには答えない。


 アレクはそこで、母が事切れていることに気が付いた。

 


「あああああああ!!! かあああさああああん!!! うああああああ!! あああああああ!!」



 母の身体を抱いて泣き叫ぶアレク。





 そのアレクの躰ごと、黒い靄が二人を覆っていった。





 

 その二人の姿がすっかり消え去った後、再び脈動が起こり我に変化をもたらす。




 そして、我は五感というものを手に入れた。





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