ヴァンパイアの恋

憑杜九十九

第一章

第1話 プロローグ




 音も光もない、深い深い闇の世界。



 辺りは腐肉の匂いが立ち込めるような酷い悪臭の中だった。



 その中で、ただひたすらに人の血を啜っている。



 それが我の中にある一番古い記憶である。



 なにせ我には肉体も無ければ、ものを考える脳も無い。姿形はまるで黒い靄のようで、曖昧ではっきりとした実体というものが無い。


 そうであるが故に、我にはいつ生まれ落ちたかなどという記憶は一切無く、気が付けばそこに存在したというだけなのである。判る事といえば、我が人と呼ばれる存在とは違うものであるという事と、常に飢えと渇きが身を苛んでいるという事だけだった。



 いくら血を啜ろうとも渇きは潤わず、何百年という月日を鉄の錆びたような匂いを追い求めることに費やしてきた。


 全身を襲う焼け付くような渇き、ただそれだけを癒すために存在していたのだ。



 何故人の血を啜っていたのか、それにそれ程の意味は無かったろう。最初に口にしたのが人の血であった、恐らくそれくらいに簡単な理由だったのではないかと思惟する。


 とにかくそれを疑問に思うということも無いし、疑問に思える頭も我には無かった。


 唯ひたすらに人の血を啜り、啜り終わると次の獲物を探して廻るの繰り返しであったのだ。




 その時までは。





 

 人間の吐く息、汗、垢、これらには他の動物とは違う独特な匂いがある。


 しかし、人間は愚かにも自身の匂いにはとんと無頓着なのである。自ら狩ってくれと云わんばかりに、間抜けにもその匂いを撒き散らしている。



 それは我にとっては何とも都合の良い話で、こうして匂いを辿っているだけで獲物に在りつけるのだ。



 そこに何かを考える必要はない。



 しかも、年中発情している人間は枯れる事が無い。人間というのは永遠に湧き続ける餌なのである。



 そこに何の疑問も挟む余地は無い。



 しかしその時、偶然抱いた疑問にこれまで延々と繰り返された日々は狂いだす。



 疑問というよりは、一つの好奇心と呼んだほうが良いかもしれない。それほど些細な事だったのだ。






 


 木が燃えて炭と化す、その匂いに混じって肉の焼ける匂いのする事がある。どうやらそこに人間が居る事が多いようだ。


 その経験則から人間の匂いよりもその匂いを追う事が習慣化していた。



 人間の匂いは遠くからでは分かりにくいが、炭の匂いは遠くまで届く。人間は何故こうも自分の居場所を主張するのやら理解に苦しむ所ではあるが、餌を探す手間が省けるのは良い事だ。



 その時も遠くに上がる煙の匂いに誘われていた。


 次第に強くなる人間の匂いに、何も考える事も無くふらふらと引き寄せられていく。



 鬱蒼と生い茂る森の木々すらも、実体の無い我を阻害することは出来ない。ただ真っ直ぐに匂いのする元へと進んでいくだけである。




 匂いの元となるそこには五人の男たちが車座になって焚火の火を囲んでいた。


 焚火の煙に紛れて、小動物の肉を炙る匂いが辺りに充満している。まるで周囲の獣を威嚇するように、はたまた自分たちがここに居るということを誇示するかのように。



 人間というのは火を操る事で他の獣よりも優位に立っていると思っている。だから今もああして火の周囲に人間が集まって自分たちの優位性を謳歌しているのである。



 しかし我には火など通用せぬ。


 何せ燃える躰も無ければ、熱さを感じる肌も無いのだからな。




「おい、知っているか? この森には吸血鬼が出るって話を」



 男の一人が何やら音を発している。


 どうやら人間は、音でお互いの意思を疎通しているらしいのだ。だが我には、どんなやり取りをしているのかなど全く興味は無いし、その必要性も感じない。何故なら、人間の血を啜るのにそんな物は何の役にも立たないからである。



