第3話 湧き上がる衝動
まず最初に眩い光が飛び込んできた。
そしてその光に慣れてきた頃、朧気だったこの世界に数多な色が貼り付いたのだ。
それは、何か別の生き物になってしまったかのような衝撃だった。
この森に住み着いてどれ程の歳月を費やしたかは解らぬが、今になって初めてその姿を目にした我はその光景に見惚れてしまったのだ。
ほんの数分だったか将又数秒だったか、どれくらいかは解らぬが我はその間この光景に心を奪われていた。
心というものが我にあるかどうかは判らぬが、とにかく何も考えられない状態がしばらく続いたのである。
そして変化はこれだけに止まらない。
これまで空気の振動でしかなかった音の存在も今はより鮮明に聞こえてくる。
葉の擦れる音や、鳥の鳴き声。
森の中から発せられる多種多彩の音達が、景色の広がりと一緒に一気に押し寄せてきたのだ。
この森はこんなにも賑やかだったのか。
色と音のある世界を手に入れたおかげで、この森の様相は一変してしまった。
これが良い事なのか悪い事なのかは判らないが、我は今生まれて初めて気分の高揚を感じている。
心が躍ると言ってもいい、ただこんな楽しい気持ちは初めての事だった。
こうなれば、もっと多くの人間を喰らいたくなるというものである。
幸いにして、この度と前回で共通点が見いだせた。
前者と後者の共通点、それは恐らくであるが感情である。
両者ともに明らかに感情の昂ぶりを見せていた。一人目は裏切った仲間に対して憎悪の感情を憤らせ、先程の親子は自身の運命に悲嘆し悲哀に満ちていた。
この二つだけでは違う可能性もあるが、感情といのは目の付け所としては悪くはないように思う。
まあ何にせよ、もう少しの実例が欲しい所である。
そう思い立った我は、また匂いを運んでくる風を探しに向かった。
☆
そうして探し回って数日が経つが、条件に見合う獲物というものにとんと出合わない。
そもそも、吸血鬼が出るという噂の森である。こんな所で人に遭遇する事自体が稀な事で、ましてや条件付きとなるとさらに見付けるのが困難となる。
しかし、我の生きてきた数百年という月日に比べれば数日などは一瞬の事。
この程度は然して焦れるほどの時間ではない。
こうして風を受けていれば、そのうち向こうから匂いを運んで――。
――きた。
……が、しかし。
複数の人間が一緒に固まっている。
経験則から複数が一緒にいる場合というのは外れである確率が高い。
というのも、複数が固まって移動している場合、生贄となる人間が決まっているからなのだ。なので、我が捕食するときにはもう気絶させられているか、既に死んでいる場合が多いのである。
それでは意味が無い。
我に喰らわれる人間にはその感情を存分に滾らせてもらわねば困るのである。
我が変化…いや、進化するためにその激情を差し出して貰わねばならない。
幸いにして、この集団は森に入ってきてそう時間は経ってはいない。急げばまだ間に合うかもしれぬ。
そう思い、生贄を殺される前に辿り着かねばと匂いの元へと急いだ。
森の木々をすり抜け、匂いを放つ集団まで近づいてきた。
割と距離があったので少し時間がかかってしまったが、その集団は最初の位置から場所を変えずにそこにたむろしていた。
匂いを追ってその集団に近づき、その眼前に捉えようとした寸前にその集団に動きがあった。
その複数の人間がたむろしている場所から離れていく二つの匂いあったのだ。
それはまるで何かから逃げるかのように。
これは何かあったのかもしれない、そう思った我は集団ではなくその二つの匂いを追う事にした。
一方集団を離れたその二人、森の中を走る女とそれを追う男の姿。
体格の良い、いかにも野蛮といった容姿の男に追われて、髪を振り乱しながら逃げる若い女。
女は何とか追いつかれまいと、茂みを掻き分けて道の無い所へと潜り込んでいく。
そんな女の健闘虚しく、男と女の距離は徐々に縮まっていく。
いよいよ男に追いつかれそうになったとき、森の中にその女の声が響き渡る。
「い、いやぁ!! 来ないでっ!!」
「おい、そんなに嫌がるなよ。公平に決めた事だろ」
男の手は今にも女の身体を掴める程に近づいている。
「あ、あんなの、イカサマでしょっ!! あんた達で私を嵌めたのよ!!」
女は近づいてくる男の手を力強く打ち払う。
「――ってぇ!! おいっ、いい加減にしろよ!! イカサマの証拠なんてねぇだろうがよ!! さっさと諦めてこっちに来い!」
執拗に逃げ回る女に業を煮やした男はその語気を荒げ始めた。
「――ひっ! いやっ! 誰が、……誰があんたらなんかの為に……はぁはぁ……」
徐々に息が苦しくなっていき足が縺れ始める。
だが女は足を止める事が死を意味すると意地でも足を動かし続けた。
「くそっ、梃子摺らせやがって……。だったら、これで――」
男は腰に装備していた円形に巻いた鞭に手を掛ける。
「――どうだっ!!」
その掛け声と共に勢い良く放った鞭の先は見事に女の足に絡みつく。
「きゃあぁ!!」
鞭が足に絡みついた女はその場に転倒する。
それでも尚、地面を這って男から必死に逃れようとするのだった。
「ふへへ、ようやく捕まえたぞ」
「いやっ!! やめて! 来ないで!!」
男は手にしている鞭を引っ張りながら女の傍へとにじり寄っていく。
「ほら、いい加減あきらめろ」