「ああ、この辺りでブラックヘイズとか呼ばれてるあれだろ?」


 そう言った男とは別の男が「何だそれ?」と疑問を投げかける。


「ここいらの言伝えだろ、俺も聞いた事があるぞ。何でもこの森には主がいて、森を通る者に通行税を払わせるとかって」


「……通行税?」



 先程疑問を投げかけた男が尚も聞き返す。



「解り易く言うと生贄だ。誰か一人を生贄に差し出して、その代わりに森を渡らせてもらうのさ。それが、この森を抜ける一番安全な方法らしい」



 焚火の火がパチリと鳴って静寂の森に木霊する。



「……め、迷信だよな?」


「さあね、実際に見たって奴にはお目に掛からなかったが、そういう話だけは有名みたいだぜ」


「な、なんだ見た奴いねぇのかよ。やっぱり迷信じゃねぇか」



 男は動揺を隠すように、炙っていた肉に手を伸ばし粗野な手付きで齧り付く。



 わざとらしく咀嚼音を鳴らすその男を、他の男たちは何も言わずにじっと見ていた。



 

 煙の匂いと焼ける肉の匂い、それを齧ろうとする男の口から洩れる人間の臓腑の匂い。


 その匂いに惹きつけられるように獲物を定め、本来ならここでその男の躰に纏わり付きその紅血を啜っている処である。



 しかしこの時は少しいつもの我とは違った。



 肉汁滴る小動物の肉を、その口に運んでいる男の姿が妙に気になったのである。


 それまで唯々人間の血を啜るだけだった我が、このとき初めて肉を喰らう事に興味を持ったのだ。



「それでその吸血鬼の話なんだけどよ、どんな姿か知っているか?」



 興味が好奇心に変わると、我の空腹感が何処からともなく唸りを上げ始めた。


 それと同時に、慢性的に感じていた飢餓の感覚が呼び起こされたのである。



「……おい何だよ、その話続けるのかよ」



 今すぐこの男を捕食したい、この空腹を満たしたい。



 我の、我の糧としたい……。



 自分自身を抑える事もせず、唯その欲求のままに実体の無い我が動く。



 そして、周囲を黒い靄が覆い始めた。



「……ん? 何だ? 何だか……黒い霧のような……?」



 ちょうど日の沈み始めた頃合いであるが、焚火で火を熾しているにも拘わらず辺りが黒くなっていく。



「これだよ、これが名前の由来になってんだ」



 辺りが黒く染まっていく中で、男は小さくそう呟いた。



「――はぁ? お前一体何を……ぐぅっ!!」



 男の表情が一気に苦悶の色へと歪んでいく。



 一人の男が隠し持っていた短剣をその男の腹に突き刺したのである。



「……悪いな、生贄はお前だよ」



 男は悶え苦しみながらその場に倒れ込む。


 男の腹から噴き出す血潮に吸い寄せられるかのように、男の周囲に黒い靄が集まりだした。



「く、お、お前ら!! ぐはぁっ! は……嵌めやがったなお前ら!!」


「おいおい、人聞き悪いなぁ。ちゃんと説明してやったろ、通行税がいるって」



 折よく男の腹に穴が開いてくれた。


 我は中から喰ろうてやろうと、その穴から男の身体の中へと侵していった。



「がああぁぁぁ!!! か、体の中にぃ!! ぐあっ!! ……ぐぅっ、お、お前ら!! お前ら! お前ら!」


「悪く思うなよ、誰かが犠牲にならなきゃいけないんだからよ」



 男たちはその台詞だけ残してその場を後にしたのだった。



「ぢぎじょおぉぉ!!! 絶対許さねぇあいつらぁ!!! ぐあああぁぁぁ!!!」




 舌などという物を持ち合わせてはいない我には人間の味など分からなかった。



 しかしこの得も言われぬ感じは何なのか……。



 この男の身を吸収すればするほどに、我の意識がぐるぐると回りだす。



 生まれて初めてかもしれない、この身に快感と呼べるものが走るのは。




 そして、……。




 脈動するかのように全身に快感が走ったあと、我の身に変化が起こった。




 我はこの時、思考という物を手に入れたのである。



 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る