「いや、やめて、誰か、誰か助けてぇ!!」
男は女の肩を掴むとそのまま地面に組み伏せた。
「叫んだって誰も来やしねぇよ。この森の事は知ってんだろ?」
仰向けに倒され、それを覗き込む男の顔に女の恐怖心はさらに高まってゆく。
「いやっ!! いやああぁ!!」
女は全身の力を振り絞って暴れるが、男の力が強く組み敷かれた状態から抜け出す事が出来ない。
「まあそう暴れるなって。お前知ってるか? この森の吸血鬼ってのは血の匂いに寄って来るらしいぜ」
「……そ、それって、どういう……」
女はその言葉を理解した瞬間、みるみる内に顔色を真っ青にさせた。
「こういう事だよっ!」
男の無骨な手が女の襟首を掴んだかと思うと、一気にその服を引き千切った。
「いやああぁぁ!!!」
女は身を捩って激しく男に抵抗する。
しかし、男は手慣れているのか女の関節を取ってその動きを封じる。
「へへ、抵抗したって無駄だぜ。お前も男を知らずに死ぬのは嫌だろ」
厭らしい笑みをこぼし、舌なめずりをしながらそう言う男。
そして、動きを封じられた女は為す術もなくその衣服を剥ぎ取られていく。
「いやっ! いやっ!! いやあああぁ!!!」
今まで誰にも触れられた事の無い場所を、野蛮な男の粗野な手が這い回る。
男の手が自分の体を行き来し、その手の中で粗雑に扱われる。
女はその度に怖気が全身を駆け巡るのだった。
「はぁはぁ、なかなか良い体してるな。へへへ、もう我慢できねぇや」
最早その興奮を隠す気もない男は、恍惚とした表情を浮かべながら自分のベルトに手を掛けた。
「いやあああああ!! あああああぁぁぁ!!! 誰かああああぁぁ!!!」
男に組み敷かれた状態で泣き叫ぶ女に、男はさらにその興奮の度合いを強めていく。
「ほら、痛いのは最初だけだからよ。ちょっと我慢しな」
男は表情をうっとりとさせて、組み敷いた女を見て目を蕩けさせる。
今まさに激情の最高潮を迎えんとするその男、その姿を我の視覚が捉えたのである。
男の放つフェロモンのような匂いや男の息遣い、この様子なら期待通りの結果を得られるのではないだろうか。
この男なら我の進化の贄となりうるかもしれない。
そして男がその滾りを女の中へと侵そうとしたその時である。
男の躰中を黒い靄が覆っていく。
「へへへ、どうだ今入り口に来てるぞ」
しかし、男はその事に全く気付いていない。
まるで自身のリビドーに呑み込まれたかのように異常な意識状態となっているようである。
男が徐々に黒い靄に覆われていく姿に女の方が先に気が付いた。
「ひっ、ひぃぃ!!」
男に陵辱される恐怖と、吸血鬼の出現に女の恐怖心は極まっていく。
「ぐへへへ。どうだ、どうなんだよ。うへへ、へへへ。うぇへへへ」
その姿を黒く染め上げながら、男はまさに今絶頂を迎えようとしている。
「うぇへへへ。へ……、あ……ああ……あああ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!」
そのとき男は、快楽の絶頂と全身を襲う激痛が綯い交ぜになったような叫び声を上げ始めた。
悦楽とも悲痛ともとれる表情を浮かべながら、男の顔は黒い靄に包まれていく。
靄はやがて全身を覆い、そして男はその中へと呑み込まれて消えていった。
男を完全に喰らった後、早々に変化が起き始めた。
全身に脈動が走ったかと思うと、黒い靄が一点に収束され始めたのだ。
やはり予想は正しかった。
どういう訳だかは解らぬが、どうやら人間の感情が我に進化をもたらしているようなのだ。
変化するのに伴う快感と共に、より完璧な存在へと進化する悦びが我の全身を襲う。脈動の一つ一つが、その喜びを増幅させるのである。
そうしているうちに我の姿が変化を終了した。
それまで靄のような姿だった我の躰は一点に収束した後、真っ黒な影のようなものに変わった。
その影からは手足が伸び、目や口の付いた頭が一つ形成されている。
人のような形をしてはいるが、その総てが黒く覆われていて、まるで主人から解き放たれた人の影のように黒に覆われた姿形であった。
「き、き、きゅ、きゅうけ……つ……き……」
自分の手を見つめながら、その掌を閉じたり開いたりしているとすぐ近くから声が聞こえてきた。
その声のする方に目をやると、そこに居たのは先程喰らった男に陵辱されていた女だった。
半裸姿のその女は、涙と鼻水塗れの顔でこちらを見ながらひきつけを起こしている。
その恐怖一色に染まった表情に我の興味が湧き始めた。
「ひ、ひぃっ!!」
黒い影のような姿から覗き込む二つの眼球を見て、女は次は自分の番であるということを悟った。
必死に逃げようとしても、腰が抜けてへたり込んでしまって思うように動けない。
我はその女を間近でよく観察しようと、女の顔に密着しそうなほどに自身の顔を近づけた。
「……い、……い、いや……」
女はガチガチと歯を打ち鳴らし、何も纏わぬ腰の下に水溜まりを作り始める。
随分と恐怖の感情に支配されているようであるな。
これは何とも良い贄となりそうではないか。
そう思った我は、震えて動くことのできぬその女の首筋に我の歯を立てた。
そしてその後、我は声を発する事が出来るようになったのである。
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